危険な逢い引き
一週間続いた吹雪が止んだ朝、空は透明な青に輝いていた。
朝食を終えた住人たちが、居館から、または村の家々から出てくる。吹雪の間は屋外での作業がろくにこなせなかったので、この降雪の切れ間は貴重である。
雪掻きや家屋の修繕を始める人々に交じって、イザベルも外に出てきた。久々の日光に、彼女は大きく背伸びをする。
食糧庫の在庫調査は、みっちりと励んだおかげで、四日ほどで完了の目処が立った。イザベルの集中力はディミトリの想像を凌駕していたというわけだ。
しかし作業をしているうちに、
(待って、これ何の役に立つの?)
と、とハタと気づいてしまった。
(もしかしてディミトリは、あたしを大人しくさせるために、しょうもない仕事をあてがったんじゃ?)
猛然と腹が立ってきたが、投げ出さない程度の思慮は身についていた。
やるならとことんやってやろうと決心し、オルガに頼んで食糧の仕入伝票を借りた。仕入れた量と現在の在庫が分かれば、冬籠もり中に消費された分量が計算できる。そうしたらこの先春までの消費量が予測できるし、来年からの適正な仕入量も算定できるはず。
(酒類を買いすぎだって指摘してやる)
その一心で帳面と睨めっこしていたのだが、そう簡単にはいかなかった。何度計算しても数字が合わない――。
すっかり煮詰まってしまったタイミングで雪が止んだので、気晴らしのためにもちょうどよかった。
雪だるま作りに誘ってくる子供たちを、大人は忙しいのよと追い払って、イザベルは背丈以上に降り積もった雪と格闘した。雪篦の使い方にはだいぶ慣れたが、作業量そのものは、ざくざくと雪をどけていくおかみさんたちの足元にも及ばなかった。
汗を流しつつ、ふと、トリスのことを考える。
一週間前に不格好な告白をし合って以来、話ができていない。屋内で時折姿を見かけても、さっと目を逸らして逃げてしまう。
(意気地なし)
そう苛立つと同時に、
(自分の問題と言ってたっけ。面倒なことになっているのかしら)
心配する気持ちも同じだけあって、どうにも落ち着かなかった。
それに、ここ数日ディミトリたちの様子が何やら忙しない。こんな時期に王都から手下の一人がやって来たし、他にも何人か見知らぬ男たちが出入りしていたようだ。外が吹雪いているにもかかわらず、だ。
「キナ臭いのはいつものことさ。ここの男どもは一人残らずお尋ね者なんだからね」
「そうそう、あたしらにとっちゃ危ないのが普通なんだよ」
イザベルの不安に、雪掻きをする女たちはそう答える。確かに、多少騒がしくなった程度で混乱していてはここでは暮らしていけないのだろう。
そういう世界で生きている――イザベルはトリスの言葉を生々しく思い出した。
「ほら、ちょっと!」
女の一人に肘でつつかれ、顔を上げると、居館の玄関先にトリスが姿を現していた。雪をどけたばかりの階段を降り、身軽な足取りで雪道をやって来る。
イザベルは急いで背筋を伸ばしたが、ずっと俯いて作業をしていたせいで腰がひどく痛んだ。雪篦で体を支えるような格好になってしまう。
野次馬根性丸出しの女たちの視線に臆せず、だが若干気まずげに、トリスはおはようと言った。
イザベルは半目になって、
「おはよう、ずいぶん久しぶりね」
「ちょっと話したいことがあるんだ」
トリスはそう言って少し間を置いた。どう説明するか迷っているふうである。
「ええと……前に約束したよな、また氷滑りに行こうって」
「う、うん」
「明日、一緒に行かねえか? そろそろ湖が全面凍結したと思うんだ」
(一週間も放っておいて、いきなりそれ?)
