身代わりの抱擁
「……そんな所で寒くないんですか?」
塔の上にディミトリを見つけたイザベルは、塔の中に入り、梯子を見上げて声をかけた。階上から、驚いた表情の髭面が覗く。
「イザベル!? 危ないだろう! 足を滑らせたら……」
「ちゃんと気をつけて来ました。旦那様が城壁の上を歩いてるのを見かけて……よいしょっと」
珍しく声を荒げるディミトリに怯むこともなく、イザベルは梯子を登り始めた。かつては階段があったのかもしれないが、すでに壊れ、塔は外周と最上階を残すのみになっている。
覚束ない手足の運びを見兼ねたのか、ディミトリは身を乗り出してイザベルの腕を掴み、最後の数段を引き上げた。
塔の最上階は狭く、大人が三人も入ればいっぱいになってしまう。大きく取られた窓から強い風が吹き込み、イザベルのフードを煽った。
「さっむ……」
「馬鹿か、そんな薄着で」
ディミトリが呆れたのも無理はない。イザベルは普段着の上にマントを羽織っただけの格好だった。
ディミトリはといえば、分厚い外套に襟巻きまで巻きつけた完全防寒である。おまけに強い蒸留酒の酒瓶を手に持っていた。
「こんな寒い場所で飲んでるなんて!」
「寒いから飲んでるんだ」
ディミトリは不機嫌そうに言って、外套を脱いだ。若干乱暴にイザベルの肩にかける。古い毛皮は重く、彼の体温を保って暖かかった。
イザベルはありがとうございますと礼を言って、次の言葉に迷った。ポケットに視線を落としてしまう。
(このハンカチを見せて問い詰めるべき? でも……)
なかなか決心がつかなかった。これを見つける前なら――ただ自分を助けた理由を尋ねるだけなら、これほど躊躇しなかっただろうに。
不法侵入を叱られるのが怖いのではない。答えを聞くのが怖いのだ。そう認めざるを得なかった。
イザベルが黙ってしまったからか、ディミトリは窓枠に肘をついて外を見やった。イザベルもつられて視線を移す。
南――イザベルの故郷の方角だ。
眼下には遙か彼方まで白い針葉樹の絨毯が敷き詰められ、その上を夕映え色の空が覆っている。黒い雲が低い位置を流れていた。
(お母さんはあたしを探しているだろうか)
甘く苦い気持ちが胸をせり上がってきて、イザベルは頬を擦った。
「何をしに来たんだ?」
ディミトリは彼女の方を見もせずに尋ねた。イザベルは鼻を啜り上げてから、ふうっと息を吐いた。
「オルガさんの事情、本人からいろいろ聞きました。ごめんなさい……旦那様のことひどい男だと勝手に思ってました。だって戦利品とか言うから」
「戦って奪い返したのだから戦利品だ。それに、俺はおまえの想像通りの男だよ。邪魔な奴はみんな殺してきたし、女だって大勢売り飛ばした」
彼の口調は相変わらず無愛想そのものだ。けれど、イザベルはすでに気づいている。彼は自分を必要以上に悪く見せようとしている。
(本物の悪人は、大火傷を負った女の子を助けたりしない)
「あなたがどんなに悪いことをしていたとしても、あたしをあの怖い場所から助けてくれたのは事実です。それについては感謝しています」
イザベルは外套の前を合わせ、大きな傷の走るディミトリの横顔を見た。
ディミトリは酒瓶を勢いよく呷った。麦ではなく、葡萄から作られた蒸留酒のようだった。南で買いつけた物だろう。
「一口もらっていいですか?」
イザベルが思い切って頼むと、彼はぐいと瓶を突き出した。すでに半分ほど空いている。
飲み慣れていないので、イザベルはごく控えめに喉に流し込んだ。途端に食道が燃えた。
むせる彼女から酒瓶を引き取って、ディミトリはさらにもう一口飲む。
冬の夕日はゆっくりと北西の山間に沈んでゆく。光が失せるにつれ、風はますます冷たくなるようだった。
「イザベル、おまえ、何で家を出たりした?」
イザベルはどきりとした。ディミトリが初めて彼女を正面から見たのだ。わずかに酔っているのか眼差しに感情が浮かんでおり、それは苛立ちに似ていた。
「女衒に無理やり拉致されたわけではないだろう。騙されたにしても、なぜ自分から志願した?」
「それは……父が亡くなって、母が苦労していたから……少しでもお金を稼ごうと」
「村の中に働き口はなかったのか? 母親を手伝って野良仕事に励む選択肢だってあっただろうに。まるで……望んで家族から離れたみたいだな」
