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真実の片鱗

 ディミトリに夜這いをかけた、という告白に、イザベルが息を飲むのが分かる。

 こんな場所でアルボレダの男たちの慰み者にならずに生き延びるには、首領の女になるしかないと当時のオルガは思ったのだ。醜い傷を背負った自分にいかほどの価値があるか分からないが、助けた以上は何らかの使い道を考えているはずだと。

 今考えれば、少し頭がおかしくなっていたのだろう。


 しかし、寝床に忍び込んできた十五歳の少女を、ディミトリは厳しく叱りつけた。苦虫を噛み潰したような凶悪な顔をして、だが、彼女に理解できるように山向こうの民の言語を使って。


「そんなくだらない心配をする余裕があるなら、早く傷を治せって……こっぴどく叱られたわ。怪我人の小娘を犯そうとする男はここにはいないって」


 最後に、彼はオルガの短い金髪を――根元近くまで焼け切れた後、ようやく伸びてきた髪を、やや乱暴に撫でた。その手の感触と温かさに、オルガは覚えがあった。

 引っ掻かれようと噛みつかれようと、錯乱した自分の手をずっと握り、生者の世界に引き戻したのが誰だったのか、気づいたのだ。


 堰を切ったように泣きじゃくり始めたオルガを、ディミトリはしばらく困ったように見詰めた。そして結局その晩は、朝まで彼女を腕に抱いて眠った。

 彼の左頬に目立つ刀傷は、王軍兵との戦闘で負ったものだとオルガが知るのは、何ヶ月も後になってからだ。


「命を救ってくれたばかりか、ディミトリは帰る場所のない私をここに置いてくれた。高価な薬を惜しみなく使って治療してくれたし、もちろん娼婦扱いなんてしなかった。私は彼の役に立ちたくて、アルボレダの言葉を覚えて交渉事の手伝いをするようになったのよ」

「いつ……その、いつそういう関係になったの? オルガさんとあの人は」


 ずっと黙って聞いていたイザベルが、細い声でそう訪ねた。普段から血色の良い頬が、さらに薔薇色に染まっている。


「いつ寝たのかってこと?」

「うん、まあ、そういうこと」

「私がここへ来て三年も経った頃かしら。彼、珍しく酔っ払って……理性が緩んだのね」


 とはいえ、酒を飲ませたのはオルガだ。オルガが十分に大人と呼べる年齢になり、周囲から内縁関係を認知されるようになっても、ディミトリはいっこうに彼女に手を出さなかった。

 業を煮やした彼女の方が、彼がアルコールにあまり強くないのを知ったうえで、巧みに酌をしたのだ。入れ知恵をしたのはナタリーである。

 翌朝、同じ布団で目を覚まし、飛び起きてうろたえるディミトリの姿を思い出すと、オルガは今でも笑いがこみ上げる。自分は手荒い扱いをしなかったか、体は痛くないかと、申し訳ないくらい気を遣われた。


 複雑な表情で瞬きを繰り返すイザベルに近づき、オルガはベッドの端に腰を下ろした。


「イザベル、私があなたにこの話をしたのはね、ディミトリを怖がらないでほしいからなのよ。あの人は確かにアルボレダの法の外側にいて、ひどいこともさんざんしてきてる。でも少なくとも意味もなく他人を傷つける男じゃない」


