見知らぬ思い出
狩猟小屋へと続く道では、デュノールの手勢数名が、松明を掲げて待期していた。
一時間ほど前、吹雪の中を、彼らの首領は小屋へと向かっていった。雪が止んでから三十分待って、自分が戻らなければ踏み込めと命じて。
集団の中にはトリスの姿もあった。
狼に噛まれた傷を治療中に、彼はパスカルの裏切りとイザベルの拉致を聞きつけた。
連れて行ってくれと頼んだものの、当然バティストには却下された。負傷に加え、傷のせいで熱を出しているのだ。
しかし、しつこく食い下がり、
「もしお頭が殺られたら、かわりに俺が奴の息の根を止めますから!」
と、とんでもない失言を吐いてバティストに軽く頬を張られた。元気な時なら鉄拳が飛んできたところだ。
エンゾの仇を取る、イザベルを助ける、と喚くのでベッドに縛りつけられそうになっていたところ、ディミトリが手下たちを止めた。
「パスカルへの復讐と、あの娘の救出、どっちを優先するつもりだ?」
「イザベルです。死んだ人間よりも生きてる人間の方が大事です」
一瞬の迷いもなく答えたトリスの目を、ディミトリはしばらく凝視した。まともな判断ができる精神状態かどうかを見定めたのかもしれない。
「……足手纏いになったら置いていくぞ」
「はい! 覚悟してます!」
それで、他の部下とともに、夜の林で首領の返りを待つことになった。負傷は腕だけだったので歩行に支障はなかったし、神経が高ぶっているせいか発熱による倦怠感もない。
「おまえ、絶対後でぶっ倒れるからな。若いからっていい気になんなよ」
ロジェが鼻水を啜り上げながら毒づく。体調を心配されているのはトリスにも分かったが、今は傷の痛みも寒さも気にならなかった。
簡単な雪壕を作り、風を除けていると、激しい雪はほどなく止んだ。木々の間から月さえ顔を出し、冷たい静寂が訪れた。
十五分ほど経った頃だろうか。
「金属音が……消えました」
トリスは声を潜めてバティストに報告する。
風に乗って流れてくる、金属と金属がぶつかる音を、彼だけが聞き取っていた。ほんのかすかな音が数回だけ――それが途切れたのだ。 耳を澄ませてももう聞こえない。
「終わったんだ。行きましょう!」
「駄目だ。三十分待てとの命令だ」
「お頭が死んでたらイザベルも殺されるかもしれない! 悠長なこと言ってられませんよ!」
トリスは勝手に飛び出し、バティストも舌打ちをしながらそれに続いた。
全身の痛みで意識が戻った。
イザベルは自分の体が半分以上雪に埋もれていることに気づく。痛みだと思ったのは寒さだった。手も足も冷たく強張って、痛い。右手はまだ短剣を握り締めたままだった。
いつの間にか吹雪いていた。夜の闇の中、顔に雪の粒が叩きつけられる。何も見えないし、風の音以外何も聞こえない。
イザベルは呻きながら、何とか雪中から脱出した。
四肢は動く。が、冷え切っていて負傷の有無は自分で分からなかった。
周囲を見渡してディミトリの名を呼ぶも、乾いた声帯から絞り出された声はか細く、風に吹き飛ばされた。おそらく谷底に滑落したのだろうが、自分がどれほど落ちて今どこにいるのか、まったく見当がつかなかった。
全身が小刻みに震えて歯の根が合わない。じっとしていたら死んでしまうと思い、イザベルは立ち上がった。
歩き出そうとして何かに突っかかり、転ぶ。雪に埋もれた大きな塊は、パスカルの体だった。
とうに事切れた男から、イザベルは外套を脱がそうと試みた。マント一枚では、吹雪の中では裸同然だ。
懸命にパスカルの革帯を外そうとしたが、手袋も嵌めていない両手は氷と同じに強張り、思うように動かない。長い時間をかけて短剣で前身頃を切り裂き、無理やり剥ぎ取った。
血を吸って凍りついた外套に体を突っ込み、イザベルは再び立ち上がった。
慣れた人間なら覆いを作って吹雪を凌ぐのだが、彼女にはそんな体力も技術も道具もなかった。その場で救助を待つのが次善の選択だとは分かっても、動かずにはいられなかった。
深い雪の中を数メートル進んだだけで、イザベルは再び倒れた。
両足に力が入らないのが悔しかった。起き上がろうとついた手も雪の中に沈んでいく。体を押さえつけるように吹く風が彼女から気力を奪う。寒いという感覚も薄れて、ひたすらに眠かった。
瞼が落ちる寸前、自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
イザベルは見知らぬ屋敷の中にいた。
天井は高く、壁に取り付けられた燈台が贅沢に点されて、大理石の床が滑らかに輝いている。窓枠には複雑な彫刻が施され、長いカーテンは絹でできていた。絢爛豪華な宮殿のような場所だ。
イザベルもまた華やかなドレスを身につけていた。繊細なレースの袖や、金糸銀糸で飾られた長い裾は、いつか絵物語で見たお姫様の装束だ。
色とりどりの花の絵が描かれたホールに佇んで、彼女は誰かを待っていた。
やがて待ち人が来る。金色の髪をした、優しげな顔立ちをした若者だった 初めて見る人なのに、イザベルはそれが誰だか知っていた。
ドレスの裾を持ち上げて、彼の胸に飛び込む。固く抱き返されると、自分の胸が激しく鳴るのを感じた。
大好き、大好き――愛しさで喉が焼けつくようだった。
愛しているのに、そして愛されているのに、自分とこの人は決して結ばれないと分かっている。それは運命ではなく、自分で選択した道なのだ。
イザベルは彼の胸の中ではらはらと落涙した。
夢の中で流した涙の名残を頬に感じながら、イザベルは重い瞼を開けた。
宮殿の光は消え、視界を占めたのは、煤けた梁と煖炉の火影だった。鼻を突くのは煮詰まった薬草の苦い臭いだ。そしてすぐ傍にある、猛々しくも温かい人の体温。
自分が誰かの腕の中にいることに気づき、イザベルの意識が覚醒した。
汗ばむほどに暑く、息苦しい。少し咳き込んで顔を上げると、そこには疲れ果てた、けれど慈しみに溢れた眼差しで自分を見詰める、ディミトリの瞳があった。
その肩は包帯で固められ、呼吸の度に胸板がイザベルの肌を圧する。布一枚挟まぬ剥き出しの体温が、凍りついた彼女の息吹を甦らせたのだ。
「イザベル……」
ディミトリの声は掠れていた。これほどまでに脆い響きで彼から名を呼ばれたのは初めてだった。
慌てて身を起こすと頭がくらくらした。ほとんど全裸に近い格好だったのでギョッとしたが、布団で体を隠す前に、横合いから華奢な腕が伸びてきた。
「イザベル! よかった! 目が覚めたのね!」
イザベルを掻き抱いたのはオルガだった。
彼女はベッドの脇から身を捩って、ぎゅうぎゅうと少女を抱擁した。よかった、と涙声で何度も繰り返す。
状況に戸惑いながら。イザベルはディミトリを眺めた。改めて確認すると、胸から腹にかけて彼の上半身はほとんど包帯に覆われていた。あれは、あの雪の中での殺し合いは夢ではなかったのだと、彼女は思い知る。
自分はどうやって助けられたのか、どのくらい眠っていたのか――そんな疑問の前に、イザベルの唇は別の言葉を紡いだ。
逃げてきた問いを、今こそこの男の喉元に突きつけるために。
「ディミトリ、教えて。あなたは……あたしの父親なの?」
次章へ続く




