袋のネズミ
崖を背にして建つデュノールの砦を、マルセル小隊長は苦々しい思いで見上げた。
古い城壁は長い年月風雪に晒され、あちこち崩れながらもなお堅牢な佇まいを残している。王軍が駐屯している現役の砦に比べると二百年は古い造りで、その無骨さは、蛮族との戦いが今よりずっと苛烈だった時代を想像させた。
王国の遺産に寄生するケダモノどもめ――マルセルは馬上から雪の上に唾を吐き捨てた。
彼の部下たちは砦に続く坂道を上り、城門の前に集合している。門といっても扉はなく、石積みのアーチが口を開けているだけだ。壁が壊れた箇所にも兵士を配置した。
彼らの動きに無駄はなかった。吹雪が吹き荒れる北方の国境線を、苛烈な訓練とともに生き抜いてきた精鋭たちだ。ネズミ一匹逃げ出す隙はない。
「バンドール家の令嬢はいかがいたしますか、閣下?」
部下の一人に尋ねられ、マルセルはほんの一瞬考えた。計画どおりであれば、今頃別動の傭兵たちが身柄を確保しているはずだが、まだ報告はない。
「奴らが失敗していれば、こちらの素性がバレたかもしれん。今攻めるしかない」
マルセルは淡々と答えて、口髭を撫でた。
王国南部に広大な農地を持つバンドール家は、単なる田舎の地主ではなかった。約百年前、某侯爵家が後継問題で揉めた際、嫡子の一人が爵位継承権放棄と引き換えに領地の一部を譲渡されたのが起源だ。
そんな名家の長女が人買いに拉致されたという。北の熊に連れ去られたらしいという親族からの訴えを受け、王軍の本部は国境警備隊に捜索を命じたのだ。
とはいえ、その命令の遂行は今回の急襲の口実に過ぎなかった。
「かかれ!」
マルセルは高く掲げた腕を振り下ろし、号令をかけた。
マルセルがデュノールの殲滅を画策し始めたのは、半年も前からだ。
それは、国境警備隊の一小隊を預かる者としての職業意識、街道の治安維持への義務感、国王への忠誠心――からではなく、より単純で切実な理由だった。王国内の綱紀粛正が徹底され始めたのである。
十八年前、アルボレダ王国は内紛をきっかけに隣国からの干渉を許した。その後『黒の山脈』の金鉱が涸れたこともあって、金産業で潤っていた王国はその国力を失った。
ところが昨今、内紛後に挿げ替えられた国王が成人し、内政の立て直しに力を入れ始めた。
若い王は理想に燃え、隣国の影響力を押し返すべく、身分や出自にかかわらず才ある者を重用した。同時に、この十八年で腐敗した統治組織から膿を出すことにも注力している。
当然に、北部国境警備隊もその対象だった。かつては勇猛果敢で知られていた国境警備隊が、ならず者たちと癒着しているという噂は王都にも届いている。雪が解け街道が開通したら、国王の勅命を受けた監査団の派遣が決まっていた。
マルセルとしては、何としても春までに収賄の証拠を隠滅せねばならなくなったのだ。
イザベル・ド・バンドールの捜索命令は、まさに渡りに舟だった。いつぞや街道警邏中に、熊の一団が若い娘を連れているのを見た。あれがそうだったに違いない。
マルセルは、娘を生かして帰すつもりはなかった。なぜなら、彼が銀貨の袋を受け取るところを見られてしまったからだ。
今なら、名家の令嬢を奪還する名目で、密輸王デュノールの根城を襲える。ついでに、戦闘のどさくさで収賄の目撃者も消せる。いや、そんな娘がいた証拠すら残らないだろう。
隊列の後方には、樽を積んだ橇があった。樽の中身は、可燃性の高い油だ。すべてが終わった後、用心深い小隊長は、この忌まわしい砦を焼き尽くすつもりでいるのだ。
「賊どもを一人残らず討ち取れ!」
扉のない城門は、何の抵抗もなく重装騎兵たちに突破された。
門を潜った先では、実に牧歌的な風景が広がっていた。家々の玄関先で男たちが雪掻きをしている。雪崩れ込んできた兵士たちを見て、彼らは飛び上がって驚いた。皆、丸腰のようだ。
奇襲が見事に成功したことを知り、マルセルはにんまりする。雪篦を振り回しつつ雪の中を逃げ惑うしかない敵の姿に、憐れみすら覚えた。
「首領は奥の屋敷の中だ。一気に攻め込め!」
騎馬に追い立てられた男たちは、命からがら居館の方へ逃げていく。彼らの粗末な家屋に比べると、城壁と一体化した三階建ての屋敷は堅牢だ。立て籠もるしか道は残されていない。
