鉄の蠍
裏口で絞めた鶏の羽を毟っていると、トリスが出て行くのが見えた。
いつもの二本の短剣の他に、弓と矢筒を背負っている。
「おはよう! 今日はウサギ獲れそう?」
イザベルが呼びかけると、トリスは自信なさげに肩を竦めた。
「何とか頑張ってみるよ」
「一人で行くの? 気をつけてね」
返事の代わりにひらひら手を振って、城壁沿いに去っていく。たいてい森での狩りは複数人で出かけるのだが、今回はトリスは単身らしい。
その後ろ姿はすっかり以前のとおりで、イザベルは安心した。葬儀の前日に見舞いに行って以来、落ち着いて話をする機会がなく、少し気になっていたのだ。
泣いている彼を抱き締めたことを思い出すと、今さらながら顔から火が出そうになる。友達なら当然の対応だと思いつつも、十七歳の少女は平静ではいられなかった。
誰に見られているわけでもないのに、イザベルは何度も頬を擦った。できることなら、庇の下の雪溜まりに頭を突っ込みたいくらいだった。
だから、ここにいたのねと声をかけられた時、飛び上がりそうになった。
裏口から姿を現したオルガは、イザベルを見てくすっと笑った。頬にくっついた鶏の羽毛を摘まんで取ってやりながら、
「イザベル、あなたはもう正式なお客様なんだから、家事をする必要はないのよ」
「そんな……あたしの立場は何にも変わってないでしょ。これまでどおり働かせて。ぐうたらしてたら太っちゃう」
「そう言うと思ったわ。いらっしゃい。ディミトリがあなたに新しい仕事を頼みたいって」
イザベルの目が輝く。ディミトリから何か頼まれるのは初めてだった。
鶏の処理を他の料理番に任せて、イザベルはオルガについて屋内に引っ込んだ。
連れて来られたのは、居館と棟続きになっている倉庫だった。石壁に囲まれて薄暗く、ひんやりとしている。
面積は食堂の二倍ほどもあるのに、異様な圧迫感を覚えるのはぎっしりと積まれた木箱や麻袋のせいだろう。
「秋に買い付けたひと冬分の食糧よ。あなたにはここの在庫調査をお願いしたいの」
オルガは持ってきたランタンを壁のフックにぶら提げた。
「これ全部?」
「そう。何がどれだけ残っているか、数えて記録するのよ。お酒や加工肉はこっち……地下室にあるから」
唖然とするイザベルの前で、オルガは奥のドアを開けた。そこには、さらに地下へと続く階段があった。
倉庫をあとに玄関ホールの方へ戻ったオルガを、渋い顔のディミトリが待ち構えていた。
「どうだ?」
「頑張るって」
オルガは素っ気なく答えた。大量の備蓄を前に尻込みするかと思いきや、イザベルは意気込んで腕まくりをしたのだ。
ディミトリは眉間の皺を深くする。労働力の一端を担いたいと主張するあの娘に、干肉の塊やら小麦粉の袋やら葡萄酒の樽やらを数えさせておくことにしたのは、ひと冬の暇潰しになるだろうと考えたからだ。根を上げたらホレ見たことかと言い含めて余計な手伝いを諦めさせようと、そんな算段をしていた。
オルガは溜息をついてディミトリを見上げた。
「食糧は多めに仕入れているんだし、細かく管理なんてしてないでしょう。何でわざわざしてもしなくてもいい仕事を言いつけたの? 今までどおり家事をさせればいいじゃない」
「悪い虫がつくといけない」
ぼそりと漏れた短い言葉に、オルガは彼の真意を察し、改めて呆れた。
要するに、イザベルが女中仕事をしているうちに手下の――特に若い男と仲良くなるのが気に入らないのだ。だから別の、時間のかかる課題を与えて隔離しようと。
「……ほんとにお父さんみたいね、あなた」
「トリスには絶対に手伝わせるなよ」
「野暮が過ぎるわよ、ディミトリ。私はあの二人、とってもお似合いだと思うけれど」
お頭ちょっといいですか、とバティストが二階へ至る階段から呼びかけた。オルガに言い返そうとしていたディミトリは、喉の奥でぐうと唸って言葉を引っ込めた。
議論を打ち切って階上へ去って行くディミトリを、オルガの青い目が睨みつける。疑念と憤りに燃えていたそれは、すぐに、やるせなげに煙った。
トリスは足早に森の中を進んでいた。
降り積もった雪は深く、底に板をつけた雪靴を履いていても歩きづらい。彼は息を弾ませながら、ある場所に向かった。
城門を出て南東の方角である。いつもの狩り場ではなかった。
樅の林で足を止めて振り返ると、木立の向こうに砦の城壁が見えた。
「たぶんこの辺だよな」
砦との距離感を測りつつ、トリスは辺りを見回した。
昨夜、城壁で見張りをしている時、森の中でおかしな光を見た。それが発せられたと思われる地点に足を運んでみたのである。
