道化師とのお散歩
仕事をくれと言われ、ディミトリの目が少し見開かれたのを、イザベルは見逃さなかった。
俺のベッドに来たら腰が抜けるまでお仕事させてやるよ――品のない茶々を入れた男の頭を、オルガがぽこんと殴った。
「あなたたちの蓄えで養われるのは嫌です。掃除でも洗濯でも料理でも、たいていのことは母から仕込まれています。働かせて下さい」
「宿の主人から、裕福な地主の娘だと聞いたが」
「あたしは貴族のお姫様じゃありません。母は何でも家事をこなしましたし、父は小作人とともに野良仕事をしていました」
イザベルはじっとディミトリを見詰めた。半月近くともに旅をすれば強面にも慣れた。同じ天幕で寝泊まりした仲でもある。盗賊を殲滅した非情さには背筋が凍ったが、当初ほどの恐れはなかった。
(静かな男だわ)
そんな印象を抱いていた。手下どもに交ざって浮かれ騒ぐところを見たことがない。
今も、同じ食卓につきながら彼の周囲だけ別世界だった。彼の手元にはパン屑の一粒すら零れていないし、濃い髭にはスープの一滴さえついていなかった。それこそ王宮の食事会に招かれた客のようだ。そして、北の辺境に住んでいるにも拘わらず、訛りのないアルボレダ語。
(もしかすると、物すごく育ちのいい人なのかもしれない)
自分でも驚くほど、目の前の男に対する興味がむくむくと湧き上がってきた。現在の不安な状況から目を逸らすための、無意識の自己防衛かもしれなかった。
食い入るような榛色の視線を、ディミトリは冷めた表情で受け流した。
「……好きにしろ。三流の女衒に騙されるような小娘に、何ができるか知らんが」
小馬鹿にしたような皮肉に、イザベルはむしろ人間味を感じた。少なくとも自分にまったく興味がないわけではないのだと分かって、なぜか安心した。
騙されて売り飛ばされた事情までどうして知っているのか、彼女が訝しんだのは少し時間が経ってからのことである。
騒々しい食堂から出てきたイザベルとオルガを、トリスが追いかけてきた。
「おはよう、オルガさん、お嬢ちゃん!」
朝食の分け前を慌てて掻き込んできたのか、口元に蒸かし芋をつけている。オルガは苦笑し、イザベルは眉を顰めた。
「口、くち。それからその呼び方やめてもらえる?」
「じゃあ、イザベルって呼ばせてもらうよ。ゆっくり眠れたかい?」
トリスは袖で口元を擦って、いつもどおりの人懐っこい笑みを向ける。冷酷に敵を屠った戦士と同一人物とは、イザベルにはどうしても実感できなかった。
「お頭にあんなこと言うなんて、怖い物知らずだね。何でそんなに働きたいのさ? ていうか、料理できないなんて俺に嘘吐いたな」
笑顔はそのまま、わざとらしく恨みがましい物言いをされ、イザベルはそっぽを向いた。三度目に逃亡した際、何も手伝えないと出任せを言ったのだ。
「会ったばかりのチャラついた男に、女の子が本音を明かすわけないでしょう」
オルガが正論で擁護して、トリスをしゅんとさせた。
「イザベルにできそうな仕事は、私が見繕っておくわ。その前にトリス、ここを案内してあげなさいな。どうせ暇でしょ?」
「はい! 暇です!」
「え、そんな、オルガさん……」
「外套を取ってきてあげるから、ちょっと待ってて」
戸惑うイザベルを残し、オルガは一人で部屋へ戻っていく。そのすらりとした後ろ姿を、トリスは嬉しそうに見送っている。尻尾を振る仔犬を思わせた。
(親分の女に横恋慕かしら。オルガさん美人だものね)
イザベルが呆れたのが伝わったのか、トリスは小さく咳払いをして、それから恭しく胸に手を当てる。
「それではご案内いたしましょう、お嬢様」
「だからその呼び方」
トリスに連れられて、イザベルは屋敷の中をひと通り案内された。
といっても、トリスには立ち入りを許されていない場所も多く、見せてもらえたのは食堂や厨房や風呂場、厩舎のある一階と、手下の男どもが大部屋で寝泊まりする二階だけだった。三階はディミトリとオルガが使っており、そこにイザベルが居候する形になっている。
「まるで王様とお妃様ね」
イザベルは皮肉のつもりでそう言ったが、トリスは大きく肯いた。
