フェアリー族の政治(五つの種族、五人の使者)
群青の髪をした若きフェイの王子が、大洋の縁に抱かれた海沿いの都市の浜辺に立っていた。冷たい波が足首を洗い、背骨を駆け上がる心地よい戦慄が翅の奥まで共鳴するのを味わう。頁岩のような青灰の掌で長い前髪を尖った耳の後ろへ払うのは、視界を保つための終わりなき小競り合いだ。細身の冠はヘッドバンドのように額に収まっているが、奔放な髪を制するには心許ない。それでも王子は笑み、潮風に煽られて腰まで届く髪が大きくはためく感触を楽しんだ。
その頃、海岸からほど近い見事な珊瑚彫刻の城塞の奥で、アクア・フェイの王ローリアンは、キタニから届けられた書状の封を切っていた。
「アクア・フェイの主へ――」
王は内心で乾いた溜息をつく。(言葉が荒いな)
――我らはあなた方に、これまで何も求めてこなかった。顔を合わせたことすらない。だが、私はフロスト・フェイに代わって筆を執る。キタニの長老筆頭マイロ・ウルフシーンは、フロスト・フェイの若きカエル王子を保護した。彼は貴君らを探す途上で道に迷い、我らの森へ迷い込んだのだ。王子は凄惨な体験を語った。
フロスト・フェイの領に、大群のデーモンが侵入している。貴君らの使者を、キタニの主営シカリへ派遣されたい。我らキタニは狩魔の民として既にフロスト・フェイに与し、戦いを支えると誓った。そなたらはどうか。評議のため、我らの村に参集されたい。可能なら、そなたらの同盟者も伴われよ。切に願う。力を貸されたい。
敬具 キタニ長老筆頭 マイロ・ウルフシーン
ローリアン王は一度、二度、そして三度と書面を読み返した。最も近しい盟友であるフロスト・フェイが襲われているというのか。王は鋭い合図で伝令を呼び、羽根ペンと新しい羊皮紙を二枚持たせると、まずキタニへの返書を素早くしたためた。フロスト・フェイに独りで戦わせはしない。
「王子を呼べ」ローリアン王は侍臣に命じた。「急げ」一礼とともに侍臣が玉座の間を駆け出す。王は椅子へ身を戻し、水を纏ったような自らの翅をせわしなく震わせながら短く息をついた。
やがて侍臣は海辺へ辿り着いた。「タイド王子。陛下がお召しです」
アクア・フェイのタイド王子は立ち上がり、濡れた腰までの髪を肩へ払う。「父上が私を?」王子は侍臣を見つめる。
侍臣はうなずいた。「はっ。できるだけ早くと」
「承知した」王子は微笑み、軽やかに海を上がって宮へと続く小径を進み始めた。
ほどなく白珊瑚の美しい宮殿に着く。階段の下には王子の履き物が用意されている。足を拭って靴をはき、城内へ。壮麗な広間を抜けると、濃い藍の絨毯が敷かれた長い回廊が続き、壁には海の物語を織り込んだタペストリーが連なる。アクア・フェイの歴史、巨大な海蛇、そして人魚――実在し、しかも悪名高く意地悪な民――の場面までも。回廊の果て、王子は重厚な扉を叩いた。流木を選び抜いて組み上げた、素朴と威厳を両立させた扉だ。
「入れ」父ローリアン王の声が返る。
王子は静かに入室し、扉を閉めて玉座へ進む。恭しく一礼し、背を正した。「お呼びとのこと、父上」
王はキタニからの書簡を差し出し、うなずく。「フロスト・フェイが攻撃を受け、カエル王子がキタニの森へ避難したとある」ローリアン王は眉を上げて目を閉じ、片手に額を預けながら告げた。
王子の表情が強ばる。「フロスト・フェイが――襲撃を? 誰に? パイロ・フェイか」握った拳に力がこもる。
王は首を振った。「私の受けた報せでは、パイロ・フェイは関与していない。敵はデーモンだ。キタニは今後の策を定める評議に我らの使節を求めている」ローリアン王は背にもたれ、ひと呼吸置く。「タイド。お前に行ってほしい。アクア・フェイを代表して動け。私はお前に託す」