イザベルはぎゅっと拳を握り締めたが、答えられなかった。ディミトリは唇の端で笑う。
「母親と喧嘩でもしたのか? それとも貧乏暮らしが嫌になったか?」
「そんな……そんなんじゃ……」
「おまえはオルガとは違う。ちゃんとした家と故郷があるのに、ここの奴らから見たら贅沢もいいところだ」
「そんなんじゃない!」
自分でも驚くほどきつい声が出た。腹に押し込めた郷愁が、何か別の形を取って噴き出してくる。まずい、と思ったが、イザベルは抑えられなかった。
馬鹿をやったのは自覚している。家を離れたかったのも、たぶん事実だ。しかし、赤の他人に贅沢だと決めつけられるのには耐えられなかった。
「何も……何も知らないくせにっ……」
ディミトリは口をつぐみ、少女の激高と対峙する。
(確かにオルガさんの境遇に比べたら、あたしの事情なんて笑い話なのかもしれない。でも、あたしは決死の思いで決断したんだ)
それを丸ごと否定された気がして、イザベルはディミトリを睨みつけた。
悲しみではなく憤りのために、鼻の奥がツンと痛くなった。瞼が焼けるように熱くなり、あっという間に視界がぼやける。
零れる涙を、イザベルは必死で拭った。泣けばますます馬鹿にされると思い、歯を食い縛った。同時に、すぐに感情が振り切れる自分に情けなくなる。
(これじゃ子供の癇癪だ。ちゃんと説明しないと……)
熱を持った喉から声を絞り出そうとした時だった。
イザベルは強い力で引き寄せられていた。
バランスを崩して足元がふらつく。倒れかけた上半身は逞しい胸に受け止められた。さらに二本の腕に抱き込まれると、まったく身動きが取れなくなった。
酒瓶が落ちて跳ね、残っていた酒が床に流れ出す。
いきなり抱き竦められたイザベルは、何が起きたのか分からず呆然とした後、激しく動揺した。
「ちょっと……あのっ……」
逃れようと身を捩るも、ディミトリの腕はびくともしなかった。羽織った外套の上からイザベルの胴を巻き、自分の胸の中に閉じ込めている。ごわごわした鞣し革の上着が彼女の頬を擦った。
イザベルは驚いたが、怯えてはいなかった。抱き締められる寸前、ディミトリの顔に浮かんだ狼狽を見ていたからだ。彼は自分以上に焦っている、と感じた。
(あたしが泣いたりしたから……?)
無言のままのディミトリが何を考えているのか知りたくて、イザベルは視線を上げた。が、表情を確かめる前に頭を押しつけられた。
熱い石のような感触の指が、髪を掻き分けて地肌に触れる。家族以外の人間にこれほど固く抱擁されるのは、初めての経験だった。
息が苦しい。
イザベルは狂ったように速まった自分の鼓動を耳の奥で感じた。もしかするとディミトリの心臓の音なのかもしれない。
どうして――と尋ねようとしたイザベルは、しかし、頭の上で聞こえた言葉に我が耳を疑った。
夕風のざわめきにも拘わらず、ディミトリの囁きははっきりと聞き取れた。
それは人の名だ。
イザベルのものではない、イザベルがよく知った人の。
イザベルは無理やりに顔を上げた。
目が合うと、ディミトリは生々しい驚愕の表情を浮かべた。まるで、自分が激情に任せてとんでもないことを口走ったと気づいたように。
急き立てられるような鼓動がすっと静かになり、かわりにもっと重々しい音がイザベルの頭で鳴り響き始めた。体の中で巨大な太鼓が打ち鳴らされる。一打ごとに骨が震え、脳が揺れ、彼女は正気に戻っていった。
知りたくない、知るのが怖いと怯えていた答えが、全部明かされた気がした。
出てきたのは乾いた笑いだった。
「ああ……そういうこと……」
「イザベル、聞いてくれ」
腕の力が緩んだので、イザベルは思いきりディミトリを押し返した、外套が床に落ち、夜の冷気が体を打つ。
エプロンのポケットから古いハンカチを取り出して、花の刺繍が見えるように彼へと突きつけた。今となっては虚しい、取るに足らない証左だった。
ディミトリは一瞬だけ目を見開き、すぐに苦しげに顔を歪めた。
彼が取り繕わないのも、言い訳しないのも、後悔を隠そうとしないのも、何もかも気に入らなかった。
イザベルはハンカチを彼に投げつけて、身を翻した。ほとんど滑り落ちるような勢いで梯子を下りる。名前を呼ばれたが、返事はしなかった。




