白い花と赤い雪
本当はすぐにでもディミトリを捕まえて問い質したかったが、あいにく午前中は執務室に籠もっているのが常だ。
交易が途絶える冬期も、各地から集まってくる情報を精査し、次の季節に向けて計画を立てるのに忙しいのだろう。オルガも書簡の翻訳をするとかで同席していた。
首領と腹心たちが集まる執務室に乗り込んでいく厚かましさは、さすがのイザベルにもなかった。
今日は三階の掃除を任せたよ、と下男のヨンネに箒と手桶と雑巾を渡され、イザベルははやる気持ちを抑えて階段を昇った。
三階にはイザベルの使っているオルガの部屋と、ディミトリの部屋、あとは執務室くらいしかない。他の部屋は現在使われていない客間で、とりあえず掃除の必要はなかった。
とはいえ、ディミトリの部屋は鍵が掛かっており、イザベルはもちろん下男も普段は立ち入れない。掃除などはオルガがやっているようだ。
(部屋に入れたらいろいろ探ってやるのに)
せっかく女中の立場で屋敷内をうろつけるにも拘らず、肝心の場所には入れない。イザベルはいつも残念に思っていた。
だが今日は、少し事情が違っていた。
使用中の執務室の前を通り過ぎ、さて廊下の奥から掃いていこうとした時、ディミトリの部屋のドアが中から開いたのだ。
オルガだった。手に書籍のようなものを持っていて、それに目を落としながら執務室の方へ歩いていく。奥にいるイザベルには気づいていないようだった。翻訳に使う本か何かを取りに行っていたのだろう。
すらりとした緑色のドレス姿が執務室に消えるまで、イザベルは息を潜めていた。彼女が扉に鍵をかけなかったことを見てしまったからだ。
(施錠しなかったってことは、すぐに戻ってくるつもりなのかも)
本人に直接尋ねる、という決心が揺らいだ。千載一遇のチャンスはすぐに逃げてしまう。猶予のなさが、彼女を急き立て、倫理観を追い払った。
もし見つかったとしても、開いていたから掃除に入ったと言えばいい。
イザベルはディミトリの部屋のドアを細く開けて、掃除道具とともに体を滑り込ませた。
オルガの部屋よりやや広く、煖炉の傍に机と書棚、それに寝台があるだけの質素な設えだった。だが家具はどれも重厚で大きく、部屋の主人に相応しかった。
壁のタペストリーには、雪山を蹂躙する巨大な神獣の姿が織り込まれている。その鋭い眼光に睨みつけられているようで、イザベルは首を竦めた。
(つい入っちゃったけど……ほんとにこんなことしていいのかな)
他人の部屋に無断で入り、あまつさえ家捜しをするなんて、はしたない――ベッドはきれいに整えられていたが、毎晩そこで夫婦同然の二人が眠っていると思うと何やら気恥ずかしく、年頃の娘には直視するのが憚れた。
湧き上がってくる後ろめたさを、彼女は無理やり押さえつけた。
知りたいのは、ディミトリが自分を助けた理由だ。その手がかりがここにあるだろうか。
(隠し金庫なんてものを探してる時間はない。手の届く所だけ探ろう)
イザベルはまず、机の抽斗に手を伸ばした。
紫檀の文机には鍵はかかっていなかった。指先に触れた木肌は、外の雪と同じくらい冷たく、滑らかだった。抽斗を引くたびに古い建て付けが軋み、その音が自分を咎めているように聞こえて、鼓動が速まった。
入っているのは文具や書面の綴り。手紙もあったが、商用らしく、差出人は王都の商会名になっている。中を改める時間はなかった。
しかし、
「何、これ……」
左右の抽斗を順番に開けていき、右の二番目の抽斗の中身を見た時、イザベルは思わず声を上げた。
きちんと折りたたまれた、白い布。
もとは純白だったのだろうが、琥珀色を帯びて黄ばんでいる。絹製のハンカチのようだ。
イザベルに嘆声を上げさせたのは、そこに施された模様だった。
白い花だ。
雪の滴のように頭を垂れた白い花が二輪、しなやかな曲線を描く緑色の葉とともに刺繍されている。古い布地の中で、そこだけが今も鮮やかな生命を宿しているようだった。
彼女は抽斗に手をかけたまま、しばし呆然とそれを眺めていたが、すぐに我に返った。
そして、可憐なハンカチを躊躇なくエプロンのポケットに突っ込み、足早に部屋を出た。
今だ、と狙って放った矢は、予想の軌道を大きく逸れ、唐檜の幹に刺さった。