王はまっすぐに王子を見据えた。これがタイドの最初の本任務になる。本来ならば、とうに使節として諸国を巡っていて然るべき年頃だが、王は息子を熱心に庇護し、危うい政治の現場から遠ざけてきた。その点、従兄弟にあたるフロスト・フェイの王も同じで、カエル王子はタイド以上に守られて育った。だが今、二人とも外の世界に踏み出す。
タイドは深く一礼し、踵をそろえた。「父上、承ります。決して失望はさせません」
地理と地図に通じる王子は、キタニの森への進路を即座に思い描き出立した。王はしばし沈思したのち、再び羽根ペンを取り上げる。もう一通、盟友のジオ・フェイ宛ての書状だ。フロスト・フェイには一刻の猶予もない。
平原を隔てた濃密な森林で、ジオ・フェイの王タランはアクア・フェイからの使信を読み、見開いた目で内容を飲み込むや否や王子の召喚を命じた。同時に、第二の盟友ストーム・フェイにも急使を飛ばす。事あれば彼らは頼りになる。
森の別の場所。ジオ・フェイの若き王子は高い梢に身を潜めていた。薄褐色の装束と若草色の肌は樹冠に溶け込み、完璧な擬態となる。小川の縁では、水の精が竪琴を奏でている。精霊はふと動きを止め、大きな瞳を鋭く光らせると、岸辺へ近づくジオ・フェイの伝令の足音に気づいて流れへ身を投じ、姿を消した。
「シルヴァン王子?」伝令が呼ぶ。
ジオ・フェイの王子シルヴァンは梢から軽やかに身を躍らせた。「ここだ、伝令」届く程度に声を張る。伝令は振り向き、一礼して駆け寄った。
「ただちに陛下がお召しです」
シルヴァンは首を傾げる。「承知。ご苦労」翼をひと打ち、王子は梢の住まいへと静かに舞い戻る。日差しの差す回廊のベランダには王タランが玉座に腰を掛けている。「――で?」シルヴァンは定型の前置きを省いた。
王は息子を見やり、「キタニの森で評議が開かれる。フロスト・フェイの領に押し寄せるデーモンについて協議する。お前が行け。私は今、水の精との件に決着をつけねばならん」
シルヴァンは頭を垂れて笑む。「了解。ジオ・フェイの代表として参じよう」王がうなずくと、王子は翼を広げ、キタニの森へと飛び去った。
雷鳴轟くサンダー・マウンテンズでは、ストーム・フェイの王ゼヴと王太子ジャレクが手合わせの最中だった。ジャレクは強靭な戦士だ。父が放つ雷撃を身をひるがえしてかわし、橙の瞳が鋭く走る。血に満ちた電気が二色の髪を逆立たせ、動くたびに揺らめく。父の雷槍よりやや短い武器を右手に構え、投擲に移ろうとしたところで、伝令が演武の円へ駆け込んだ。
「止め」ゼヴ王は低く告げ、膝を落とす息子へ手を上げる。
伝令が差し出したのは、葉の印の押されたジオ・フェイの書状。目を通した王は深く息を吐く。
様子を窺っていたジャレクが歩み寄る。「何事です」声は厳粛だが、怯えはない。王が手紙を手渡すと、息子の表情はさらに引き締まった。近づきつつあるフェイの戦の影が、はっきりと見える。
「評議へ出向きましょうか、父上」任を受ける準備は常にできている。
王はうなずく。「頼む。私はパイロ・フェイにも使いを出す」
ジャレクの眉が寄る。「本当によろしいのですか。彼らは自領のデーモン掃討で手一杯ですし、私とモルガナ殿下の婚儀の準備も――」
父の厳しい一瞥に、ジャレクは目を伏せた。「……はい。フロスト・フェイは気丈だが、戦力は薄い。フェイすべての助力が要る」間を置いて、ゼヴ王はふっと笑む。「もしかするとモルガナ王女が来るやもしれん。婚儀の前に顔を合わせられるぞ」
ジャレクは露骨に顔をしかめた。「それは困ります! モルガナ殿下に危険な思いはさせたくない」
王は首を振るしかなかった。「息子よ、モルガナ王女は毎日デーモンと渡り合っている。彼女は水晶のように脆くはない。お前が彼女を娶る理由のひとつだ」
渋々ながら、ジャレクはうなずいた。「では、ただちに」王が黙って許すと、ジャレクは雷槍を解き放ち、それは空気に溶けるように消えた。王太子は翼を広げ、一陣の稲妻のごとく視界から消える。ゼヴ王はすぐさま第二の急使を立て、パイロ・フェイへ書状を託した。いまは一刻を争う。
