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瞳の色は

 イザベルがトリスを見舞ったのは昨日のことだ。

 凍死しかけたイザベルではあったが、奇跡的に大きな怪我は負っておらず、二日ほどで回復した。トリスもまた狼の傷により発熱して寝込んでいると聞き、動けるようになってすぐ様子を見に行ったのだ。


 トリスの寝床は、五、六人が同居する雑然とした大部屋の、出入口にいちばん近いベッドだった。他の男たちは翌日の葬儀の準備に忙しく、部屋には彼一人だった。

 眠っているかと思ったが起きていて、イザベルの来訪にひどく慌てた様子を見せた。


「あ、そのまま寝てて……まだ熱あるの?」

「もうほとんど下がったよ。イザベルこそ休んでなくていいのかい?」


 彼は枕に凭れて半身を起こした。寝癖のついた黒い髪を何度も撫でつける。顔色は悪くなく、イザベルは少し安心した。


「すっかり元気よ。あたしを見つけてくれたって聞いて……ありがとうね」

「いや……あんたを担いで崖を登ったのはバティストさんだよ。ほんと災難だったな。怖かったろ?」


 怪我人のくせにイザベルの心配ばかりしている。イザベルはなぜだか泣きそうになってしまって、顔を背けてごまかした。その辺にあった倚子を引き寄せて腰を下ろす。

 トリスは左袖をまくって包帯を見せた。


「噛みつかれたけど、狼を二頭も倒したぜ。今度、毛皮を(なめ)すのを手伝ってくれよ。帽子と、外套の襟にするんだ」


 声は明るかったが、彼の友人の死に様を聞いているイザベルはどう答えていいのか分からなかった。煖炉で薪がパチパチ爆ぜるのが、やけに大きく聞こえる。

 トリスはベッドの上で膝を立てて、そこに顎を乗せた。


「……あいつの形見みたいなもんだからな。大事にしねえと」

「エンゾのこと……残念だったわね」

「明日は笑って送ってやってくれ。しめっぽいのや真面目なのが嫌いな奴だったからさ」


 トリスは横顔のまま苦笑して、それから遠くを見るように目を細めた。


「俺がデュノールの仲間に加わったいきさつは聞いてる?」


 イザベルは小さく肯いた。

 彼を拾った南方の傭兵団は、王都の商人組合に雇われ、デュノールと対立し、壊滅させられたのだという。多くが命を落としたが、若いトリスは助命されて一味に受け入れられた。


「ここに来た頃さ、余所者の俺にあいつ、何かと突っかかってきやがってさ。俺も我慢できずにやり返すから、しょっちゅう揉めてた。そしたら見かねた周りの連中が止めるだろ。何度もそんなこと繰り返すうちに、俺はあいつの喧嘩相手として何となく周囲に認められて、いつの間にかここに馴染めてた」


 懐かしそうな口調に、イザベルの脳裏にもその光景が浮かぶようだった。孤立していた少年にとって、喧嘩腰であったとしても、構ってもらえたのは嬉しかっただろう。


 その死を深く悼めるほど親しい間柄ではなかったが、イザベルは、トリスが掛け替えのない仲間を喪ったことに責任を感じた。

 パスカルの復讐実行のきっかけを作ったのは自分だ。自分がいなければ、エンゾがディミトリの手紙を預かることもなかった。

 イザベルは膝の上でエプロンを握り締めた。


「ごめんなさい。あたしがここに来たせいで……」

「それは違う」


 トリスは即座に否定した。


「エンゾはお頭の仕事をやり遂げようとした。それはあいつの意志で、選択で、判断だ。誰かのせいでそうなったなんて考えは、あいつに失礼だ」


 彼女を映す黒い瞳は、鉱物のように冷たく毅然としていた。


「あんたが来なくても、パスカルはいつかやっただろうよ。その時に犠牲になったのはやっぱりエンゾだったかもしれねえし、他の奴だったかもしれない。もしかしたら俺だったかも。たまたま、あいつが当たっちまったんだよ」


