その気持ちを何と呼べば
身じろぎをする間もなく、イザベルはトリスの胸にすっぽりと包み込まれていた。
頬に息がかかる。腕の力はさほど強くないのに、しなやかな骨格の感触が伝わってきた。
手から離れた帳面が床に落ち、鉛筆が転がった。トリスは黙ってイザベルの髪に顔を埋めている。
突然の抱擁にイザベルは驚いたが、すぐに心配になった。トリスの体がかすかに震えているのに気づいたからだ。
背中から肩を巻き込み、腹の上で組まれた腕はひどく熱い。
「どうしたの、トリス? 何かあった……?」
彼の手に触れてそう訊くと、首の後ろでふっと笑う気配がした。
「イザベルはここが好きかい?」
振り向いて顔を見ようとしたら、腕に力が籠もった。背中に感じる肉体の感触と温度は、少し息苦しいくらいだった。
「お頭やオルガさんやバティストさんや、ここの連中……この砦での暮らし全部、気に入ってる?」
トリスの問いが思いがけず真摯だったので、イザベルはまとまらない気持ちを懸命に言葉にした。
「気に入ってることと、そうじゃないことと、たぶん両方あるんだけど……いちいち考えなくても過ごせるくらい馴染んだとは思う。トリスだってそうでしょう? 氷の湖を滑るのは好きでも、狩りは苦手。雪掻きだってほんとはやりたくない」
「まあ、そうだね」
「でも自分がここに来た理由は分かった。だから今度は、ここにいる意味を見つけたい。春までの……短い間だけどね。あたしにできることを残していきたいわ」
母との縁で彼女を救ったディミトリの思惑はともかく、イザベルはイザベルとしてディミトリに恩を返したいと思っていた。
トリスはしばらく黙っていた。気まずくなったイザベルが問いかけようとすると、
「もし……もしも、俺がさ……」
そう、呟く。声は軽やかだったが、なぜか思い詰めた響きがあった。
何かとんでもないことを打ち明けられる気がして、イザベルは身を強張らせる。抱き締められていることを今さらながら意識して、鼓動が速まった。
しかし、トリスは結局その続きを言わなかった。
ほんの数秒そうしていて、腕を解いた。床から帳面と鉛筆を拾い上げ、イザベルに渡す。
「ごめんごめん、びっくりさせたな」
「もしも、って……何?」
「もしも俺が嫁さんになってくれっつったらどうする、って言おうとしたんだよ」
真っ赤になるイザベルの前で、トリスは彼らしく微笑んだ。何ら後ろめたさを感じさせない、あっけらかんとした笑みだった。
「きゅ、急に何てこと言い出すのよ!?」
「だってほんとのことだし。俺、イザベルに惚れてるんだよ。大好きだ」
(嘘つき)
イザベルは露ほども信じられなかった。告白の方ではなく、もしもの続きに関してである。
さっき言いかけた言葉は明らかにそんな口調ではなかった。都合の悪いことをつい口走ってしまって、過激な内容で上書きしようとしているのだ。
(よりによって、好きだ、なんて)
そんな大切な言葉を、その場しのぎの煙幕に使うなんて、お互いの胸の奥にある温かいものを見くびられているようで、無性に腹立たしかった。
だから、帳面を抱えてトリスを睨みつけた。
「知ってるわよそんなこと。とっくに知ってる。あたしだってあなたが好きなんだから」
「え……」
「でもそれ言うの今じゃないわよね!」
トリスは目を丸くして固まった。思いも寄らない反撃だったらしい。
イザベルはふうと息をつく。そう、たちの悪いことに、トリスの気持ちの真実性には確信があった。
ただの義務感から親切心、同情、友情、そして特別な何かへ――自分に向けられる眼差しの変化に気づかぬほど鈍感な娘ではなかった。いつだってトリスは自分を大切にしてくれて、おそらくディミトリから命じられている以上に世話を焼いてくれていた。
目が合う度に楽しげに微笑む、あの表情は演技ではないと、自惚れではなく信じていた。
(だいたい、好きでもない女の子をいきなり抱き締めないでしょ)
そしてまたイザベルの方も、トリスを憎からず思っている。
見知らぬ土地で粗野な男たちに囲まれ、その不安から親切なトリスに依存してしているのだと最初は思っていた。でも振り返ってみれば、彼はいつだって特別だった。