「はっ!」と高い声が上がる。ひとりの女が、火口の外縁からデーモンの群れを丸ごと吹き飛ばしていた。砕けた角と醜悪な歯列を持つアッシュボーンどもが山肌を転げ落ちるのを見下ろしながら、女は背筋を伸ばす。赤い前髪と黒髪の編み込みが、山頂の風に燃え立つ焔のように踊る。パイロ・フェイの王女、モルガナ。大軍勢すら単身で退けうる力の持ち主にとって、群れの小競り合いなど造作もない。腕を組み、深紅のスカーフを整えて、山肌をよじ登るデーモンが途絶えるのを待つ。
そこへストーム・フェイの使者が姿を現した。婚儀まで直接の連絡はないはずで、モルガナはわずかに目を細める。使者は彼女を認めると深々と一礼して近づいた。
「何の用件かしら」彼女の声は澄み、力強く、よく通る。
使者は王家の雷印で封じられた書状を捧げ持つ。モルガナはそれを受けると、「下がって」とだけ告げる。使者はもう一度礼をして火山の斜面へ戻っていった。宛てはパイロ・フェイの王――イグニス。モルガナは蜻蛉のような真紅の翅を震わせ、火口の内へ身を踊らせる。
麓に降り立つ。大地は火成岩で、村には溶岩の小川が走る。建物は同じ岩で組まれ、継ぎ目はフェイの魔でもって融かしてある。毒気をものともせず、モルガナは山体に穿たれた巨大な城へ駆け込んだ。玉座の間へ一直線に向かう。
玉座は黒曜石の塊から彫り出され、その上に座すパイロ・フェイの王が火光を纏って輝かせている。イグニス王。炎の翅と光る双眸を持つ大柄なフェイは、片肘を突きながら、戦に出す兵が若すぎると嘆く助言役の訴えを聞き流していた。
モルガナが入ると、王は身を起こす。助言役に薄く笑い、「兵が若すぎると言ったな? ここに見本がいる」と玉座下に立つ娘を指す。「そなたが槍玉に挙げている者よりさらに三つ若い頃から、モルガナは戦っている。それでいて戦果は上々だ」
腕を組んだまま、モルガナは黙って立つ。助言役は納得いかぬ顔を抑え込み、深く頭を垂れて辞去した。彼女の前でこれ以上言い募れば、不敬として命に関わると知っているのだ。
助言役が去るのを待って、モルガナが口を開く。「ストーム・フェイの使者が来ました」一歩下がって書状を差し出す。「父上宛てです」王が読み終えるのを待つ。
イグニス王の顔は初めこそ険しかったが、やがて口端が吊り上がり、含み笑いが漏れた。モルガナは鍛えられているから焦れを表に出さない。だが、婚約者ジャレクの国が何を伝えてきたのか、わずかに胸の内が騒ぐ。忍耐――戦場以外では未だ未熟な徳だ。
ようやく王が言う。「どうやら、愛しのフロスト・フェイがまた厄介事に巻き込まれたらしい」
モルガナは眉をわずかに上げた。(それを、なぜストーム・フェイが我らに?)
「マイロ・ウルフシーン率いる“狩魔の民”がカエル王子に同情し、キタニの森でフェイ評議を開くという。ゼヴ王は我らにも参集を求めている」王は最後まで目を走らせ、「それから……ストーム・フェイの使節はジャレク王子らしいな」と付け加えた。
沈黙を守る娘に、王は視線を落とす。「今日は大人しいな」
「ストーム・フェイが、なぜ我らにフロスト・フェイを助けろと言うのか、考えていました」モルガナは唇を険しく結ぶ。「ゼヴ王は、我らが彼らに好意的でないことを知っているはず」
イグニス王の目が厳しく光る。「招請を断るつもりか。ゼヴ王の不興を買い、ジャレク王子との婚儀を危うくする気か」
モルガナは奥歯を噛みしめて父を睨み、それから顔をそらした。
王は勝ち誇ったように笑む。「そうだ。行け。猶予はない。急げ」
モルガナは右拳を胸に当て、敬礼する。翻ったローブとスカーフが音を立て、彼女は玉座の間を後にした。外気に躍り出ると、翅が微かに震え、すぐに目にも留まらぬ速さで羽搏きへ移る。歩みはそのまま上昇の軌道に変わり、彼女は軽々と空を攀じて、キタニの森を目指した。




