花の名前
エンゾの葬儀は、降雪の合間を縫って手際よく、だがしめやかに行われた。
きれいに清められ、欠損部を隠された遺体は、カエデ材の棺に納められた。青い襟巻きを巻かれた首から上は無傷で、その表情は少し笑っているようにも見えた。
ガストン老人の時と同じく、村中の住人が参列した。
しかし、天寿を全うした古老を見送るのとは違い、人々の顔には悲しみと悔しさの色が濃かった。事情を知る大人たちはもちろん、幼い子らも涙に暮れている。彼らにとっては、何かと悪知恵を授けてくれる不良の兄貴分だったのだろう。
(エンゾ、あんないい加減な感じだったけど、子供たちに人気があったのね)
オルガの隣に並んだイザベルは、松脂採集を教えてくれたガキ大将が泣きじゃくっているの見て、もらい泣きをしそうになった。喪服がわりの黒いマントを握り締めて堪える。
(いけない。泣かずにお別れするって、トリスと約束したじゃない)
イザベルの視線の先で、エンゾと最も年が近く、最も親しかったトリスは、ごく平静に棺と向き合っていた。
その頬にはいまだ疲労の影が残るが、泣いてはいなかった。ただ、寂しそうではあった。
棺は、男たちに担がれて砦の中を一周し、仮埋葬の石室に運ばれた。
トリスは扉の前で跪き、葬送の祈りを捧げる。
永遠の光の御方よ、星々の彼方より見守り給う御方よ。
今、汝の下僕エンゾ・ロッシュは雪深き野にてその歩みを止め、影の門に立てり。
願わくば、凍てつく風から彼を隠し、汝の御手にてその痛みを拭い去りたまえ。
彼の短き旅路を愛し、その輝きを汝の書に記したまえ。
暗き夜を彷徨うことなく、安らかなる星の座へ、永遠の朝へと導きたまえ。
我らに汝の慈悲を思い出させ、冷え切った心に再び命の灯火を灯したまえ。
澄んだ祈りの声は、重たく冷えた冬の大気を朗々と震わせた。厚い雪雲がわずかに裂けて、絹のベールのような陽光が降り注ぐ。地面に、木々に、室の屋根に、積もった雪がいっせいに輝いた。
鮮やかさを増した景色の中で頭を垂れるトリスは、本物の聖職者以上に敬虔に見えた。その姿は神々しくさえあり、イザベルは胸を打たれた。
最後に彼は友人の棺をそっと撫でる。
「じゃあな、相棒。また会おうぜ」
囁くような別れの言葉を吸い込んで、重い扉が閉じられた。
葬儀が終わるのを待っていたかのように、空は再び白いものを降らせ始めた。
オルガに促され、イザベルは屋敷への帰路につく。そろそろ夕餉の支度を始める時刻だ。理不尽な死も、皮肉な運命も、生きている者の営みを止めることはできない。
その営みを背負い、責任を引き受けた男は、振り向きもせずに歩いていた。
強い髯に覆われた横顔は相変わらず不機嫌そうだ。若くして命を落とした部下への惜別も、裏切りを招いた悔恨も、そして自身の怪我の痛みも、何もかもその陰気な表情だけで収めている。
(お母さんへの贖罪のつもりなのかしら)
どうしてそんな生き方を選んだのか――あの雪の中の決闘の後に抱いた疑問に、イザベルはそんな答えを当て嵌めてみる。もしそれが真実なら、あまりにつらい気がした。
そっと振り返ると、トリスはまだ石室の前にいた。
(あたしがここに来たことで、運命が変わってしまった人がいる)
それは違う、おまえのせいではないと、ディミトリにもトリスにも否定された。しかし、やはり罪悪感を覚えずにはいられない。
そしてもうひとつ――。
(お母さんに再会したとき、あたしは前と同じ気持ちでいられるのだろうか)
遠く離れた母親への複雑な感情を自覚し、イザベルは、そのきっかけとなったディミトリの告白を思い出していた。
あの夜、狩猟小屋前に駆けつけたトリスは、脇腹を庇いつつ斜面を降りようとしているディミトリを見つけ、羽交い締めにして止めた。深い傷を負っているのがすぐ分かったからだ。
「お頭、そんな傷で! 死んじまう!」
「離せ! イザベルが落ちたんだ!」
それでトリスの血相が変わった。代わりに降りて行こうとしたところ、今度は後を追ってきたバティストたちに止められた。
