燃える山脈と折れない心
その一日は、絶え間ない徒歩行軍で埋め尽くされた。疲労の一歩ごとに、山々はますます巨大にそびえ立って見える。連峰の裾へ近づくほどに地面は険しく、岩はごつごつと鋭さを増していった。カエルが足を取られて転び、岩塊に足先をしたたか打ちつける。すぐ背にいたカイラが、アストラとともに慌てて支え起こす。だが他の二人のフェイ――モルガナとジャレク――は数歩離れたところで眺めているだけだった。
「へへ……どじった」カエルは苦笑しつつ身を起こそうとする。だが体重を傷めた足にかけた瞬間、顔がゆがみ、そのまま尻もちをついた。モルガナは大きく、苛立たしげな溜息をつく。カイラはカエルの足から脛へ、指先で丁寧に触れていく。つま先へ近づいたとたん、カエルの肩がわずかに震えた。こらえるように喉の奥でうなり、表情には出すまいとする。カイラは見上げて、困ったように、痛みに同調するように弱い笑いをこぼした。
「……歩かないほうがいいと思う」カイラは静かに言う。いつもならきらめく彼女の顔が、このところ曇っている――アストラはそう感じた。(この任務、その重さがカイラにも堪えてきてるのかもしれない)モルガナはわずかに肩を震わせ、こちらを振り返る。
「筋書きが見えるわ。あんたたち、任務から退く口実を探してるだけ」モルガナは口の端を歪め、冷笑を爆ぜさせた。
「違う!」カエルが怒鳴り返す。カイラの制止を無視して身を起こし、羽ばたいて地から一寸ほど浮く。「任務は――完遂する!」モルガナを真似るかのように空へ向けて叫んだ。その剣幕に面食らい、他の三人はただ見つめるばかり。カエルが皆の傍らを掠めて山並みに向かっていくと、モルガナは腕を組んだまま――けれど瞳の奥に、わずかな感心の色が閃いた。カイラは彼の背を目で追い、他の二人もそれに続く。
「やれば大きな声出せるじゃないの、あの子」モルガナが眉を上げる。
「君ほどじゃないけどね!」ジャレクはハチドリのように翼を震わせて浮上し、モルガナの肩越しにからかうように笑った。
彼女はくるりと振り向き、一撃浴びせようとする――が、ジャレクは彼女の癖を知り尽くしていて、ひらりとかわす。そのまま笑いながらカエルの後を追った。モルガナは唸り、深い苛立ちを顔に出す。拳を握り、彼の背を追って駆け、ようやく追いつくと後頭部をぴしゃり。ジャレクはその箇所を揉み、また笑う。これを見ていたカイラとアストラは、ゆっくり顔を見合わせ、堪えきれず吹き出してから走って追いついた。
三人のフェイのところへ合流すると、彼らは等しく山を凝視していた。アストラも視線を辿る。だが彼には何も異様なところが見えない――ただ、山の背後へと太陽が沈みかけているようにしか。カイラは首をかしげ、目を細め、他の三人が凝っている何かを見極めようとする。ついにアストラは観念した。
「何を見てる?」三人の顔を順ぐりに見回しながら問う。
ジャレクは視線を足元へ落とし、モルガナはまっすぐアストラを見る。カエルは目を見開いたまま、山だけを見つめている。
「見えないの?」モルガナは短く問う。
「何が? 太陽か?」アストラは肩をすくめる。やはり皆目見当がつかない。
モルガナは炎のような髪を揺らし、微笑した。「上を見て。何が見えるか言ってみなさい」
アストラは空を見上げる。――太陽? 眩い光が高みにあり、思わず目を庇う。気づいた瞬間、彼の目は大きく見開かれた。すぐに山へ視線を戻す。太陽は山の背後に沈んでなどいない。山そのものが、太陽のように眩く輝いている――大いなる火の光のように。燃えている! モルガナが笑みを浮かべているのを見て、彼は言葉を失う。
「わかった?」彼女は楽しげに問う。アストラは思わず首を横に振る。
「いや――太陽は上にある!」彼は天を指さして言い張る。「なのに、どうして山が火みたいに光ってる?」
モルガナは呆れたように溜息をつき、目を翻した。「自分で理屈くらい組み立てられないの? それとも、その“新しい手”には機知は付属してなかった?」毒のある声。
アストラは拳を握り、眉間に皺を寄せる。もう一度、燃え立つ山の輝きを見やり――なおも戸惑いの色は消えない。モルガナは笑い、言葉を重ねる。「太陽は山の後ろじゃない。――太陽は何でできてる?」
「……火?」アストラは恐る恐る答える。貴族の子といえど、学業は得手ではなかった。
