雪上の決闘
暖炉の前に座った二人の男を、イザベルは複雑な思いで眺めていた。
パスカルと、やって来たディミトリである。
彼は雪塗れになって小屋に入ってきて、イザベルの無事な様子に安堵したようだった。見た限り、他に手下は連れていない。
すわ乱闘かと思いきや、彼らの邂逅は穏やかなものだった。雪が止むまで待とうや、とパスカルが提案し、ディミトリもそれを受けたのである。
(本当に戦う気があるのかしら)
イザベルが訝しく感じるほど平素どおりの口調で、二人は思い出話を続けていた。
彼女には事情の分からない、昔の話。金鉱石を横流ししたことや、王都の商人組合が雇った傭兵団と斬り結んだこと、欲を掻いた蛮族を討伐したことなど、お互いの戦果を称え失敗を笑い飛ばし、実に楽しげに語り合った。
説得も、議論も、罵倒もなかった。
「……いつかやると思ってただろ?」
話題が途切れた後、パスカルが炎を見詰めたまま訊いた。
風の音はいつの間にか止んでいる。ディミトリもまた横顔で応じた。
「あんたには力になってほしかった」
「情けをかけたのが悪いのさ。指が駄目んなって、もう逆らえないと思ったんだろうが、何とかなるもんだ」
「俺に取って代わりたいわけじゃないんだろう?」
「俺は首領の器じゃねえ。ただ、おまえさんとケリをつけてえだけだ」
雪が止んだな、とパスカルは言った。
雪が止んで雲が流れ、丸い月が出ていた。
降り積もった雪にすべての音が吸収されてしまったような、恐ろしく静かな夜である。
月明かりの下で、ディミトリとパスカルは向かい合った。
猟師小屋の周りは木が伐採されているので、狭いながら自由に動き回れるスペースがある。しかし足元は積もったばかりの雪で覆われていた。
中で待っていろと言われたが、毛布を被ったイザベルは一緒に外に出た。
小屋の後ろはすぐ急斜面になっていて、V字型の谷に繋がっていることに気づく。これではパスカルの目を盗んで逃亡するのは難しそうだった。
(たとえできたとしても、一人で逃げるのは嫌だ)
ディミトリが危険を顧みず来てくれたことに、イザベルは率直に感動していた。しかしそれはそのまま、あの手紙に書かれていた内容が真実だという証左だ。
ここでディミトリが勝つのを見届けて、そして今度こそ尋ねたかった。
(あなたはお母さんを愛したの? だからあたしを救おうとしてくれているの?)
先に仕掛けたのはパスカルだった。腰が痛いとぼやいていたのが嘘のような俊敏さで雪上で距離を詰め、右腕を振り抜く。
ディミトリも剣を抜いてそれを受け止める。甲高い金属性の音が響いた。
パスカルの武器はイザベルが初めて見るものだった。剣ではない。握り締めた拳から突き出しているのは、鉄の爪だった。
三十センチ以上ある鉤爪が三本、手袋の上から嵌める形で装着されている。まともに食らえば肉を持っていかれるだろう。
一撃目を薙ぎ払ったディミトリを、逆方向から二撃目が襲う。鉄の鉤爪は両手に着けられていた。
「エンゾもその武器で……」
「言っただろ? 指がなくったって何とかなるもんだ」
ニヤリと笑ったパスカルからディミトリは距離を取ろうとした。だが積もった雪に邪魔されて思うように足が運べないようだ。
パスカルは器用に懐に入り、ディミトリの喉元を狙う。雪深い森の中を決闘の場に選んだ意図はこれだったらしい。
上下に、左右に、斜めに――鋭いカーブを描いて襲い来る爪を、それでもディミトリは機敏に躱した。その動体視力と反射速度は驚嘆に値するものだったが、リーチの長い剣を持った彼にとってこの立ち位置は不利だった。
パスカルの右の爪がディミトリの左肩を掠め、イザベルは短い悲鳴を上げた。
ディミトリはぎりぎりで体を躱す。すかさず下方から襲う左手に反応が遅れた。三本の爪は彼の剣の中ほどを引っかけ、大きく弾き飛ばした。
雪の中へ突き刺さる剣へは一瞥もくれず、パスカルは丸腰になったディミトリを攻める。もうディミトリには避けるしか策がなかった。
「昔の女なんぞに情けを残すのが悪ぃんだぜ」
「過去を捨てられないのはお互い様だろうが」
「はっ、違ぇねえや」
笑いを含んだ声とは裏腹に、パスカルの左の爪が情け容赦なく突き出される。
躱されることを読んで時間差の右が振られたが、ディミトリは避けなかった。わずかに体軸を捻っただけで、まともに受け止めたのである。