その音に驚いたウサギは、まさに脱兎のごとく雪の上を跳ねて、あっという間に巣穴に潜り込んでしまった。
一時間も森を歩き回ってやっと見つけた獲物に逃げられ、トリスはがっくりと項垂れた。
慣れない弓矢ではなく、腰に据えた短剣を投擲した方がよっぽどマシなのではないかと思えた。罠に掛かっていたリスを数匹捕らえただけで、自分の手で狩った獲物はいまだゼロである。
ウサギはもちろん、キツネや鹿や、猪さえ仕留めたことのあるエンゾとは大違いだった。北国生まれの彼は狩りの腕もよく、仲間内では頼りにされている。
そんなエンゾが、自分が留守の間、狩猟担当はトリスに任せた、と言い残して出かけてしまったらしく、トリスは不得手な役目を振られてしまったわけだ。
「人間相手の方がよっぽど楽だよな……うわっ」
固い幹から矢を引き抜いた拍子に、頭上の枝から大量に落雪した。雪塗れになったトリスは、弓を投げ捨てたくなる気持ちを抑えた。
他にも何人か狩りに出ているし、どうせ誰も自分の成果に期待していない。飼葉用の苔でも集めて、風邪を引かないうちに帰るか――そう諦めかけた時だった。
ふと、荒い息遣いが聞こえた気がした。しかも複数だ。
人間のものではないと分かり、トリスは耳を澄ませた。冷え切った空気にぴりっと緊張が走る。
足音を忍ばせ、雪の下の枝など踏まないように気をつけながら、羊歯類の茂みの中を進む。
息遣いとともに、低い唸り声と、獣の臭いを感じるようになった。これ以上進むと危ない、と勘が働いた。
松の太い幹に身を寄せ、吐息を飲み込んで、トリスはその先を覗き込んだ。
灰色の毛並みが雪上で蠢いていた――狼だ。
四、五頭が円を描くようにして、何かに群がっている。
仕留めた獲物だろうか。温かい肉を食いちぎる湿った音と、硬い骨を噛み砕く尖った音が、交互に絶え間なく聞こえていた。狼たちは時折、互いを威嚇するように低く唸り、奪い合って赤黒い塊を貪っていた。
逃げよう、とトリスは即決した。単身で狼を狩れば大手柄だが、ウサギすら獲れない自分なぞは彼らのデザートになってしまう。
トリスは息を潜めて、慎重に、一歩ずつ後退を始めた。
その時、狼の一頭が大きく首を振り、獲物の一部を力任せに引き剥がした。振り回された肉塊とともに、ボロ布のようなものが雪の上に放り出される。
トリスの視線が引き寄せられ、足が止まった。血と雪と泥に汚れたそれは、見慣れた青い羊毛の襟巻きだった。
どこぞの宿場町の女からの贈り物だと言っていたか――行きずりの色事を得意げに語る友人の顔が、トリスの脳裏に浮かんだ。
イザベルは身を屈めて城壁の上を歩いていた。
居館の二階の端から繋がる石段を見つけ、おっかなびっくり上ってみた。城壁は屋敷の煙突よりも高く、端に寄ると谷の底まで見下ろせる。冷たい風が吹き上げてきて、尻がモゾモゾするような眺望だった。
昼まで降っていた雪は止み、重い雲は流れ去っている。雪を被った『黒の山脈』は、横合いからの夕日を浴びて茜色に輝いていた。
(確か……あっちに行ったはずなんだけど……)
ディミトリの仕事が終わったのは、結局午後遅くになってからだった。
なかなか声をかける機会がなく、夕刻になってやっと、イザベルは一人で城塞を歩く彼を見かけた。それで、迷わず追いかけてきたというわけだ。
イザベルはエプロンのポケットを押さえた。ディミトリの部屋から持ち出したハンカチが入っている。いったい何をどう尋ねればよいのか、まだ整理がつかない。
足下には雪が積もっており、ところどころ凹んだり石が崩れたりして、危険なことこの上ない。イザベルは慎重に、それでも時々足を取られながら、城塞の上を巡った。
北側の谷に面した壁には手摺りも柵も、身を隠すための覆いもなかった。こちら側から敵に攻め込まれる心配がないからだろう。
半分崩れた見張り塔を経由して西側の回廊に至ると、腰の高さほどの鋸壁が立ち上がっている。かつて蛮族の侵入に備え、兵士たちはこの隙間から弓を構えたのだ。
城壁の内側に、尖った屋根の木造家屋と、夕餉の準備に忙しげな住人たちの姿が見下ろせる。イザベルは壁に手を添えながらゆっくりと歩を進めた。
西側の城壁と、正門のある南側の城壁を繋ぐ角にはやはり見張り塔がある。こちらはまだ円筒形の姿を保っていて、その窓に、イザベルが探している人間が見えた。




