署名のない手紙
イザベルが母と伯母の会話を立ち聞きしたのは、父の葬儀の後すぐだった。家族がまだ黒い喪服で生活していた時期だ。
頑健で風邪ひとつ引いたことのない父は、珍しく腹痛を訴えたかと思うといきなり血を吐き、その後はみるみる衰弱して一ヶ月ほどで逝ってしまった。あまりに呆気ない最期で、母もイザベルもただただ呆然とするしかなかった。
「……私が知らないとでも思っているの?」
父の遺品整理をしていたイザベルは、両親の寝室から聞こえてくる伯母の声に気づき、廊下で耳を澄ませたのだった。
「あなたが王都でどんな商売をしていたか……全部分かっているのよ」
少し聞いただけで胃の痛くなるような悪意に満ちた声であり、棘のある言葉だった。それを浴びせられているのが母だと分かって、イザベルはその場から立ち去れなくなった。
叔母とは。父の生前から同居していた。若い頃に隣村へ嫁いだが、子に恵まれず、数年後に里へ返されたのだという。再婚することもなく、生家の女主人に収まっていた。
イザベルは物心ついた頃からこの伯母を嫌っていた。陰気で口うるさく、何よりも母に辛く当たる。母を差し置いて父の世話を焼きたがるのも気持ちが悪かった。
もっとも母は、イザベルが彼女の悪口を言う度に「お義姉さんは気の毒な方なのよ」と窘め、決して不平を口にしなかったのだが。
母の反応は窺えない。ドアの隙間から覗くと、母は部屋の真ん中に佇んで俯いていた。
伯母は鏡台の椅子に座り、腕を組んで母を凝視している。痩せぎすな頬や引っ詰めた髪は普段にも増して無機質で、よくできた案山子のようだった。
「ずっと怪しいと思っていたのよ。人を使って調べさせたの。早く分かっていれば、さっさと追い出せたのに!」
「私が昔何をしていたとしても、あの人との婚姻は正当なものです。私と子供たちにはここで暮らしていく権利があります」
ずっと黙っていた母は、顔を上げてはっきりとそう言った。イザベルの知る限り、母が伯母に抗うのは初めてのことだった。
伯母の青白い顔が歪んだ。
「何が権利よ、身の程知らず! 弟に拾われるまで体を売って暮らしてたくせに! いかがわしい売春宿で男に股を開いてたんでしょう。どんな手管で弟を誑かしたの!?」
イザベルは体中の血が足元に下がっていく気がした。
体を売るだの売春宿だの、少女の日常にはなかった単語の意味を理解するまで少しかかった。
どうしてそんな言葉が母に向けられている? 誰か他の人の話をしているのか?
「バンドール家はね、世が世なら貴族の地位を賜れた家柄なのよ。汚い売女が入り込める家ではないわ。出ておいき!」
ひどい罵倒に対して、母は一言も弁解はしなかった。ただ口元を引き結んで伯母を睨みつけている。
短い沈黙の間に、二人の会話の意味がゆっくりとイザベルの思考に浸透していく。
伯母は母に、子供たちを連れて村外れの水車小屋に移り住むように命じた。嫌ならば母の過去を村中に触れ回ると。
保守的な田舎の住人が事実を知れば、母も子供たちもこの村にはいられなくなるだろう。何の縁もなく土地を追われるのは、そのまま死を意味する。子を持つ母として選択の余地はなかった。
しかし、ミシェルだけは置いていけという命令には逆らった。ミシェルはイザベルの弟で唯一の男子である。跡継ぎにすると言うのだ。
頑として拒絶する母に、
「強情な女ね。だったら揃って貧乏暮らしをするといいわ。本当を言うと、追い出すのはあなたとイザベルだけでいいのよ。分かるでしょ? だってあの子は――」
伯母は今まででいちばん嫌な笑みを浮かべて、母に近づいた。
それから囁いた言葉は、イザベルの耳にも届いた。
母は一歩後ずさり、怒りに紅潮した顔で伯母を見返した。
「何てことを! いくらお義姉さんでもそんな出鱈目を口に出すのは許しません!」
「さて、出鱈目かしらね。母娘で客を取ればいい稼ぎになるわよ」
屈辱的な揶揄を、イザベルは最後まで聞かなかった。もう一秒たりともこの場にいたくはなかった。
鼻から脳天に串を刺されるような刺激を感じ、イザベルは目を覚ました。
ぼやけた視界に茶色い小瓶が見える。それを持った男は、彼女の覚醒を確認して身を離した。
瓶の中身は気つけ薬か何かだろう。異臭に咳き込みながら、イザベルは身を起こした。
ごく狭い部屋の中――小屋だろうか。薄暗い。丸太組みの壁には矢筒や網や縄や、使い方のよく分からない金属製の道具がぶら下がっている。彼女は毛布で包まれて硬い床の上に転がされていた。
「ここ、どこ……?」
自分の身に起きたことが蘇ってきた。屋敷の廊下でいきなり背後から襲われ、首を絞められて――反射的に胸や腰回りに触るが、体に違和感はなかった。
(よかった、変なことはされてない)
