楽しい朝食
イザベルは夢を見ていた。
一面の葡萄畑――故郷の夢だ。
等間隔に伐たれた杭に葡萄の蔓がみっしりと巻きつき、緑色の葉の中に黒い房を抱いていた。あと数日で穫り入れが始まる。村はとても忙しくなるだろう。
イザベルは普段着にエプロンをつけて、畝の間を歩いている。空は高く青く、辺りは花の香りに満ちていた。葡萄畑を取り囲む生垣に咲いた薔薇だろう。収穫の季節にはもう花が落ちているはずなのに、夢の中では何も違和感を覚えなかった。
彼女が若い葡萄の実に手を伸ばした時、イザベル、と名前を呼ばれた。
視線を巡らせた先に父と母が立っていた。父は鍬を担ぎ、母は収穫用の籠を肩に掛けている。小さい弟と妹が二人に纏わりついていた。
イザベルは嬉しくなった。お父さんが死んだなんて嘘だった。あたし、もうどこにも行かなくていい。
スカートの裾を持ち上げて、両親の方へ駆け出す。葡萄の葉がざわざわと彼女の肩を擦った。薔薇の香りが濃くなる。強い日差しが彼女の髪を熱くした。
ふと、場違いな冷気が足首を撫でた。
ここはおまえのいる場所じゃない――と、背後で誰かが言う。凍てつく北の大気が地面を凍らせる。
イザベルは足先に激しい痒みを覚えた。靴の中で指が凍り始めている。家族に向かって伸ばした手も、赤く腫れ上がって変色していた。収穫されなかった葡萄のように腐り落ちてしまうのだろう。
おまえだけがいらないのよ――乾いた女の声に振り向くと、そこにいたのは灰色の頬髭を蓄えた男だった。感情の読めない眼差しでイザベルを見詰めながら、手には剣を提げている。
いつの間にか豊穣の葡萄畑は消え、色彩のない冬の森に変わっていた。くすむ世界の中で、男の剣から滴る血だけが鮮烈に赤かった。
目覚めてすぐ、イザベルは一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
見たことのない天井、馴染みのない柄の寝具――記憶が甦って、遙か彼方に離れてしまった故郷を思い、布団の中で少し泣いた。
(お母さんはどんなに心配してるだろう)
そう思う一方、
(だけど、このままあたしが帰らない方が皆のためかもしれない。あたしがいたら、お母さんはまた辛い思いをさせられる)
と、夢の中まで追いかけてきたあの女の声を思い出した。ディミトリに感じるのとはまた別種の恐怖だった。
いずれにせよ、寝床でクヨクヨしていても始まらなかった。イザベルは涙を拭うと、勢いよく布団を跳ね上げた。
暖炉で残り火がチロチロと燃えている。とても静かだ。カーテンのない窓は鎧戸が閉められていて外の様子が分からなかったが、夜は明けているはずだ。
イザベルは裸足のまま窓際へ行く。
高い位置にある窓を開けるのに四苦八苦しつつ、何とか成功した途端、冷たい外気が流れ込んできた。身を竦めながら、しかし彼女はわあっと歓声を上げた。
垂れ込めた厚い雲が日差しを遮っていたが、風景は白く明るい。夕刻に降り始めた雪が一晩で降り積もったのだろう。窓の外はすっかり雪景色だった。
この部屋は崖側に位置するらしく、城壁の下の谷底まで見下ろせた。みっしりと立ち並んだ針葉樹の森は、柔らかそうな白い布団を被っている。谷の向こうは連なった山の壁だ。雪を纏った峰々は今にも手が届きそうなほど近い。この地はすでに国境である『黒の山脈』の一部なのだった。
温暖な南部で生まれ育ったイザベルは、白い息を吐きながら風景に見入った。故郷との隔たりに絶望するのも忘れ、その雄大さにすっかり飲まれてしまった。
(何てすごい眺め。同じ国の中だなんてとても思えない)
不安で押し潰されていた胸の中に、森の臭いを孕んだ冷気が満ちていく。それはイザベルの背筋をしゃんと伸ばさせた。
