キタニとしての新生活と凍れる王子
数日後の朝、アストラはシカリ――キタニの主営――の天幕で目を覚ました。そっと身を起こし、白い下穿きの上から、ゆったりとした大きめのズボンをはく。左袖は短く、右袖は長く仕立てられた特製の深紅のチュニックに手を伸ばす。重いレリックハンドを袖口に通そうとして少し手間取り、結局は頭から被って整えると、腹の上で終わる丈の短い黒いベストを重ねた。
視線を落とすと、新しい大剣がそこにある。――これは常に携えるべきだろうか。いつ襲撃があるかは誰にも読めない。ならば持っていくべきだ。アストラは柄をつかんで立ち上がりかけ、ふと動きを止めて目を見張った。
今のは、右手で持ち上げた――人間の、元の手で。レリックハンドではない。
(……どこか、強くなっている?)彼はしばらく剣を見つめ、それから大剣を肩に担いで外に出た。強烈な陽光に一瞬まばたきをするが、驚くほどすぐに視界が馴染む。焚き火のそばには村の長マイロが立ち、少し離れた円の中ではエイロが娘のカイラと手合わせをしている。
アストラはしばしふたりの稽古を眺めた。華奢な体つきにもかかわらず、カイラは長い手足を見事に制御している。基本は受け流しだが、要所で鋭い打ち込みを差し込む。エイロの体勢が一瞬泳いだ隙に、彼女は跳躍した。軸足を切り替えて右のクレセントを放つ。父は頭を低くしてかわすが、その回転の勢いのまま同じ動きを見せかけ、すぐさま逆回転。今度は左のクレセントがきれいに入り、エイロの体勢を崩した。カイラは軽やかに地に降り、にっこり笑う。父は苦笑しながら立ち上がり、こめかみをさすった。
「やるな、カイラ。一本取られた」エイロは笑い、こめかみを軽くこする。
カイラはアストラに気づくと、ぱっと背筋を伸ばし、手を背に回して歯を見せて笑った。
「ねえ、レリックハンド!」と舌をちょろりと出し、「その手、ちゃんと動いてるみたいじゃない!」と、くすくす笑いながらアストラの右手を顎で示す。
アストラはふたりのそばへ歩み寄り、会釈した。ここで知っているのは、エイロとカイラ、そしてマイロくらいのもの。村にいるのは、まだどこか落ち着かない。「まあ、悪くはない」と聞こえる程度の声で答える。
エイロは片目をつむって笑い、人差し指を立てた。「ちょっと待っていな。渡したい物がある」もう一度ニッと笑ってから、彼は近くの天幕へ消えた。――外見はどれも大差ない天幕なのに、どうやって見分けているのだろう。
カイラが一歩近づく。稽古の汗が肌をつたっているのが、間近で見るとよくわかる。「ほんとに、ずっと寝てたの?」明るい調子で問う。
アストラはうなずいた。「ほかに、やることもないし」と気のない声。
カイラは目を丸くして眉を跳ね上げ、「ほかに? ――ほかに“ない”わけないでしょ」と肩をすくめて笑う。「手合わせ、鍛錬、勉強、仕事、走り込み……いくらでも!」
アストラは答えず、数分ほどその顔を見つめていた。そこへ、エイロが戻ってくる。手には厚い革のベルト。
「これだ」エイロはベルトを差し出した。「お前の剣帯だ。こうやって斜めに肩から回して――」彼はアストラの胸を横切るようにベルトを回し、留め金を外して装着してみせる。「背中のフックに剣を掛けられる。いちいち手に持たなくていいが、いつでも一緒だ」エイロは大剣をフックに固定し、満足げに後ろへ体を引いた。
アストラは剣帯を見下ろす。巨大な剣を手で持ち続けなくてよいという事実は、想像以上に心強かった。はしゃぐエイロへ視線を戻し、「ありがとう」と小さく言う。命を救い、匿ってくれた相手に、あまりに短い言葉だ。足元を見つめ、頬が熱くなる。
エイロは照れたように笑い、「気にするな」と苦笑いで返した。
カイラはふたりをちらりと見比べると、ぱしん、と父とアストラの頭を軽くはたいた。「はい、捕まえた!」と言い捨て、返事を待たずに森の方へ駆け込む。
エイロは豪快に笑った。
「追いかけてほしいんだろうな」とアストラが小声で言う。
エイロは目を細めてうなずく。「そうだろう。あの子、鬼ごっこが大好きでね。教えたのは失敗だったかもしれん」
その時、森の方から派手な落下音と痛そうな「いてっ!」が響いた。
「おい!」くたびれた、不思議な声が上がる。
続いてカイラの声。「ごめん! そんなに痛くしてないはずだけど!」少し間があってから、また叫ぶ。
「い、いや、その……うわっ!」相手の呻きは、なおも続くが、カイラの声が被さる。
「ほら、手、貸す!」――「ああ、頼む……」
ほどなく、広場へ戻ってきたカイラは、見慣れない少年の肩を支えていた。人の十五歳ほどの体躯だが、アストラの知るどの種とも違う。板石のような青灰の瞳、尖った耳、長い銀髪、淡いセルリアンの肌。蜻蛉に似た銀の翅を背に持つ。濃紺のチュニックに同色の長い脚衣、艶のある黒のブーツ。白い毛皮の縁取りが施されたウルトラマリンの外套をまとい、額にはアクアマリンのヘッドバンド、眉間には青いペンダントが揺れている。
「フロスト・フェイだ!」アストラの背後から誰かが叫んだ。