おまえ一人で行ったところで揃って凍死するだけだこの馬鹿、と怒鳴られ、数人で捜索に向かうことになった。
谷を降りるのには苦労したが、吹きすさぶ風雪の中、夜目の利くトリスがイザベルを発見した。ほとんど雪に埋もれて、それでも弱々しく呼吸をしているのが分かって、トリスは安堵のあまりその場にへたり込んでしまった。
バティストが背に縛りつけて崖を登り、その後は代わるがわる担いで何とか城塞まで連れ帰った。
イザベルの体は氷のように冷たくなっていた。
とにかく太い血管を温めることが先決で、首筋や脇の下や脚の付根に温石を宛てがい、頬に血の気が戻るのを待った。その後、オルガが彼女を抱きかかえて風呂に入れた。
それからほぼ一日、ディミトリがつきっきりで看病をした。彼自身が負傷していたにも拘わらず、自分の体温で彼女を温め、意識が戻るのをじっと待ったのである。
あんなに必死になった彼、初めて見たわ――後になって、オルガは少し寂しげな笑顔でそう言っていた。
だから自分の質問に嘘を吐く余裕なんてなかったはずだ、とイザベルは考える。
「あなたは私の父親なの?」
ずばり訊かれて、ディミトリは少し口を開けた。どんな偽りも見逃すまいと、イザベルは目を凝らしていた。
伯母はそう母を詰っていたのだ。イザベルは弟の子じゃない、昔の客の子なんだろうと。
王都で娼婦をしていた母が、客の子を身籠もったまま父に身請けされ、妻になった――イザベルの疑念は、あの時城塞の塔の上で、ディミトリが母の名で自分を呼んだ時に確信に変わった。
母が想いを通じ合わせた相手はきっとこの人だ。自分を助けたのも実の娘だと知っているからだ。
恐ろしい沈黙の後、ディミトリは大きな溜息をついた。
「イザベル……おまえの年はいくつだ?」
「な、夏に十七歳になったばかりよ」
「俺とおまえの母親が別れたのは、二十年も前だ。それ以来一度も会っていない」
「え」
今度はイザベルが口を開ける番だった。
ディミトリは苛立ったように頭を掻く。ベッドの脇ではオルガが笑いを堪えていた。
「俺の娘の訳がない。自分の母親を疑う前に、何年前に嫁いできたかくらい調べろ」
そういえば昨年、結婚二十周年なのだと父が嬉しそうに話していたのを思い出し、イザベルは力が抜けた。つまり、自分が生まれる三年も前に母は仕事を辞め、王都を離れたのだ。
伯母だって知らなかったはずがない。単なる腹立ち紛れの中傷だったと分かって、彼女は自分の勘違いが堪らなく恥ずかしくなった。
「あたしてっきり……でも、そしたらあなたと母は……?」
「ちゃんと説明しないのが悪いのよ、ディミトリ」
オルガがストールを持ってきて、イザベルの裸の肩にかけた。それから、白いハンカチをディミトリへと差し出す。自分が勝手に持ち出し、挙げ句にディミトリに投げつけた品だと分かり、今さらながらイザベルは自身の軽挙と非礼を恥じた。
ディミトリはハンカチを――そこに刺された花の刺繍を見詰め、微笑に似たものを浮かべた。
「これは昔、おまえの母親にもらったものだ。彼女が好きだという花を刺繍してくれた」
「勝手に持ち出して……粗末に扱ってごめんなさい。お母さんの刺繍だってすぐに気づいたわ。あたしの服にもよく刺してくれたから……何ていう名前の花なの?」
「待雪草」
彼は優しく、イザベルの母の名を呼んだ時と同じ口調で呟いた。黄ばんだ絹の上で、白い滴のような花は慎ましく頭を垂れている。
「春先に、森の中でいちばん先に咲く。雪を押し上げて芽吹く、強い花だ。彼女は北の出身でな……この花を目にすると希望が湧くと言っていた」
南で育ったイザベルには見たことも聞いたこともない花だった。そして、母がこの花の咲く土地で生まれたことも、何も知らなかった。
イザベルはストールをぎゅっと体に巻きつけた。
「母は娼婦だったの?」
「……彼女のいた世界では『フルール』と呼ばれていた。誤解をするな、おまえの母親は蔑まれてなどいなかった。そこは王都中の男が憧れる花園だったんだ」
ディミトリの茶色い瞳は、イザベルを通してどこか遠い場所を見詰めていた。




