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月下香の咲く庭で

 三十年近く前、王都に一人の少年がいた。

 彼は裕福な商家の息子だったが、父親とも継母とも反りが合わず、娼館に入り浸る生活を送っていた。世間知らずの少年は、煌びやかな夜の世界と艶やかな女たちに身も心も魅了された。

 当時王都一と謳われたその娼館は『月下(メゾン・ド・ラ・)香亭(テュベリューズ)』といった。


 ある時、彼はそこで一人の若い娼婦と出会う。飢饉に喘ぐ寒村から売られてきたにも拘わらず、明るく気丈な少女だった。

 二人はたちまち恋に落ちて、深く愛し合うようになった。


 少女を自由の身にしようと、彼は懸命に働いた。けれど、親に背いて家を出た彼はあまりに未熟だった。商売に失敗し、譲り受けた財産も騙し取られ、いつしか悪事に手を染めるようになっていった。

 少女は、彼が捕まれば縛り首になるほど危ない橋を渡っていると知り、悩んだ。自分の存在が愛する人に道を踏み外させてしまったのだと。

 そして彼がとうとう憲兵に目をつけられたと聞くや、友人とともに一計を案じて、彼を王都から逃がしたのだ。他の客の身請け話を承諾したのも、彼に自分を諦めさせるためだった。


 彼は少女の本心を知って悔やんだが、もう遅かった。

 己の無力を恥じ愚かさを呪いながら、ひたすら北へ北へ逃げ続けるしかなかった。




「この世の果てまで逃げようと思った」


 ディミトリは髯に覆われた口元に苦い笑みを刻んだ。寝間着を羽織って、ベッド脇の椅子に腰掛けている。


「彼女に救われた命を投げ出すことはできない。かといってもう自分に居場所はない。逃げて逃げて……ようやくこの地まで流れ着いた。『黒の山脈』はそれまで俺の認識していた世界の果てだった。だが先代に拾われて、俺は山の向こうにもまだまだ世界は続いていると知ったんだ。だから、逃げるのを諦めて踏み留まった」


 イザベルは半裸のままベッドで話を聞いていた。パスカルが話していた『荒んだ目をした若造』の姿を想像しようとしたが、うまくいかなかった。


「彼女の消息を知ったのは五年前だ。今回と同じ、冬籠もり前の買い付けでたまたまあの村を通りかかり、地主の夫人になった彼女の姿を見かけた。もちろん声などかけられなかったが、もし幸せでないのなら攫っていこうと本気で考えた。けれど」


 穏やかな視線を向けられ、イザベルはなぜだか胸が切なくなった。


「どこで話を聞いても、仲睦まじい夫婦だと村人たちは口を揃える。働き者のしっかりした奥様で、小作人にも慕われていると。子供たちも皆すくすくと育っていると」


 亡父を思い出して少し涙ぐんだイザベルから、ディミトリは目を逸らした。


「それから俺は、毎年葡萄酒の仕入れに彼女の村を訪れて、遠くから彼女の無事を確認していた。彼女が幸福に暮らしているなら、それ以上何も望んではいなかった。なのに、今年の冬――」


 村には不穏な空気が流れていた。馴染みの問屋に尋ねると、数日前に怪しい口入屋がやって来て、何人かの娘たちを連れていったのだという。その中には地主の娘も含まれていると聞き、ディミトリは彼女を襲った不幸を知った。

 蛇の道は蛇で、この地域を縄張りにしている女衒(ぜげん)ならば心当たりがあった。ディミトリは北への帰路を急がせて人攫いどもに追いつき、全力で締め上げた。

 彼らが吐いた納品先――あのエカーヴの売春宿に辿り着くまで、ディミトリは生きた心地がしなかった。だから、客がつく前にイザベルの身柄を押さられた時は、柄にもなく神に感謝したのだった。


 イザベルの知らない事実を淡々と説明し終えてから、ディミトリは初めて彼女に頭を下げた。苦しそうに眉を顰めて顔を伏せる仕草からは、心からの後悔が滲み出ていた。


「黙っていて悪かった、イザベル。おまえが心細い思いをしているのは知っていたが、彼女が明かしていない過去を俺の口から告げることはできなかった」


 どうして自分はこの人をケダモノだなどと思ったんだろう、とイザベルは不思議だった。

 繊細で情が深く、要領が悪くて迷ってばかりの――ごく普通の人間ではないか。父や母とは生き方が違うだけだ。

 恨み言は山ほどあったが、イザベルはどうしても彼を責めることができなかった。

 