エイロが駆け寄り、フェイの少年を近くの長椅子へ座らせる。間近で見ると、汗が滝のように流れているのがわかった。マイロも歩み寄り、状況をひと目で見渡す。
「カイラ」マイロが名を呼ぶ。彼女は顔を向けた。「客人に冷たい水を一杯」カイラはこくりと頷き、駆け去る。
マイロはゆっくり腰を下ろし、目を閉じて浅く呼吸するフェイの横顔をのぞき込む。青い肌には汗がべったりと貼りついている。やがて回復を待って、静かに口を開いた。
「名は?」と前かがみに問いかける。
「く……カエル」少年はどもりながら答える。「――カエル王子だ」
ちょうどカイラが氷水の入った杯を持って戻ってくる。マイロは頷いて身を引いた。カイラは杯を差し出す。「どうぞ。たっぷり飲んで」
カエルは一瞬カイラの顔を見、それから杯へ視線を落とす。切迫した渇きが瞳を大きく見開かせた。彼は一息に杯を掴み、氷水を喉へ流し込む。
カイラとアストラは目を丸くする。「それ、飲むっていうより吸い込んでたよ!」カイラが思わず叫び、アストラも頷く。だがマイロの鋭い視線が、ふたりの口を閉じさせた。
氷水を飲み干したカエルは、息を切らしながらもいくらか顔色を取り戻した。袖で汗を拭い、改めてカイラに向き直る。「ありがとう」澄んだ、芯の通った声。
カイラは微笑んでうなずく。マイロがもう一度、確かめるように口を開いた。
「カエル殿。王子と名乗ったな」
カエル王子はうなずく。「はい、閣下。――私はフロスト・フェイのカエル王子」
「ならば、何ゆえこの地へ?」
カエルは目を開き、まっすぐマイロを見据えた。「三日前より、我が領域は連日の攻囲に遭っている。援軍を求めに来た。本来はアクア・フェイへ向かう途中だったが、道に迷った」抑制の利いた端的な口調。――本物の王族だ、とアストラは確信する。
「攻囲だと? 敵は何者だ」マイロの声に、周囲のキタニがいつの間にか集まっているのがわかる。
「デーモン。数が多すぎる。数えきれない。私たちだけの戦力では持ちこたえられない」カエルが述べると、ざわめきが輪を走った。「私はアクア・フェイへ行かなければ。彼らが唯一の同盟者だ」目にかすかな焦燥と、声に切実な熱が宿る。
マイロはいつもの飄々さで口端を上げる。「唯一の同盟者?」と穏やかに反芻し、集うキタニたちをぐるりと見回してから首を振った。「若き王子よ、よく見てみるがいい。ここはデーモン狩りの村だ。――助けよう」村の長としての響きを帯びた声に、周囲のキタニが次々とうなずく。
カエルは輪を巡るように視線を走らせ、戦場の傷跡を顔に刻む者たちの一人ひとりを確かめた。そして再びマイロを見た。「本当に? 面識もない相手のために?」驚きに目を見開き、信じがたいという色を隠せない。
マイロは真顔でうなずき、しかし笑みは温かい。「もちろんだ、友よ」
カエルは老長の顔をじっと見つめ、その表情に深い感謝と驚愕を同時に浮かべた。勢いよく立ち上がり、マイロも立つ。カエルは深々と頭を垂れた。「あ、ありがとうございます!」
「無理をするな。休むべきだ」マイロが囁く。だがカエルは首を振る。
「いえ、友よ。直ちに発たねば。できるだけ早くアクア・フェイへ」切迫した口調。
マイロは口元を緩める。「直ちに、か?」
カエルは踵を返す。「直ちにだ」そう言って森へ戻ろうとする。――が、カイラには虚勢が透けて見えた。歩はすぐに鈍り、ふらついて、呼吸を整えようと何度も深く息を吸う。次の瞬間、前のめりに崩れ落ちた。カイラの腕がもうそこにある。
「ありゃ、落ちるよ!」と叫び、地面に倒れる前に抱きとめた。
その騒ぎのあと、エイロはアストラに大剣の扱いを教えていた。アストラは巨剣の制御に苦戦している。エイロは自らの剣で相手をし、実地で手ほどきをするが、上達は牛歩だ。
アストラは必死に振るい続け、汗を滝のように流す。強化された力で持ち上げこそすれ、重量はやはり容赦がない。
「アストラ、もっと手数を散らせ」エイロは彼の斬撃を軽々と受け止めながら助言する。
アストラは軌道を変え、大きなアッパーを狙う。だがそれも読まれている。防がれただけでなく、逆にカウンター。気づけばエイロの刃先がアストラの喉元に触れていた。
エイロはにやり。「ガードが甘い」
そこへマイロが歩いてくる。「カエル王子はまだ目を覚まさん。カイラが付き添って、ときおり嵐の術で体を冷やしている。明日には回復するだろう」それからアストラに目を向ける。「学びは順調だな」
肩で息をしながら、アストラは肩をすくめた。「一度も当てられないのを“順調”って言うなら、まあ、順調なんだろうな」
マイロとエイロが同時に笑う。「冗談は言えるらしい」エイロが笑えば、アストラも口元を緩める。
「それにな、エイロ相手に“当てられないで済む”なら上出来だ」マイロの言葉に、アストラはもう一度笑った。マイロはエイロへ向き直る。「アクア・フェイへ使いを出した。できるだけ早くここで評議を開きたいとな。日没までには使者が来るはずだ」
エイロはうなずく。
「動かせる者は総動員で、とも添えた。“友を連れてこい”と書く勇気は――さすがになかったがな」




