爪痕
立ち去るイザベルを、ディミトリは追えなかった。
振り向かせることができないと分かっていて、名前を呼ぶのは虚しかった。いつかと同じだ。
右手に握ったハンカチが、強い風に揺れる。いつイザベルがこれを見つけ、持ち出したのかは分からないが、あの娘は知ってしまったのだ。
動揺は去り、苦い後悔がじわじわと舌の上に染み出してくる。彼は自分の迂闊さと女々しさを呪った。それなのに、腕に残る少女の匂いは彼を幸福な気持ちにさせる。甘く、懐かしい匂い――彼女と同じ匂い。
イザベルの涙は滑稽なほどディミトリを動揺させた。彼女はめったに泣き顔を見せない女だった。だが、初めて出会った時、そして最後に別れた時、彼女は涙を流していたのだ。
窓から見下ろすと、夕映えの残照で、城壁の上を歩くイザベルの後ろ姿が何とか見て取れた。何度か転倒しかけながらも、居館へ繋がる石段まで辿り着いたのを確認して、ディミトリはほっと息をついた。彼女が捨てていった外套を拾い上げる。
事実を伝えなければならない、と心を定めた時、塔の下から呼びかけられた。
「お頭! そこにおいでで!?」
切羽詰まった様子でダミ声を張り上げているのは、バティストだった。城門の方に人だかりができている。
「ああ、ここにいる。どうした?」
「急いで来て下さい! エンゾの野郎が……!」
大事な使いを頼んだ青年の身に何か起きたと知り、ディミトリの顔色が変わった。
居館の中に戻っても、イザベルはまだ気持ちが収まらなかった。
逃げるべきではなかったと思う。今こそディミトリから真実を聞き出すべきだった。でも、どうしてもあそこにはいられなかったのだ。
あの女が――優しかった父の実姉だなんて信じられないほど意地の悪い伯母が、母に向けた罵倒。根も葉もない中傷だと切り捨てたかったのに。
(疑ったから、あたしは家を離れたんだ)
イザベルは立ち止まった。夕食の支度が始まっているはずなのに、暗い廊下に人の気配はなかった。
半信半疑で、でもはっきりさせるのが怖くて、家族のためだと自分に言い聞かせてきた。逃げてきたはずの事実に追いつかれ、行く手を塞がれた気がした。
大人たちの隠し事より、子供のふりをし続けていた自分に嫌悪感を覚えた。
(今からでも訊こう。あの人に、本当のことを)
決心して、引き返そうとした時。
背後から伸びてきた腕がイザベルの首に巻きついた。
物凄い力で喉元を締め上げられ、イザベルは声も出せなかった。あっという間に視界が暗くなる。
彼女が完全に意識を喪失するまで口を塞いでいた手には、二本の指が欠けていた。
馬の鞍から下ろされた遺体には中身がなかった。
青白く凍りついた顔には目立った損傷は見られないが、鳩尾から下にぽっかりと大穴が空き、折れた肋骨が露出している。抉られた腹からは臓腑がほとんど消えていた。おまけに左肘から先がなく、右脚も膝の辺りでちぎれかけていた。
変わり果てたエンゾの姿に、ディミトリはしばし言葉を失った。
居館の前では、大勢の男たちが沈痛な面持ちで仲間の遺体と、その傍らに膝をついたトリスを取り囲んでいる。トリスは右手に青い襟巻きを握り締めていた。
「狼に食い荒されてるのを、狩りに出てたこいつが見つけたらしくて……」
バティストに肩を叩かれ、トリスは強張った表情で頷いた。
狩猟用の短い外套は赤黒く汚れ、腰に据えた二本の短剣にもべったりと血がついている。腕には外套の上からきつく手拭いが撒かれ、それは彼自身の血に染まっていた。
狼の群れから友人を取り戻そうと、トリスは果敢に戦っていたらしい。傷を負いながらも二頭仕留めたところで、騒ぎに気づいた他の仲間が助けに入り、獣たちを追い払った。
遺体を持ち帰った一人、ギヨームという男が絞り出すように説明する。
「城塞から南に三キロほどの場所です。近くで馬も殺られてました。エンゾの奴……森に入るのに、何だって狼よけの煙玉を持ってなかったのか……」
「殺したのは狼じゃないと思う」
