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渦流の救出と凍える夜明け

アストラは生まれてからこれほどの屈辱を味わったことがなかった。――いや、屈辱というより、奇妙な居心地の悪さ。ジャレクの腕に抱えられ、メイルストローム川を空輸される自分は、まるで赤子だ。渦を巻く急流を見下ろしながら、彼はその情けない感覚を慌てて押し殺した。今にして思えば、モルガナが先に渡ったほうが良かったのかもしれない。だが彼女は、単独で素早く飛行を開始していた。その瞬間、急流を裂いて躍り出た大蛇が、モルガナの腕に牙を立てて引きずり込み、濁流の底へと消えた。


「モルガナ!」岸にいた四人が同時に叫ぶ。


彼女は一度水面下に消え、やがてばしゃりと浮上した。もがき、むせ、息を奪われながら必死に水をかく。周囲の川水がぼこぼこと泡立ち、蒸気を上げ、目に見えて熱を帯びる。大蛇の姿は見えず、モルガナの身体は急流にさらわれ、みるみる下流へ運ばれていく。


「モルガナ!」ジャレクが吠えた。彼は言葉少なにアストラを岸へ降ろすと、再び翼を打って追う。アストラは河岸を狂ったように駆け、カエルはカイラを抱えたまま上空から併走する。水は彼女を呑み、そしてまた吐き出す。ジャレクが追いつこうとしたその刹那、蛇がふたたび水を割って跳ね上がり、今度は彼までも引きずり込まんとする。再度波間へ消えるモルガナのくぐもった悲鳴。ジャレクは血眼で川面を探るが、今度は彼女が浮かんでこない。


カエルがアストラの頭上へ滑り込む。「見えない!」声は恐慌で強張っていた。


「もっと下流だ、探せ!」ジャレクが命じる。夕闇が落ち、焦りは絶望に変わりかける。だがジャレクは諦めなかった。誰よりも鋭い彼の眼が、他の誰も捉えられない“何か”を見つけ、彼は迷いなく濁流へ身を投じる。水面がばちばちと激しく放電した。


永遠にも等しい沈黙の後――ジャレクが水上に躍り出た。だらりと濡れそぼったモルガナを腕に抱えて。


そこへ向かって飛ぶカエルの目前で、蛇が三たび水柱を上げる。ジャレクの瞳が怒りに灼く。「彼女を持て」彼は短く言った。カエルは即座にモルガナを受け取り、岸へ連れ戻す。


身軽になったジャレクは、蛇の周りを三度、電光のように旋回した。最後に蛇が大口を開けて突進する。彼は迎え撃ち、最大の牙二本をがっちりとつかむ。同時に全身の筋肉をきしませて叫び、強烈な電流を蛇体に叩き込む。稲妻が彼の周囲で弾け、蛇は悶え、痙攣し――やがて力なく沈んだ。ジャレクはその死骸を川底へ落とすと、怒気を一瞬で拭い去り、純粋な不安だけを顔に残して踵を返す。岸へ駆け戻り、モルガナの傍らに膝をついて抱き寄せた。


「冷え切ってる……」普段は揺れない声が軋む。モルガナの髪は編み目から解け、衣は全身ずぶ濡れだ。カエルは慌てて自分の群青のマントを外し、ジャレクへ差し出す。


ジャレクはすぐにモルガナの上衣の裾をかき集めた。意図を悟ったアストラとカエルは顔を赤らめ、カイラも含め三人ともそっと背を向ける。ジャレクは濡れたスカーフを外し、からりと解いて投げ置く。重い上衣を脱がせ、帯を解き、ブーツを抜く。カエルのマントを下に敷いてから、濡れた脚衣も脱がせ、肌を露出させて冷たい布の拘束から解放する。ほんの一瞬だけ視線を落とし、それからマントでしっかりと包み、さらに自分の上衣も脱いで肩に重ねた。衣越しに力強く摩擦し、熱を起こす。