「森の中にある狩猟小屋のひとつだ。ちいっと寒いが勘弁してくれ」
小さい暖炉に男が薪をくべていた。火を起こしたばかりらしく、空気は冷え切っている。男の息もイザベルの息も白かった。
「パスカルさん……どうしてこんなことを?」
イザベルは毛布を握り締めて、自分を攫った男を見た。
四角い顔に口髭を蓄えたお喋り好きは、やはり気安い物腰で頭を掻いた。
「悪ぃなあ、お嬢ちゃん。あんた、お頭をおびき寄せる餌になってもらうぜ」
「おびき寄せるって……」
「俺ぁずっと、お頭と決着をつけてえと思ってたんだ。先代の跡目争いで負けた時からな」
パスカルは右手を見せてにいっと笑った。中指と薬指はその時に失ったものだろうか。
「ま、今さら首領になりてえとも思わねえし、俺なんぞには誰もついてこねえだろうが、ここにあるもんを忘れることはできなかったんだ。お頭には、昔の仲間を根こそぎ殺られたからよ」
彼は三本の指を握り締め、拳で胸を叩いた。
「こないだガストン爺が逝ったろ? そんで思ったんだ――俺はああはならねえ。老いぼれて体が動かなくなるまえに、熊と刺し違えてやるってな」
風の音が大きく、小屋の屋根や壁がガタガタと鳴った。外は吹雪になっているのかもしれない。
余所からやってきたディミトリがデュノールの跡を継いでから、もう十年時以上経っているはずだ。まだ十七年しか生きていないイザベルにとっては、そんな歳月を経ても消えない恨みなど想像もつかなかった。
ただ、伯母を思い出した。彼女は最愛の弟を奪った母のことを憎んでいた――たぶん、母の素性には関係なく。
(伯母さんもこの人と同じく、自分ではどうしようもない負の感情をずっと抱き続けてたのかもしれない)
けれど、古株のパスカルはディミトリに厚遇されていたはずだ。旅にも同行していたし、冬籠もりの間は同じ屋根の下で暮らしていたではないか。
「旦那様はあなたを信用してたのに……」
「はっ、逆だよ。お頭は俺を信じてねえから、常に傍に置いて監視したのさ。旅に連れて行ったのも、自分の留守中にオルガ姐さんに何かすると警戒してたからだろう。実際、姐さんは隙を見せねえから手が出せなかったんだがな。あんたが迂闊で助かった」
楽しげな視線を向けられて、イザベルは腹が立った。
(あたしのせいじゃないわよ。裏切り者がいるなんて聞いてないもの)
敵愾心を隠そうともしないイザベルに、パスカルは人の好い笑みを見せた。ごそごそと外套の中を探りながら、決定的な秘密をあっさりと口にする。
「あんた、お頭の昔の恋人の娘なんだってな。おっと……知らなかったか? これ、ほら見ろよ」
差し出されたのは、皺くちゃになった一通の封筒だった。すでに封は切られている。
イザベルが驚いたのは、指の形をした赤黒い染みがついていたことだ。まるで、血塗れの手で握り締められていたような。
恐る恐る中を見る。入っていた手紙は一枚だけだった。
――君の娘は当方で預かっている。春になって山の雪が解けたら返しに行く。客人として丁重に扱っているので、心配をせずに待っていてほしい。
宛名はイザベルの母の名前。ディミトリに抱き締められた時、イザベルはその名前で呼ばれた。
丁寧な文字で綴られたごく簡素な文章から、イザベルは深い思いやりを感じた。母は読み書きがあまり得意な方ではない。そのぶん子供たちへの教育には力を入れたが、今でも複雑な文章は読み解けないはずだ。
そんな母に必要な事柄だけを間違いなく伝え、安心させようとする心遣いが、素っ気ない手紙から伝わってきた。
そして、差出人の名前は一文字『J』とだけ記されている。これがディミトリの本当の名前だろうか。
パスカルはしみじみと呟く。
「エカーヴに着く前に人買い屋を回ったり、旅を急がせたり、お頭はまるで最初からあんたを探してたみたいだった。それでいて、いざ手に入れても愛人にするでもなく……どうもおかしいと思ってたんだ。エンゾもなあ……大人しく渡しゃあ死なずに済んだのによ」
物騒な物言いに、イザベルは我に返った。パスカルは悲しそうに、
「お頭から何か言付かったって張り切ってやがるから、俺ぴいんと来てよ。見せろっつってもあいつ、駄目だと抜かしやがる。仕方ねえから……」
「こ、殺したの? この手紙を手に入れるために?」
「かわいそうなことをしちまった。今頃狼の餌になってるかな」
イザベルは心底ぞっとした。
この男は狂人ではない。ディミトリの動向を観察したのも、弱みを握るために仲間を手にかけたのも、そしてイザベルを攫ったのも、理性の判断に基づいた行動である。しかしそれをさせたのは、十年以上煮え滾っていた暗い情念なのだ。
(この人は本当にディミトリを殺すつもりなんだ)
唾を飲み込もうとしたが、口の中はカラカラに乾いていた。
その時、小屋の扉が開いた。