 信じてあげて、とオルガは枕に散らばった栗色の髪を撫でた。

 オルガはすでに愛しい男と目の前の少女の関係を知っている。ディミトリは彼女の助言を聞き入れ、信用できる部下に手紙を託した。


 イザベルは、物憂げな眼差しで煖炉の火を見やった。


「……信じたいとは思う。でもやっぱり、あたしは本当のことが知りたい」

「ディミトリとちゃんと話をしてみなさい。あなたが真剣に尋ねれば、きっとあの人嘘は吐かない……吐けないはずよ」


 そうする、とイザベルは肯いた。南からやって来た無垢な乙女は、ずいぶん大人びた表情を見せるようになった。オルガの体の奥が鈍く痛んだ。

 ディミトリが抱いているのは庇護欲だけではないだろう。何を犠牲にしても、彼は彼女を守ろうとするはずだ。だから、決してイザベルにディミトリを憎ませてはならない。

 イザベルは、頭の下に腕を入れて、体の向きを変えた。オルガに向ける面差しは、あくまで愛らしく、子供っぽい。


「オルガさん、故郷に帰りたくはない?」

「今はここが私の故郷よ」


 その故郷を、ほどなく失うかもしれない――分かってはいても、オルガには追えなかった。自分はあの男のものだが、あの男は自分のものではないのだから。




 その日の朝食の席には、エンゾはいなかった。夜明けを待たず、旅装束で砦を出たらしい。


 昨日の意気込んだ様子は、いつも斜に構えたエンゾにしては珍しかった。かなりの長旅を命じられたのだろう、とトリスにも想像がついた。

 一声かけてくれれば見送りぐらいしてやったのに――固いパンを囓りながら、トリスは少し怒っていた。ハムも卵も今朝は取り合う相手がおらず、どうにも張り合いがない。


 今日も朝から雪掻きをし、その後は薪割りの当番だ。

 食後にのんびりと談笑する男たちを尻目に、下っ端のトリスは早々に食堂を出た。


 階段のところで、両手で盆を持ったイザベルに出くわした。

 三階でオルガとともに朝食を終えた彼女は、二人分の食器を返しに厨房へ向かっているのだ。盆に載せた皿や水差しを落とさぬよう、そろそろと歩を進めている様が見て取れた。

 覚束ない足取りに、声をかけたら危なそうだと見守っていると、案の定、大きな盆で足元が見えない彼女は階段を踏み外しそうになった。


「きゃっ……」

「おっと!」


 予想していたのでトリスの動きは素早かった。手を伸ばして盆を下から支え、反対の手でイザベルを抱き留める。陶器の食器がガチャンと派手な音を立てたが、何とか落とさずに済んだ。

 イザベルは申し訳なさそうに苦笑いした。


「ごめん、助かったわ……おはよう」

「おはよう、イザベル……ってどうしたの、その顔!?」


 普段つやつやとした頬が今朝は血色を失い、目の下には隈さえ浮かんでいる。イザベルは顔を背けて、身を離した。トリスが盆を引き受けると、両目をごしごし擦った。


「昨夜ちょっと……眠れなくて……」


 沈んだ声でそう言って、トリスを狼狽させたのも束の間、彼女はすぐに顔を上げた。今度は眉間に皺を寄せている。いつにも増して目まぐるしく表情が変わるので、トリスは少々呆れた。

 だが、次の言葉はその険しい顔つきに相応しい内容だった。

 

「あたしね、今日、旦那様ときちんと話をしようと思うの。どうしてあたしを買ったのか、ここに連れてきたのか、この先あたしをどうするつもりなのか――怖がらずにもっと早く訊いておくべきだったのよ」


 ああそれで眠れなかったのか、とトリスは腑に落ちた。

 些細な、しかし彼女にとっては覚悟が必要な決断だ。訊こうが訊くまいが現実は変わらないが、知らずに流されるのと、知って受け入れるのとは全然違う。


 二人は並んで廊下を歩き始めた。厨房まではほんのわずかな距離だ。

 イザベルはトリスに相談したいのではなく、聞いてほしいだけなのだろう。それが分かって、トリスは歩みを緩めた。朝食を終えた他の男たちが意味ありげにチラチラ視線を送ってくるが、今は無視を決め込んだ。


「……そうだね、俺もそれがいいと思う」

「それで、あたしをまたどこかに売り飛ばすつもりなら、逃げてやるわ」

「い、いや、そんな顔されたって、俺は手伝えねえよ。それに……」


 イザベルにじっと見詰められ、トリスは慌てて目を逸らす。隙あらば脱走する娘だと思い知らされていたし、今度は手を貸せと迫られかねない。


「お頭はあんたを商品にするつもりはねえよ、たぶん」

「なんでそう思うの?」

「あー、それは……」


 脱走を手助けするのと、知っていることを話すのと、罪が重いのはどちらか彼は天秤に掛けた。

 口止めはされていない、と自分に言い訳をしつつ、


「お頭はずっとあんたを探してたからだよ。旅の途中、あんたの故郷の村で葡萄酒を買いつけて、地主の娘が行方不明だって噂が耳に入って……そんで旅程を変えてエカーヴの町に急いだんだ」


 と、旅の間に見た事実をそのまま話した。

 他の仲間たちは、先を急いだディミトリの判断を訝しみつつも、その理由までは知らない。イザベルを捜索するためだと知っているのは、腹心のバティストと、たまたま傍にいたトリスだけだった。

 だからこそ宿での救出や旅の間の護衛など、便利に使い倒されたわけだが。


 イザベルは目を丸くして立ち止まった。


「それほんと? どうして……?」

「そこをお頭に訊いてみなよ。あんたを家に帰したいのか、ずっと手元に置いておきたいのかは知らねえけど……」


 後者だとしたらイザベルは逃げるだろうか、と考えてしまい、トリスの声が細くなった。ディミトリがイザベルに執心しているのは事実である。すんなりと帰郷を許すとは思えない。

 仲間内で噂になっているように、二番目の妻にするつもりでいたとしたら。


 そうしたら、逃亡に手を貸すのか、俺は――あまりに大それた行動に思え、かつそう思ってしまう自分が不甲斐なくもあり、トリスは舌打ちをした。


 イザベルの耳には届かなかったようた。

 彼女は口元に手を当てて何やら考え込んでいた。厨房に下げる食器をトリスに渡したことも忘れ、そのままもと来た方向へ引き返してしまったのである。

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