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なかったことにはできない

 砦が狙われている、と聞いても、ディミトリの表情はほとんど変わらなかった。


「よく知らせてくれた」


 そう言って、倚子の背凭れに深く身を沈めただけだった。その淡泊な反応を、立ったままのトリスはむしろ心強く感じた。

 ディミトリの執務室である。オルガも、バティストでさえも同席はしておらず、彼はトリスだけを呼んで報告を聞いていた。


「上手くいってホッとしました。あんな大口叩いてヘマやったら格好がつかないっすよね」


 ディミトリの反対を押し切り、任せてくださいと単身で森へ出かけて行ったトリスは、頭を掻いた。


 夜の見張り中に怪しい光を見たこと、それはおそらく『鉄の蠍(デミル・アクレプレル)』からの合図であること、その場所に赴けば何らかの情報が得られるであろうこと――トリスは逐一ディミトリに報告をしていた。

 森の中で『鉄の蠍』のタネルとヴォルカンに言ったことは嘘である。実際は、ディミトリにパスカルの遺した鉄の爪の出所について問われた時、一瞬の逡巡もなく本当のことを答えていた。古巣の傭兵団で使っている奴を見たと。

 その選択をさせたのは、忠誠心などという大仰なものではない。命を落とした友人への義理立てとも違う。いちばん近いのは()()だと思っている。ここにある公平さを担保するための、筋道。イザベルはそれを恩返しと呼んでいたか。


 トリスは軽く首を振った。


「用があって北に戻ってきたと言ってました。誰かに雇われてるんだと思いますが、そこまでは聞き出せませんでした」

「無理もない。傭兵は信用が第一だからな」


 ディミトリの言葉に、トリスは苦々しく肯く。

 確かに『鉄の蠍』は義理よりも報酬を重んじるが、請け負った仕事を完遂する自負があってこその信条だ。簡単に寝返ったり秘密を漏らしたりする傭兵には、二度と仕事は回ってこない。


「雇い主に心当たりは?」

「ありすぎる。恨みなら山ほど買っているさ」

「でもお頭、傭兵の手を借りようと、デュノールに喧嘩売って勝算のある奴らなんて限られてますよ。王都の商人組合か、強欲なクーシ族の連中か、ちょっと前に揉めた『闇の谷(ヴァルノワール)』一家か、あとは……」


 次々と容疑者の名を挙げていくトリスを、ディミトリは感心したように眺めた。しかしすぐに、トリスは自分の思い違いに気づいた。


「……でも、こんな雪の中を攻め込んでくる理由がないか」


 冬期、雪と氷に閉ざされた『黒の山脈』の砦は、まさに天然の要塞になる。南の王都からであろうと、山向こうからであろうと、砦を落とせるだけの軍勢が移動するのはあまりに困難だろう。襲ってくるにしても、雪解けを待ってからの方が現実的だ。だからこそディミトリは少ない手勢で冬籠もりができるのだ。

 ディミトリは肯き、


「ごく少人数の奇襲なら別だがな。多勢を率いて雪の山道を進むほどの機動力となると、そう簡単には……」


 そこまで言って、ふと視線を執務机の上に止めた。何か、思いついたように。


「お頭?」

「いや……それで、トリス、おまえは何で呼ばれたんだ?」

「はい?」


 敵対勢力について推理を巡らせていたトリスは、いきなり問われて間の抜けた声を出した。ディミトリは黒い鉱物のような目で彼を見据えている。


「昔の仲間は、何か用があっておまえを呼び出したんだろう?」

「あー、ええと、裏切ってこっちにつかないかと」

「本当か?」

「……嘘です、すんません。イザベルを誘拐して来るように言われました」


 隠し通すのは無理と悟り、トリスは白状した。ディミトリの顔色が変わって、身が縮む思いだった。


 イザベル・ド・バンドールという娘は金になる。戦いに巻き込まれる前に(さら)ってこい――タネルとヴォルカンに依頼された内容を説明すると、ディミトリは眉間の皺をますます深くした。怒りというより、痛みに耐えているように見えた。

 イザベルが狙われていることを通してその後ろにある事実に気づき、危機感を覚えたのではないか――トリスはにわかに不安になる。


「名指しであの子を攫えと言われたんだな?」

「はい。彼女の姓まで把握してました。何か思い当たることでも?」

「まだ情報が足りない……が、思ったより厄介なことになるかもしれん」


 ディミトリは硬い声で不吉なことを言った。トリスがその意味を問う前に、


「おまえは奴らからの次の合図を待て。俺の方でも動く」


 と、話を切り上げようとした。

 トリスは机越しに身を乗り出す。


「イザベルには教えますか? 彼女も危険なんでしょ?」

「何も言わなくていい。無駄に怖がらせるだけだ」

「でも……」

「ちょうどいい機会だから言っておく。あの子のことは諦めろ。住む世界が違う」


 取りつく島もないほど端的に告げられて、トリスはぐっと言葉に詰まった。

 ディミトリの声や表情から、嫉妬心や独占欲を感じ取れれば、まだ対抗できた。いい年をしてあんな若い娘に、と軽蔑すら湧いたかもしれない。

 だが彼が口にしたのは、部下に対するただの命令であった。冷淡で峻厳で、いっさいの反論を許さない。

 