 イザベルは自らの手を見る。崖の上で、瀕死のパスカルに止めを刺したのは彼女だ。冷えた短剣の感触と生温い血飛沫の臭いをまだ覚えている。

 だが、心のどこを探しても後悔や罪の意識はなかった。そしてトリスの語る意味が分かる気がした。相手が死に彼女が生きているのは、()()()()なのだ。


「俺らはみんな、いつかは()()に当たる。他人を殺している以上、自分が同じ目に遭っても文句は言えねえ。そういう世界で生きてるんだ」


 あんたは違う――声に出さない言葉が聞こえた気がした。ここの(のり)に染まる前に、もといた場所へ帰れ、と。

 ディミトリもトリスも同じ血の通う人間だと理解できた今だからこそ、立っている場所の違いが悲しいほど身に染みた。


「分かった。謝るのはやめる。明日は泣かないわ」

「にしても、まあ……ちょっと早すぎるよな……」


 トリスは溜息とともに笑った。笑って、目の上を手で覆った。

 その手の下から、滴が頬を伝う。

 寝間着の肩が震えるのを、イザベルは呆然と見詰めた。かける言葉が見つからず、でもその震えを止めようと、手を伸ばして彼の肩に触れた。


 崩れるように傾いたトリスの頭を、イザベルは受け止めた。

 ベッドの端に腰掛け直して、肩を貸してあげた。トリスは声を押し殺して泣いている。また熱が上がってきたかと心配になるほどその体は熱く、息遣いは弱々しく感じられた。イザベルはひたすら彼の背を撫でることしかできなかった。


 どのくらいそうしていたか――。


「ごめん、もう大丈夫だから」


 トリスは鼻水を啜り上げながら身を離した。目の縁と鼻の頭が赤くなっていることを除けば、泣いていた余韻は残っていない。口元には照れ笑いさえ浮かんでいた。 

 彼の瞳の色に、イザベルは初めて気づいた。

 黒ではなく、虹彩の部分は暗い青だ。晴れ渡った夜空の色。こんなに近くで見詰め合うまで知らなかった。


「みっともないとこ見せちまった」

「そんなこと……」


 ないわ、と言う前に、ノックの音が響いた。

 イザベルは慌てて倚子に戻り、トリスは濡れた頬を袖で擦った。


 ドアを開けて入って来たのは、ディミトリの仏頂面だった。イザベルが見舞いに来ていることは知っていたらしく、二人を見ても驚いた様子はない。

 別にやましいことは何もないのに。イザベルは何となく気まずい思いがした。腕に残るトリスの体温を、ディミトリに見透かされる気がした。


「トリスに用がある。おまえは外しなさい」


 そう言われてしまい、退出せざるを得なくなった。ディミトリが、何やら布で巻いた細長いものを手にしていたのが気になった。




 夕食の後、トリスはランタンを手に城壁の上を歩いていた。

 就寝前の見回りは日課である。

 今夜はトリスと、もう一人エディモンという男が当番だった。城門から登って、壁の上から砦の内部と、外の様子に以上がないか確認してまわる。

 エディモンと手分けをし、トリスは右回りに進んでいた。雪混じりの夜風は冷たく、顔の皮膚が切り裂かれるようだった。彼は白い息を吐きながら。襟巻きを頬まで引き上げた。


 まだ本調子じゃないなら休んでていいぜ、と一応エディモンに気を遣われたが、いつまでも病人扱いは嫌だった。喪ったものを嘆くよりも、今すべきことに集中するつもりだった。

 今すべきこと――それは未来に繋がっている。

 トリスはこれまで現在だけを注視して生きてきた。無駄な希望を持たぬように、絶望せぬように、刹那的な考え方が身に染みついていた。

 そんな彼が、初めて未来を考えられるようになったのだ。未来といってもほんの数ヶ月先のことである。


 春になったらイザベルを故郷に帰す――そのささやかな目標が、彼の足取りに力を与えていた。


 寂しくないといったら嘘になる。だが、あの少女にはやはり、暖かな陽光に満ちた南の地が相応しいと思う。こんな暗く冷たい夜ではない。

 彼女が笑ってここを旅立ってくれたら、自分もまた笑顔で手を振れる気がした。

 凍った雪の上を慎重に進みながら、トリスは南国の太陽を浴びたように胸が温かくなるのを感じた。

 

 軽く首を振り、トリスは灯りの消えた砦の中に目をやった。その後、逆方向、外に広がる森の方を眺める。見渡せる範囲に人家はなく、針葉樹の絨毯は黒々と静まり返っていた。


「……ん?」


 トリスは立ち止まった。暗い森の中に、ちらりと光が見えた気がしたのだ。

 鋸壁(のこかべ)に寄り、足元にランタンを置く。

 見間違いではなかった。目を凝らすと、確かに点のような光が見える。砦の南東、五百メートルくらいの距離だろうか。

 

 誰かいる――トリスは相方のエディモンに知らせようとした。

 だが、声を上げる前に光はふっと消えた。そしてまた点く、消える、点く――。

 その不思議な点滅のリズムは、トリスの記憶にあるものだった。

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