唐突な逢い引きの誘いに、イザベルは呆れた。思い詰めた様子だったから心配していたのに、馬鹿らしくなってしまった。
問題とやらはどうなったのよ、と問い質そうとした時、澄んだ金属音が響き渡った。
イザベルも、周囲の女たちも、いっせいに音の方を向いた――居館の方に。
三階のバルコニーにオルガの姿があった。以前に、イザベルが雪下ろし中のトリスと会話した場所である。オルガは城壁の内側を見下ろしながら、手にした鐘のようなものを振っている。
そう、それはまさに鐘だった。家畜の首につけるベルを大きくしたような、無骨で厚みのある鐘だ。磨き込まれた金属の肌が冬の陽光を鈍く跳ね返している。オルガはその木製の把手を握り、重みを微塵も感じさせない優雅な所作で、繰り返し腕を振った。
重く澄んだ金属音が、凍った大気を裂くように鮮やかに震わせて、村の隅々にまで行き渡る。紺色のドレスを風に揺らしながら、表情を変えずに鐘を鳴らし続けるオルガの姿は冷徹な女神のようで、息を飲むほど神々しかった。
「あの鐘は?」
「集合の合図だよ。さ、行った行った」
ナタリーがやって来て女たちに声をかけた。皆、作業を中断して居館の方に歩き出す。男たちも、遊んでいた子供らまで集まってきた。
「お頭がみんなを呼んでるんだ。イザベルも来てくれ」
トリスはさりげなくイザベルの肩を抱いて、先へ促した。
雪を触ったわけでもないのに、彼の掌はじっとりと湿っていた。
長く降り続いた雪は、厳寒の森をさらに過酷に変えていた。
立ち並ぶ針葉樹は厚く雪の衣を纏い、重たげな佇まいで項垂れている。下草や低木はすべて雪に隠されて、天井の低い真っ白な部屋に閉じ込められたような光景だった。
トリスは馬の手綱を引いて、膝の高さまで積もった雪道を歩いていた。慣れた道のりで迷うことはないが、その表情は硬く強張っている。
彼に緊張をもたらしているのは、冬の森特有の圧迫感ではなく、馬に積んだ荷物だった。長い毛並みをした北方産の馬の背には、鞍を跨ぐように大きな麻袋が乗せられている。麻袋の口は縄できつく縛られていた。
松の林を抜けると、やがて視界が広がる。あの湖だ。砦の住人たちが松脂採集をし、氷を切り出し、滑って遊んだ凍結湖である。
トリスは足を止め、白い湖面を眺めた。
あの時よりも氷は厚い。以前に切り出して運びきれなかった氷塊が、岸から少し離れた所に残されている。
「出てこいよ! その辺にいるんだろ!?」
張り上げた声は、積もった雪によって瞬く間に吸収されてしまう。
約束の相手はすでに待ち構えていたようだ。松の木の陰から二人の男が姿を現す。『鉄の蠍』の傭兵、タネルとヴォルカンだ。
あの夜、城塞から見た合図の光は、二日後にイザベルを連れて来いというものだった。場所は前回会ったあの場所。
しかし吹雪が続き、不慣れな彼女を連れ出すのが難しかったため、トリスは翌日ランタンで合図を送り返した。
吹雪が止んだら、その次の日に湖の畔で待つ――と。
「何で場所を変えた?」
タネルが不審げに睨めつける。相手の方が背は低いのに、トリスは見下ろされている気がした。
タネルは腰に短剣を、ヴォルカンは背に槌鉾を携えている。こちらがおかしな動きをすれば容赦なく襲ってくる。きっと他にも仲間が隠れているのだろう。長距離の射的が得意な奴もいたはずだ。
「雪が止んだら、砦の奴らはいっせいに狩りに出る。あの場所は目立ちすぎる」
周囲の気配を窺いながら、トリスは冷静に説明した。
それから馬の鞍の荷綱を外し、麻袋を抱きかかえるようにして雪の上に降ろす。口を縛った縄を解くと、中から長い栗色の髪の毛が覗いた。
半分ほど引き下ろされた袋は、そのままどさりと前に倒れ、外套を着た少女の上半身を吐き出した。後ろ手に縛られたうえに猿轡まで噛まされ、雪の上でぐったりしているのはイザベルだ。
ヴォルカンが手を叩いた。
「おいおい、ほんとにやりやがった。大したもんだぜ、小僧」
「お頭の目が厳しくて往生したぜ。騙して連れ出すつもりが途中で気づかれてさ、かわいそうだけど縛っちまった」
「それ、本物のバンドールの娘だろうね?」
「あの砦に若い娘は一人しかいねえよ。さんざん偵察してるんだし、そんくらい知ってんだろ」
疑り深いタネルの念押しをさらりと躱して、トリスはイザベルの肩を揺すった。
麻袋に足を突っ込んだまま冷たい雪の上に転がされていたイザベルは、ようやく顔を上げた。朦朧とした様子で周囲を見回している。
ヴォルカンがイザベルに近づき、その顎を乱暴に持ち上げた。榛色の目が大きく見開かれた。彼女は猿轡の奥でくぐもった悲鳴を上げ、身を竦ませた。
「確かに育ちのよさげな上玉だ。デュノールのおっさん、こういうのが好みか」
値踏みをするようにイザベルを眺めるヴォルカンに、トリスは興味もなさげに訊いた。
「金になるって言ってたよな。どっかに売り飛ばすのか?」
「そんな勿体ねえことしねえよ。この娘を無傷で連れて行けば、報酬に上乗せがあるんだ。よかったな嬢ちゃん、あんた家に帰れるんだぜ」
トリスは、へえ、と呟いた。タネルがヴォルカンの背に拳を当てる。
「ここでペラペラ喋るな。仕事は完了だ。行くぞ」
「待てよ」
トリスが両手を挙げて、イザベルと二人との間に割って入った。
「引き渡す前に、ひとつはっきりさせてほしい。今頃この娘がいなくなったと分かって、俺が疑われてるはずだ。もうあの砦には戻れない。俺の分の報酬は、誰がどうやって保証してくれるんだ?」