 彼女がここに連れてこられた理由は至極単純なものだった。

 エカーヴの売春宿で彼女を救ったものの、故郷へ送り届けるために首領たるディミトリが帰路を離脱することはできなかった。かといって、うら若い少女を部下に託すのも不安だ。

 彼は仕方なく自分のもとへ連れ帰り、無理なく移動できる春まで彼女を保護することにしたのだ。


(初めから説明してくれれば、怖がったり疑ったりする必要もなかったのに)


 そんなふうに恨めしく思う一方で、事実を明かせなかったディミトリの心中も理解できる。昔のいきさつは、母が王都でやっていた仕事を伏せて語れる内容ではなかっただろう。


(『月下香亭』といったかしら)


 イザベルは、玉葱を刻む手を止めて、ディミトリの言葉を思い出した。

 夕食の支度中の厨房は、忙しく動き回る下男たちで活気に満ちていたが、その喧噪が今は他人事のように思える。


 ディミトリは、そこを花園と称していた。

 喉の奥に苦いものがせり上がってくるのを感じる。

 美しい名で飾られようとも、そこは男たちが金で女を品定めする場所だったのではないか。かつて母が、見知らぬ男たちにその肌を触れさせていた事実は変わらない。

 エカーヴの宿での嫌な記憶が甦ってきて、イザベルは身震いをした。


(お父さんも、その客の一人だった……)


 優しく誠実だった父の思い出に、泥を投げつけられたような気分だった。父は母を愛したのではなく、美しい花を金で競り落としただけだったのではないかとすら思えてくる。

 さらに言えば――イザベルは生々しい想像を止められなかった。

 ディミトリは、自分が未熟ゆえに救えなかったと悔いている。母が彼の安全のために身を引き、他の男に嫁いだと。

 しかし視点を変えれば、単に母がディミトリに嫌気が差し、裕福な父に乗り換えただけとも解釈できる。


 何が真実なのか、イザベルには分からない。分からないからこそ、何も信じることができなかった。

 両親の婚姻が所有欲と損得勘定によるものなら、故郷での幸せな日々は虚飾にすぎなかったのだ。


 我ながら、自分のひ弱さにうんざりした。あれほど真実を知りたがっておきながら、何も分からなかった数日前より不安になるなんて。


「イザベル、玉葱まだ?」


 鍋を抱えた料理番のハンスに催促されて、イザベルは我に返った。必要な量の半分も準備できていない。

 急いでやります、と答えたイザベルを、ハンスは気遣わしげに眺めている。彼女が誘拐されて死にかけた事実は、砦の住人全員の知るところとなっていた。


(駄目だめ。ぼんやりしてるとみんなに心配をかけちゃう)


 イザベルは姿勢を正して、再び包丁を動かし始めた。



 

 その日の夕食は、喪に服して酒の提供はなかった。

 まだ傷が回復していないディミトリは、私室で食事を摂っている。上座の空いた食堂はいつもよりも静かで、男たちは死者への手向けのようにエンゾの思い出話を語っていた。

 トリスはその中心にいて、悪友の為人(ひととなり)を笑い話に変えていた。その穏やかな態度は楽しげですらあり、無理をしているようには見えなかった。


(トリスはまた大切なものを喪ってしまった。もうそれを受け入れてる)


 シチュー鍋の脇で給仕を務めるイザベルは、トリスの様子を窺い、少し切なくなった。

 幼い頃の母親の死、故郷からの遁走、傭兵団との離別、そして今回のこと――運命は何度も何度も彼から奪ってきた。まるで寄せて返す波だ。だからもう彼はすっかり慣れてしまって、そういうものだと諦めているのだと思っていた。


(だけど、違った。彼も当たり前に悲しんでるし、傷ついてる)


 イザベルはそっと自分の胸元に手を当てた。そこに降り注いだ彼の涙の温かさを思い出すように。

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