(とりあえず今は悩むのをやめよう。どうせこんな所からは逃げ出せない。熊男があたしをどうするつもりか分からないけれど、今すぐ殺されたりはしないわ。じっと我慢して機会を窺うのよ)
健気な決意は開き直りと紙一重ではあったが、十七歳の少女は精一杯の勇気を奮い立たせた。
朝食を持ってきたオルガは、少し困った顔をした。
「何をすればいいかと言われても……ここにいるだけでは不満?」
「あたし、ここの男の人たちの相手をさせられたり、よそに売り飛ばされたりはしないんですよね? 少なくとも今すぐには」
イザベルはパンをちぎってむしゃむしゃと咀嚼する。黴臭いチーズは口に合わなかったが、鼻を摘まんで飲み込んだ。しっかり栄養を摂って体力を蓄えなければならない。
「だったらあたしは奴隷でも商品でもないわ。穀潰しのお客様になるよりも、食べる分は働かせて下さい」
昨夜とはずいぶん印象の変わった娘を前に、オルガは苦笑した。旅の途中に三度も逃亡を図ったことは、ディミトリから寝物語に聞いている。一度などは気の毒なトリスを殴り倒したというではないか。こちらが本来の彼女なのかもしれない。
「ディミトリ本人に頼んでみなさいな。ちょうど今、彼も食事中よ」
「え、でも」
「取って食われやしないわよ」
オルガは雪でできたような美貌に少女めいた笑みを浮かべて、イザベルの口元からパン屑を摘まみ取った。
食堂と聞いて王宮の大広間のような場所を想像していたイザベルは、十人以上の男たちが長テーブルを囲んでガヤガヤと飲み食いする様子にがっかりした。
部屋自体もあまり広くはないし、それ以上に人の密度が高すぎるのだ。ガタイのいい男たちが肘がぶつかりそうな距離で座り、賑やかに話しながら朝餉を摂っている。料理はごく質素なものだったが、量だけはたっぷりあった。料理番らしき若い男が懸命に追加の皿を運んでいた。
食卓の末席にはトリスもいた。同年代らしいもう一人の若者と並んで、食いっぱぐれまいと大皿を引き寄せている。
オルガとともに入ってきたイザベルに気づき、へらりと笑って手を振るも、その隙に横から腸詰めをかっ攫われた。
「あっこら、それ俺の!」
「うるせえ、早いもん勝ちだ」
下っ端同士のくだらない争いは、ここでは日常茶飯事らしかった。
他の男たちは、オルガとともに入ってきたイザベルに好色な目を向けた。口笛を吹いたりキスを投げたり露骨に煽る者もいた。
(山賊とたいして変わらないわね)
イザベルは頬を赤くして胸を押さえた。着ているのはオルガに借りたチュニックだが、彼女には少し大きい。後で袖と裾を詰めなければなるまい。
そのオルガが、
「静かにおし。ディミトリに話があって来たのよ」
と叱ると、ざわめきはぴたりと収まった。ニヤニヤ笑いは残しつつ、男たちは成り行きを眺めている。
いちばん奥の席に着いたディミトリは、こちらを向いて座っていた。左頬の傷といい強い灰色の髭といい、相変わらず人好きとは程遠い容貌だ。
倚子の間を縫って彼の前に進み、
「何のためにあたしをここに連れて来たんですか?」
イザベルは率直にそう訊いた。口にすると、今までためらっていたのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
ディミトリはスープを掬っていた匙を置き、テーブルに肘をついた。
「話してやる義務はない。おまえを買い取ったのは俺だ。どう扱おうと俺の勝手だ」
今日初めて聞いた彼の声は、相変わらず無感情だった。
ならさっさと煮るなり焼くなりしなさいよ、と自棄になりそうな気持ちを抑えて、イザベルは努めて冷静に希望を伝えた。
「……あたしに何か仕事を下さい」