硬い声で呟いたのはトリスだった。出血と疲労で青褪めてはいたが、眼差しは研がれた刃物のようだった。血塗れの手袋を脱ぎ、エンゾの冷たい首に触れて、
「致命傷はたぶんこれです。狼の牙や爪じゃない」
そう指摘した。確かに、エンゾの喉元から胸にかけては、三筋の傷で深く切り裂かれている。大型動物の爪痕のような形状だ。
バティストも傷痕を検分して、眉根を寄せた。
「熊……でしょうかね? 冬眠しそこねた奴がうろついてるとか?」
しかしディミトリは首を振った。
「熊ならば食い残しを放置したりしない。この傷は獣によるものではないだろう」
「えっ……では誰かが?」
「殺されて打ち捨てられた後で、狼に食われたんだ」
ディミトリは頭を垂れて、若い部下の死を悼んだ。荷物の類いはいっさい残されておらず、動物に漁られたのでなければ、何者かに持ち去られたのだろう。
遣いを頼んだからか――後悔は痛みに近かった。若者の死は何度も目にしてきたが、今回の原因は自分だ。おそらく託したものを狙われたのだ。
次に湧いてきたのは、皮膚が痺れるような警戒心。何者かの壮絶な悪意を感じた。
油断していた。過去の所業と現在の立場を、甘く見ていた。
ディミトリは、トリスの隣にしゃがみ込んだ。トリスは青い襟巻きを遺体の首に戻し、引き裂かれたシャツの前を何とか合わせようとしている。
そんな彼の背中に手を添えて、
「……トリス、ご苦労だったな。よくエンゾを連れ帰ってくれた。早く傷の手当を受けろ」
「いえ……先にエンゾをきれいにしてやらないと。こいつに文句を言われちまう」
「それは他の者がやっておく。おまえは手当だ。動物の牙を甘く見ない方がいい」
「でも……いつもキザったらしい奴だったのに、こんな格好のままじゃ……」
ディミトリは半ば強引にトリスを引き離した。抗うかと思いきや、トリスは力なくその場に頽れた。仲間たちが駆け寄り、抱き起こされた彼の体はすでに熱を持っていた。
バティストに担がれていく彼を見送りながら、
「それは俺の友達なんだ、返してくれって……あいつ、狼相手に何度もそう言ってやがった」
「いっつも喧嘩ばかりして、まるで兄弟みたいだったもんなあ……」
ギヨームたちが口々に言った。誰もがエンゾの死を悲しみ、友人を失ったトリスを気の毒がっていた。
遺体に布がかけられると、ディミトリは、女たちには見せるな、と告げて踵を返した。
同時に、オルガが正面玄関から姿を覗かせた。
「さっきトリスが運ばれていったけど……何かあったの?」
「そっちで話す。来るな」
「イザベルがいないの。見かけなかった?」
ディミトリは困惑顔のオルガに駆け寄った。その慌てた様子にただならぬ気配を感じ取り、オルガは早口になった。
「いつもなら夕食の準備で厨房にやってくるはずなんだけど……部屋にもいなくて」
「さっき南の塔で話をしたばかりだ」
「まさか壁から落ちたんじゃ……」
「いや、屋敷に戻るところまでは見届けた」
「お頭! 馬小屋にこんな物が!」
厩の通用口から部下の一人、トマが飛び出してきた。遺体を下ろした後で馬を繋ぎに行った男だ。手には白い布を握っている。
ディミトリはそれに見覚えがあった。エプロンだ――イザベルの着けていた。
引ったくるようにして受け取って、広げると、木炭らしきもので文字が書かれていた。
「何て……何て書いてあるの?」
オルガが急かした。会話には不自由しない彼女ではあるが、アルボレダ語の読み書きはほとんどできない。ディミトリが答えないので、その腕に取り縋り――息を飲んだ。
ディミトリは一瞬、凄まじい怒りの表情を浮かべていた。
オルガが怯んだのは、その感情が彼自身に向けられているように感じたからだ。憤怒の炎は、しかし、すぐに影になって眉間から流れ去った。
「パスカルがイザベルを攫った。俺に一人で来るように指示している」
事実を告げた声は、すでに平静に戻っていた。夕暮れの空は、厚い雲に覆われ始めていた。