 ここへ報告に来る前、トリスは地下の食糧庫でイザベルを抱き締めた。もしも俺が――その続きを、トリスは胸の中で反芻する。

 もしも俺が一緒に逃げてくれと言ったら、ついてきてくれるか?

 イザベルの出自もディミトリとの関係も、現在の恩義も過去の腐れ縁も、知ったことか。何もかも投げ出して、誰の思惑も届かない所まで二人で逃げてやる。ほんの一瞬ではあったが、トリスはそんな衝動に駆られたのだ。


「お頭……ひとつ訊いてもいいですか?」


 トリスは喉の奥から声を絞り出した。


「イザベルはお頭の恩人の娘だと聞きました。もしパスカルのことがなくて、イザベルが事実を知らないままだったら、お頭は何も言わないつもりだったんですか?」


 ディミトリは迷うことなく肯いて、住む世界が違う、と繰り返した。


「やむを得ず連れてきてしまったが、俺やおまえはあの子の人生に関わるべきではない。毛ほどの影響も与えたくない。俺に許されるのは、巣から落ちた雛鳥を元の場所に帰してやるだけ。ここでの思い出など忘れてしまうのがあの子のためだ」

「本気で言ってるんすか、それ……」


 トリスは、自分でも驚くほどの憤りを持って首領を睨みつけた。

 訳の分からぬまま見知らぬ土地で過ごして、故郷に帰されて、自分の身に起きたことの意味を知らず一生を過ごすなんて、あの娘が納得するとは思えなかった。そう断言できるくらいには、トリスはイザベルのことを知っている。

 本当は、ディミトリも知っているはずなのに。


「イザベルはそんなふうには思ってません。彼女はお頭に……ここのみんなに恩返しをしたいって言ってました」


 その素朴で真っ当な思いが、捨て鉢になりかけていたトリスを我に返らせたのだ。逃げたくなっていたのは自分だけ、彼女は自らの境遇を前向きに受け止めようとしている。


「お頭は出会いってものを軽く見てる。イザベルだけじゃない。オルガさんも俺も、あんたに助けられて否応なしに人生が変わった。なかったことにはできませんよ」

「他人の人生に責任が持てるほど、俺は立派な人間じゃない」

「責任とかどうでもいいんです。ただ……俺が助けたんだぞ感謝しろって、もっと()()()()してほしいだけなんですよ! 俺らしっかり働きますから!」


 口走ってしまってから、さすがに訳が分からなすぎる、これは殴られる、とトリスは目を瞑った。

 全身に冷や汗を掻いて怒鳴られるのを待っていたが、聞こえてきたのは吐息のような忍び笑いだった。

 薄く目を開けると、ディミトリは首を斜め下に向けて笑っていた。非常に珍しいことである。


「そうか、俺は偉そうに見えないか」

「はい……あ、じゃなくて、その」

「おまえもいろいろ考えているんだな」


 ディミトリは頬の傷に触れるように灰色の髯を撫で、倚子ごと体を窓の方に向けた。

 高い位置にある格子窓からは、鈍色の空が見えた。また雪が降ってきそうだ。


 その時、執務室の扉が鳴った。

 返事を待って顔を出したのは、渋い顔をしたバティストだった。


「トリス、おまえ声がデカすぎだ。外まで筒抜けだぞ」

「す、すんません」

「お頭、フィルマンが来ました。急ぎお伝えしたいことがあると」


 トリスばかりか、ディミトリにも緊張の気配が走る。

 それは、王都でディミトリの留守を預かっているはずの部下の名前だった。

  



 雲行きから予想したとおり、夕方から吹雪になった。

 夜になって風雪はますます激しさを増し、そんな中、トリスは見張りの当番を買って出た。

 もちろん『鉄の蠍』からの合図を見逃さぬためである。


 トリスは城塞の上で足を止め、吹きすさぶ風の中、南東の森に向かって目を凝らした。殴りつけるような雪のせいで視界はひどく悪いが、『鉄の蠍』が通信用に使うランタンは鏡を使った改良が施されており、悪条件でも光源を視認できるはずだった。


 予想どおり、それは見えた。

 以前とは異なるパターンの点滅――イザベルを連れ出す日時と場所を指定するものだった。

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