一晩中降り続いた雪のせいで、足跡の類いはまったく残されていなかった。しかし、あれはどう考えても人為的な光である。しかも、一定のリズムで繰り返されるあの点滅は――。
雪の上や木の幹に人間の痕跡を探しながら、トリスは何も見つからないことを願った。ただの見間違い、勘違いであってくれたなら、無駄足で済む。
トリスは一本の樅の木の前で立ち止まった。
目つきを鋭くし、呼吸さえ止めて、五感を集中させる。
明らかに異質な気配を感じたのだ。何か――いる。
彼は肺に溜まった息を静かに吐きながら、両手を腰の後ろに伸ばした。彼の得物――曲した二本の短剣を抜くまえに、しかし、勢いよく横へ跳ぶ。
間一髪、今まで彼のいた場所に、頭上から黒い何かが落下した。枝の上から飛び降りてきたのは、黒い毛皮を纏った人間だった。小柄な男で、両手に短剣を持っている。トリスのものより短いがそのぶん幅広の剣で、彼が避けなければその首を切り裂いていただろう。
雪の上を転がって受け身を取ったトリスは、素早く起き上がった。すでに両手に短剣を構えている。相手に体勢を立て直す暇を与えず、猛然と斬り込んでいく。
だが、その視界を雪が被った。襲撃者が飛び降りたことで樅の枝がたわみ、葉から大量に落雪したのだ。
足を止めざるを得ないトリスに、襲撃者は地を這うような低い姿勢で突っ込んできた。
短いリーチで繰り出される左の斬撃を左で止めると、冷たい金属音が鼓膜を打った。次に右、さらに左――相手の攻撃は苛烈だったが、トリスはすべて見切って防いだ。
防げないはずがない。彼にとっては何度も手合わせをした相手である。
「タネル!」
トリスが右を弾くと同時に左で斬り込み、そう叫んだ。小男の襲撃者は軽やかに後ろに跳躍し、細い顔を笑いの形に歪めた。
「よう、小僧、勘は鈍ってないな」
異国の単語と訛りが混じった話し方も、聞き慣れたものだった。
なんであんたが、と訊こうとして、トリスは身を捻った。横合いから別の攻撃が振り下ろされたのだ。
長い柄の先に紡錘形の頭部がついた、いわゆる槌鉾である。雪の上に鋼鉄の塊がめり込み、すぐに同じ勢いで跳ね上がった。
槌鉾が再び打撃の体勢に入るまでの隙を突いて、トリスはその使い手の懐に潜り込もうとした。浅黒い肌と頬髭の大柄な男である。こちらもよく見知った相手だった。
「ヴォルカン……!」
「おっと」
鳩尾にとてつもなく重い衝撃を食らって、トリスは吹っ飛ばされた。
振り下ろされる一撃を警戒したトリスの裏をかき、男は槌鉾の長い柄を水平に突き出してきた。距離を詰めようと前傾姿勢になっていた彼の胴へ、鋼鉄の塊が文字どおり突き刺さるように叩き込まれたのだ。
「視界が狭いのがおまえの欠点だ。何度も教えただろ」
腹を押さえて呻くトリスを、その男は冷ややかに見下ろした。猛禽を思わせる目つきだ。
とはいえ、手加減したのは明白だった。全力であの金属が叩き込まれていたら、肋骨どころか内臓まで潰されていただろう。
込み上げる吐き気を堪えながらトリスは両手の剣を構えたが、首筋に鋼の冷たさを感じた。最初の襲撃者に背後を取られ、短剣を突きつけられたのだ。
「……人を呼びつけといてこの仕打ちかよ」
トリスは大きな溜息とともに毒づいた。
「あの光はあんたらの仕業だったんだな。あの点滅は集合の合図だ」
「そうそう、ちゃんと覚えてて偉いぞ」
小男の方が小馬鹿にしたように言って、短剣を引っ込めた。
トリスもまた剣を鞘に収めたが、視線は油断なく二人の訪問者を捕らえている。
「生きてやがったか、ヴォルカン、タネル」
「そりゃこっちのセリフだ、トリス坊や」
「よく言う。俺がここにいるって知ってたから、あんな合図を出してたんだろ?」
大柄と小柄、二人の男は顔を見合わせてニヤリとした。
「あの指のないおっさんがしくじってから、毎晩ここで照らしてた。当番でおまえも見張りに立つって聞いてたからな。早めに気づいてくれて助かった」
自分以外の者があの光を発見して、意図は分からないにしても、出所を探りにやって来たらどうしたのか。身を隠してやり過ごしたか、それとも片づけてしまうつもりだったのか――彼らならそのどちらも可能だっただろうと思えて、トリスはぞっとした。
訊きたいことは山ほどあった。そのすべてをひとまず脇に避けて、
「あの武器……鉄の爪をパスカルに渡したのはあんたらだな」
そう、トリスは自らの古巣、傭兵団『鉄の蠍』のもと同僚に向けて尋ねた。