「ディミトリ!」
イザベルは彼の名を叫んだ。彼女の位置からは、鉄の爪が胸を抉ったように見えたのである。
しかし、三本の凶器は振り抜かれなかった。ディミトリの脇に挟まれた形で止まっている。
彼は右の爪を避けながら、体全体で巻き込むようにしてパスカルを押し倒した。
「てめえ……!」
パスカルが呻く。続けて、がぼ、と血泡を噴いた。
彼の喉元には、深々と短剣が突き刺さっていた。
相手の間合いから逃れられないと知るや、肉を裂かせて攻撃を止め、的を固定して一撃で仕留めたのだ。短剣は武器ではなく、毛皮を剥いだり木を削るのに使う日用品だった。
みるみる光を失ってゆく元部下の目から顔を逸らし、ディミトリは立ち上がった。
駆け寄ったイザベルは、彼の足元の雪に赤い花弁が散っているのに気づいた。
「怪我を!?」
「大したことはない」
ディミトリは右脇腹を押さえた。分厚い外套が切り裂かれている。周囲の布地が色を深めているのは、血が染み出しているせいだろう。雪の上に新たな赤い滴が垂れた。
顔を歪めて、イザベルは毛布でディミトリの傷を押さえる。
「ごめんなさい……あたしが油断したせいで……」
「謝るのはこっちの方だ。怖い思いをさせて悪かった」
無事でよかったと呟いて、ディミトリはイザベルを抱き寄せた。イザベルも彼の背中に手を回す。
戸惑いよりも安堵の方が大きかった。大きな手で頭を撫でられると、泣きそうになった。
イザベルはしばらくそのままでいたかったが、吹き始めた風が彼らを急かした。月が暗い雲に覆われつつある。また雪が降ってきそうだ。
「雪が落ち着くまで小屋の中で待とう。もうすぐ皆が迎えに来る」
「本当に一人で来たのね」
「俺たちの世界のけじめだ。裏切り者一人片づけられない男には誰もついてこない」
ディミトリはそう言い捨てて、雪に刺さったままの剣を取りに行った。
首領の座は決して安泰ではない。血の気の多い男どもを従えるには、常に目に見える形で強くあらねばならないのだ。
厳しい法に身を置いて戦う男の人生に、イザベルは初めて思いを馳せた。
(どうしてそんな生き方を……)
真っ直ぐな背中に声をかけようとした時――ふいに、血の臭いがした。
振り向く暇もなかった。フードの上から頭を鷲掴みにされ、仰向けに倒れかけたところを背後から拘束された。
「へっ……へへ……やっぱりおまえさん、最高のお頭だな……だが、まだ……まだぁ……」
くぐもった声はひどく聞き取りづらく、そのぶん狂気じみていた。
イザベルが必死で首を捻じ曲げると、蒼白になったパスカルの顔が笑っていた。口と鼻から血を流し、鎖骨の間には短剣が突き刺さったままだ。もう半分死人に違いないのに、イザベルを羽交い締めにする腕の力は万力のようだった。
ディミトリは身構えて剣先をパスカルに向けるが、イザベルを盾にしたパスカルは怯まない。左腕で彼女を抱え込み、右腕の爪を構える。尽きかけた自らの命に頓着する様子はなかった。
彼はイザベルを引き擦って、小屋の脇を後退した。何らかの意図があるのではなく、足に力が入らないのかもしれない。イザベルの体重に押されるように、徐々に崖へと近づいていく。
ディミトリが奥歯を噛み締める。瀕死の相手に仕掛けられないのは、左手の爪がイザベルの胴に食い込んでいるからだ。力を込めれば、少女の薄い体は引き裂かれる。
そしてイザベルは――。
「どどどどうしたぁ……しょ、しょうぶは……これから……」
唸り声に似たパスカルの声は、途中で途切れた。空気の漏れるような音とともに、大量の血が噴き上がる。
イザベルの手が、喉に刺さっていた短剣を引き抜いたのである。
腕の力が緩み、パスカルの体が仰け反る。イザベルは彼を払いのけて、ディミトリの方へ走った。ディミトリも駆け寄ってくる。
しかし、イザベルは強い力で引き戻された。
一瞬前のパスカルと同じ、後ろに大きく仰け反る体勢になった。崖から転落していくパスカルが、虚ろな表情で彼女のマントを握っている。
「イザベル!」
ディミトリの手は空を掴んだ。
斜面に放り出されたイザベルの視界を、白い雪と赤い血が舞った。
それはまるで暗い空から降ってくる花のようで――。
(ああ、きれいだわ)
背中を叩く冷たい風を感じながら、彼女はその光景に見惚れた。