モルガナはうなずき、アストラの脇を歩み抜けて山へ向かう。「なら、山を覆うほどの“火”があるってこと」
カイラとアストラは峰々を仰ぐ。あの不気味な光は、ほんとうに火なのか。連峰の一帯がまるごと――?(この山脈は雪に覆われているはずじゃ……)アストラの腹の底に硬い結び目ができる。ジャレクはモルガナの後をゆっくりとり、二人は少し先で立ち止まって、三人を待った。アストラが振り向くと、カエルは足の痛みを忘れたように、両足でしっかり立ち尽くして遠火を見つめている。カイラがそっと近づいた。
「カエル? 大丈夫?」やわらかく問う。
カエルの瞳が一度足元へ落ち、カイラへ戻る。淡い蒼は、今にも涙に濡れそうだ。掠れる声で彼は言う。「あの山で火が上がるってことは、よほど強い“火の眷属”がいる。そこからフロストの領まではほんのわずかだ。――もし、やつらがもう山まで達しているなら……」言い淀み、視線を地へ落とす。
ジャレクは空を無心に見つめ、彼の脆さを見ないふりをする。モルガナは逆に、カエルから目を離さない。アストラは慰めの言葉を探すが、頭は空白のまま。カイラは不安げに下唇を噛む。
「山まで来てるなら、フロスト・フェイは――もう何も残ってない!」ついにカエルは嗚咽のように言った。
誰かが口を開くより早く、モルガナが一歩踏み出し、平手を打った。強く。カイラが息を呑み、アストラは思わずのけぞる。ジャレクは、ただ見ていた。
カエルは目を見開いたまま、打たれた姿勢で固まる。モルガナは眉間に皺を寄せ、口を尖らせ、拳を腰に当てて立つ。やがてカエルはゆっくり身を起こし、茫然としながらも真っ直ぐモルガナを見返した。
「ここまで連れてきて、座って諦めるためじゃない! 山が取られたからって、領まで取られたとは限らない。――あんたの民は“フェイ戦争”のときと同じ胆力で、今だって戦ってるはずよ」モルガナは鋭く言い放つ。「だから私たちは“今すぐ任務を片づけて”彼らを援ける! ここで座って、滅びるのを眺めてるつもり?」灼ける橙の眼が、カエルを射抜く。
カエルはゆっくりと彼女を見返し、「……いや」と弱く答える。
「なら、気をしっかり持ちなさい、カエル!」モルガナは叫ぶ。
驚きが――無力の色を押しのけ、カエルの顔に広がる。彼は長い沈黙のあいだ、ただ彼女を見つめた。すると、アストラが知る限り初めて、モルガナの頬に赤みが差した。
「……なによ?」まだ熱を帯びた声で言い募る。
ジャレクが笑う。モルガナは苛立たしげに手を振り、目を閉じて彼を払う。カエルは微笑し、わずかに首を振って目を閉じ、ふたたび開いた。
「なんでもない……ただ……」彼は照れくさそうに言う。「君が僕の“本当の名前”で呼んだの、初めてだから」
モルガナの紅はさらに濃くなる。ジャレクの口元から、また小さな笑いが漏れた。モルガナはさっと身を翻し、彼の後頭部を軽くはたく。
「笑わないで、“ツートーン”!」吐き捨てるように言い、緩やかに勾配を増す道を登り始める。ジャレクは叩かれたところを擦り、姿勢を正してひらひらと追う。
「モルガナ?」彼は真顔で呼ぶ。「モルガナ! “ツートーン”なんて、何年ぶりだよ!」彼女は鼻を鳴らし、羽音を残して前を行く。「怒るなって! 悪かったよ!」ジャレクは追いすがり、必死に宥める。「モルガナ!」自らの翼の風に、カナリーとエレクトリックイエローの髪が渦を巻く。
下ではアストラ、カイラ、カエルが、どうしても笑いを堪えきれない。強大な二人のフェイがこうしてやり合うのが、ただただ可笑しかった。
やがて三人も、笑みを残したまま後を追う。しばらくして、モルガナが「ツートーン」と呼ぶのはやめ、ジャレクは胸を撫で下ろした。斜度はさらに増し、一歩ごとに気温も上がっていく。高度が上がるにつれ、アストラもカイラもカエルも汗に濡れた。ついにカエルが岩に腰を落とし、荒い息で「……暑すぎる」と囁く。見上げた先のモルガナとジャレクは、うだる熱気にも全く堪えた様子がない。
「また諦める気?」モルガナはおなじみの低い唸りを混ぜて問う。
カエルはうんざりしたように眉を寄せ、ため息をつき、「……いや」と答える。
代わってアストラが口を開く。「少し、休めばいい。――それだけだ」勢いを取り戻そうと、落ち着いた声で言う。
モルガナは不満げに唸り、腕を組むと、ひとり先へ――山の斜面を黙々と登っていった。