「そうだね、小さい国みたいなもんだ。しかも、ここだけじゃなく国中のあちこちに家来が散らばってる」
本物の王様より力を持っているかもな、などと嘯いた。
「力? 密輸をしたり人から奪ったり、悪いことばかりしてるんでしょ」
「悪いかどうかなんて、考え方次第だよ。少なくともここの連中は、お頭のやってることに道理があると思ってるから従ってる。俺もそうだ。ここの暮らしは厳しいけど……誰にとっても公平なんだ」
トリスの言っている意味は、イザベルにはよく分からなかった。自分を取り巻く世界が公平か不公平かなど考えたこともない。ただ、
(こんな暮らしに道理を感じるなんて、この人は今までどんな目に遭ってきたんだろう)
そう、ディミトリに対する好奇心とは別の意味で興味を惹かれた。
「おお、ここにいたか。ようやく見つけた」
次は外を案内すると言われ、外套を羽織って裏口から外に出ようとしたところで、後ろから呼び止められた。
金茶色の髪をした若い男だった。髯はないが肌は少し浅黒く、体つきもがっしりしている。
「エンゾ、何か用か?」
トリスは面倒くさげに対応した。先ほど食卓で朝食を奪い合っていた奴だ。そいつはニヤリとして、
「何か用かじゃねえだろ。こんな別嬪さんを独り占めするなんて狡ぃぞ。イザベルちゃん……だっけ? 俺、エンゾ。お頭の右腕」
馴れ馴れしくイザベルの肩に手を回す。野性的を通り越して野卑な印象を抱き、イザベルは身を竦ませた。
(どいつもこいつもここの奴らときたら……それにあの男、何本右腕があるのよ)
トリスはエンゾの手を払いのけた。
「気やすく触んな」
「かっこつけんなよ。この子の警護を仰せつかってたのは旅の間だけだろ?」
エンゾはせせら笑って、声を潜めた。
「イザベルちゃん、こいつねえ、女の子には手が早ぇんだよ。気をつけな」
「それはおまえだろうが。お供に選ばれなかったからって僻むなよ」
「ただの雑用係じゃん。偉そうに言うな」
罵倒の応酬ではあったが、二人のやり取りは悪友同士のじゃれ合いの範疇だった。イザベルにもそれが分かったので、まともに相手をするのが馬鹿馬鹿しくなった。
エンゾはふうと息をついてから、やや表情を引き締めた。
「バティストさんに言われておまえを探してたんだ。ロジェさんとこ行ってくれ。ガストン爺さんがとうとうおっ死んだらしい」
それを聞いて、トリスも神妙な面持ちになる。
「そっか……この冬は越せなかったんだな」
「イザベルちゃんは俺が預かっといてやるよ。どう、俺の部屋来ない? 今なら誰もいねえからさ」
下心を隠しもしないエンゾに舌打ちして、トリスはイザベルの手を引っ張った。
館の外は空気がぴりりと冷たい。温かな室内に慣れていたイザベルは、鼻の奥が痛んで顔を顰めた。だが、すぐに目を見開いた。
雲の間から朝日が差し込み、降り積もった雪をキラキラと輝かせていた。太陽はほとんど隠れているのに、驚くほど明るい。北国の人間が冬場に日焼けする理由が分かった。
館の屋根にも、城壁の上にも、それから所帯持ちの手下が住むという家々にも、綿菓子のような雪が積もっている。足元の雪はまだふわふわと柔らかく、イザベルは何度も踏み締めて感触を愉しんだ。
南から来た少女には物珍しい積雪も、ここに住まう者にとっては恒例の厄介者だ。住民たちは雪篦を手に外へ出て、家の前や通路の雪をせっせと掻き分けていた。
「もう少し積もったら屋根からも雪を下ろさなきゃならない。そうしないと家が潰れちまうからな。村中総出でやるんだ」
トリスはだるそうに腕を回した。若い彼は労働力として大いに期待されているのだろう。
「ゆっくり案内したかったけど、ちょっと付き合ってもらえる?」
「ガストン爺さん……とかいう人の所?」
「そう。ロジェさんは知ってるだろ? あの人の親父さん。ここの最長老」
イザベルの手を引いて、雪道をざくざくと歩き始める。彼女を気遣って、多少ゆっくりとした歩みだった。
ロジェは旅の一団の一人だった。陽気だが下品な軽口が多くてイザベルは辟易していた。その男の高齢の父親が死んだらしいが、それでなぜトリスが呼ばれるのかよく分からなかった。