籠城を許す気などマルセルにはなかった。扉を破る大槌も、少量だが火薬も準備している。
賊の本拠地へ攻め入る先発の部下たちを眺めながら、彼はさらに家屋の捜索を命じた。もし敵が潜んでいたら背後を取られる危険がある。
兵の一人が馬から降り、いちばん近い家の玄関に近づいた。他の数人が後に続き、急襲に備えて腰の剣を抜いた。一呼吸おいて、最初の兵士がドアを蹴破る。
「……誰もいません!」
兵士は居間の真ん中まで足を踏み入れ、鼻を鳴らした。
「何やら妙な臭いがします。これは……酒か?」
暗い室内に目が慣れて、兵士が見たのは横倒しになった樽だった。床に強烈な臭いのする液体がぶちまけられている。そして、嗅いでいるだけで酔っ払いそうな、強烈なアルコール臭。
マルセルが不審げに眉を寄せた直後だった。
背後からきた轟音と突風に、彼は身を屈めた。
驚いた軍馬が嘶き、振り落とされそうになって慌てて手綱を引く。兵たちの中には落馬する者もいた。
ようよう振り向いた先で、今しがた潜ってきた頑丈な城門が音を立てて崩れるところだった。基礎の部分から煙を上げながら、巨人が膝をつくように内側に倒れていく。
退路が断たれた――そう気づいたマルセルが、次の指示に迷った時、
「おい! おっさん!」
威勢のいい声が頭上から降ってきた。
城壁の上に男たちが並んでいた。その数およそ二十――この砦の戦力のほぼ全員だ。
そのうちの一人、黒髪の若い男が壁に足をかけ、好き放題罵倒してくる。
「傭兵使って汚ねぇ真似してんじゃねえよ! おまえらの魂胆はとっくにお見通しだ! 賄賂の証拠消しに来やがったんだろ、この腰抜け野郎!」
「ちょっと黙ってろ、トリス」
若い男の後頭部をはたいて前に出てきたのは、ディミトリ・デュノールである。
彼は髭面を不機嫌そうに歪めて腕組みをした。
「貴部隊とは不可侵の取り決めをしていたはずだ、マルセル閣下」
「黙れ、誘拐犯め! 全軍、城壁の上の奴らを射殺せ!」
「仕掛けてきたのはそちら――お忘れなきよう」
冷ややかに告げて、ディミトリは手を挙げた。
それを合図に、手下どもが弓を構える。番えられた矢の先には火が点いていた。
冷たい空気を切り裂き、火矢が降り注ぐ。矢は、兵士たちではなく家屋の軒下に積まれた薪の山に刺さった。
一瞬にして爆発的な炎が噴き上がる。ただの火ではない。薪にたっぷりと塗布されたタールの炎だ。その炎は瞬く間に木造の家屋に燃え移った。
本当の爆発が続けてやってきた。雪で湿っているはずの家々が、内部から火を噴いて弾け飛んだ。居館へ向かっていた騎馬が勢いで吹き飛ばされる。屋内に撒き散らされた強い酒が、気化して強力な起爆剤に変わっている。すべて周到な罠だった。
「馬鹿な……水を、雪をかけろ!」
兵たちが叫ぶが、激しい熱に煽られた雪は溶解し、地面を底なしの泥濘へと変えていく。自慢の重装騎兵たちの足元が泥に囚われ、狂乱した馬たちが跳ね回った。
「撤退! 撤退!」
城門はすでに瓦礫と化しており、城壁の穴を見つけようにも凄まじい水蒸気で視界が効かない。
誘い込まれたのだ――マルセルはぎりぎりと歯噛みをした。いかれた北の熊は、最初から自らの村を焼き払う覚悟で、自分たちをこの巨大な炉の中に閉じ込めたのだ。
熱風が彼の頬を焼き、軍服の襟がじりじりと焦げる。
「おのれ、デュノール……!」
炎の爆音にかき消されながら、マルセルは天を仰いで絶叫するしかなかった。
「人はともかく、馬は焼けたら食えますねえ」
阿鼻叫喚の光景を見下ろしながら、トリスはのんびりと言う。
ほかの者たちも同じだった。炎上する村を前に平然としている。
手持ちの火矢をすべて放ち終えたエディモンが、肩を回しながら訊いた。
「あの抜け道で女子供を先に逃しておいてよかった。遠慮なく燃やせる。このまま全員焼け死ぬまでほっときますか、お頭?」
ディミトリはそれには答えず、城壁の上を横切り、反対側、外向きの鋸壁から顔を出した。
壁の外側では、こちらでも王軍兵が追い詰められていた。逃亡者を仕留めるために配置された兵士たちだったが、思いもしなかったであろう勢力に取り囲まれている。
フード付きの毛皮を纏った武装集団は、ルタ族――山岳地帯に住まい、冬の間デュノールと取引きを続けている唯一の蛮族だった。