あの宿で救われた時、旅の途中で逃亡して捕まえられた時、しもやけを温めてくれた時、手を繋いで村の中を歩いた時、凍った湖の上を一緒に滑った時、友人の死に涙を見せた時――どの記憶も、彼女の中では掛け替えのないものになっていた。
それが大人たちの語る愛と呼べるほど深くて重いものなのかは、まだ分からない。けれど確かなのは、今目の前のこの人を放っておけないという切実な願いだけだった。
イザベルは尖った視線を和らげて、トリスの青みがかった瞳を見詰めた。
「あなたは口の上手い男だけど、あたしに対してそういう嘘はつかないと思ってる。つまり、それよりヤバいことを隠そうとしてるんだよね。ねえ、話してくれない? 何か力になれることがあるかもしれないわ」
「イザベル……」
「ディミトリに内緒にしてほしいなら、あたし絶対に黙っておくから」
「……敵わねぇな……」
トリスは夏の日射しを避けるように眩しそうに顔を顰めて、頭を掻いた。
「分かったよ。ちゃんと話す。でも今は無理だ」
「いつ話してくれるの?」
「俺自身の問題が片づいたら。でも信じてくれ。何があっても、あんたは必ず家に帰してやる」
トリスはイザベルの両肩に手を添えた。もう震えてはいなかった。
彼を迷わせていたものは去ったのだとイザベルは知り、切なくなった。
(違う、そんな言葉が欲しいんじゃない。あたしは……)
自分でも答えが見つからず、イザベルは一歩踏み出した。トリスがこれ以上もう何も言わないのは分かっていた。それでも――。
呼吸が触れ合うほどの距離まで近づいた時、トリスの目がイザベルから逸れ、上方へ動いた。
階上の倉庫から、扉が開閉する音が聞こえた。
「びっくりした! トリス、いたのかい?」
バティストの妻ナタリーは、階下の倉庫へ続く扉から出てきたトリスに驚いて、むっちりとした体を竦ませた。彼女は手押車にライ麦粉の麻袋を乗せているところだった。
傍らにはオルガがいる。冬の食糧備蓄は村全体で共有されており、配給を管理するのは彼女の役目だ。
オルガからイザベルの新しい仕事について聞いていたナタリーは、にんまりと笑った。
「下の倉庫でイザベルが仕事してんだろ。さっそくちょっかい出しに来たんだね」
「んなことしたらお頭にぶっ殺されますよ。ちょっと話してただけですって」
トリスはおどけて、昼メシ食ってきます、と出て行ってしまった。ちょっと恥ずかしそうな表情は、仕事中に女の子とお喋りしていたのを見咎められた若者そのもので、不自然なところはなかった。
ナタリーは愉快そうにオルガを見るも、オルガが沈んだ表情をしているのに気づき、首を傾げた。
その後すぐに、今度はイザベルが姿を現した。
さきほどのトリスとは対照的に、イザベルはずいぶん疲れた様子だった。
「あ……ナタリーさん、こんにちは」
「お疲れさん。ずいぶん面倒な仕事を任されたらしいじゃないか」
「ええ、まあ、何とかやってます。オルガさん、一区切りついたから休憩してもいい?」
「もちろんよ。あまり根を詰めすぎないでね」
オルガは優しく声をかけた。イザベルは伸びをした後、重い足取りで外へ出て行った。
何となく事情を――オルガの心情も含めて察したナタリーは、大きく溜息をついた。オルガは目を逸らし、気怠げに呟く。
「若い子はいいわね。お互いに知らないことがたくさんあるから、歩み寄れる余地が残ってる。それに、その気になればどこへだって行けるわ」
「あの二人にどっかへ行ってほしいのかい?」
オルガは苦い笑みを浮かべた。若い二人の不器用さに対してではなく、自身の愚かしさに向けられた笑みだった。
それが泣き顔に見えて、ナタリーは十年も前の焼け爛れた少女の姿を思い出した。火傷は癒え、髪が伸び、本来の美しさが花開いても、彼女はずっと何かを怖がっているのだった。
わざと大袈裟に笑い、ナタリーはがさつな仕草でオルガの肩を抱き寄せた。
「あんたは立派な熊の女房だ。美人で気立てがよくて度胸があって、ここの連中みんなに慕われてる。胸を張りなよ」
「でも……私では代わりにはなれない……」
「馬鹿だね、オルガはオルガだろ。心配しなくてもお頭はあんたに惚れてるよ。見てりゃ分かる。分かってないのはあんただけさ」
オルガは小さく肯いた。ナタリーの明るい笑顔につられたのか、その体から少しだけ強張りが取れたようだった。