「……モルガナ?」弱い吐息が漏れ、ジャレクの手が止まる。「聞こえるか、モルガナ?」


彼女はかすかに呻き、応える。


「アストラ、乾いた薪を。濡らすなよ」ジャレクが指示を飛ばす。アストラはすぐに動く。ジャレクはモルガナへ身を屈め、「火を起こせ」と告げた。


彼女は震える掌を薪へかざす――が、何も起きない。制御不能の震えに、彼へさらに身を寄せながら、「……寒すぎて……」と呟く。


「やるんだ、モルガナ!」ジャレクの命が飛ぶ。三人は向き直る。咳き込みながら指をこじ開き、モルガナはようやく、つまずくような小さな火花を灯した。


アストラ、カエル、カイラが一斉に息を吹き、薪を組み替え、炎はたちまち力強い焔柱へと育つ。ジャレクは彼女の背と腕を揉み摩り続け――やがて、モルガナはぐったりと身を預けた。


「モルガナ?」応えはない。ジャレクはそっと額に掌を当て、脳波の鼓動を探る。――微弱だが、ある。「今夜はここで野営だ」彼は短く言い、皆もうなずいた。ジャレクは焔の近くへ彼女を抱き寄せ、自らの膝に乗せて体温を分け与える。「衣は全部干してくれ」


全員が手早く従う。フロスト・フェイであるカエルの平熱は常に華氏七十度以下――低体温のパイロ・フェイには致命的な冷たさだ。助けたい気持ちはあっても、彼は近くに寄れない。対してジャレクの平熱は百十度前後。だからこそ彼が側にいるべきだった。カエルは焔の番を買って出る。火は彼にとって水と同様に危険だが、構ってはいられない。――やがて、忠実な許嫁でさえ、夜半にはまどろみに落ちた。


暁が近づき、空が白み始めたころ、モルガナはそっと瞼を持ち上げた。記憶はおぼろ。見ると、川――落ちたのだ。どうやって助かった? 本来なら死んでいるはず。だというのに、生きている。


ゆっくりと身を起こす。ジャレクの上衣とカエルのマントに包まれ、自分が何も身につけていなかったことに気づく。周囲は皆眠っている。ジャレクの膝に抱かれていたのだ。――あの冷え。地獄に氷が張ったかのような、耐え難い冷。だが今は、温い。


そろそろと上体を起こし、強い眩暈に襲われて呼吸を整える。波が引くのを待ち、周囲を見回す。水面に視線が止まった瞬間、ぞくりと震えた。脚を試し、慎重に立ち上がる。焔は名残火だけ。彼女が身をかがめ、ふっと吹くと、炎はごうっと甦り、ジャレクが目を開けた。


彼は眠気を揉み払い、ゆっくりと身を起こす。立つモルガナを見つけ、顔いっぱいに笑みが広がった。


「起きたのか!」彼の声に、カイラ、カエル、アストラも飛び起きる。安堵が疲労を吹き飛ばした。


「本気で肝を冷やしたぞ」アストラが苦笑する。


モルガナは肩をすくめるだけ。だが次の瞬間には、カイラが蜂のように彼女の周りを回り始めた。「平気? 十分温まった? 少し休もう? 何か食べる?」質問と提案が滝のように溢れる。


ついにモルガナはカイラの口を手のひらで塞いだ。「大丈夫」きっぱりと言い切る。「――大丈夫」異を唱えかけたジャレクを睨み、重ねて言う。彼は黙った。「それじゃあ、皆、後ろを向いて。着替える」


ジャレクはくつくつ笑う。「どうだろうな。カエルのマント姿も悪くない」彼は肩をすくめ、「このままのほうが好みかも」と冗談めかす。


モルガナは低く唸り、焔のような視線を投げた。ジャレクはにやりとし、両手を上げて降参の意を示しつつ背を向ける。カエル、アストラ、カイラもすぐに倣った。モルガナはマントを落とし、乾いたブーツ、脚衣、上衣を次々と身に着け、帯を締め、スカーフを巻く。髪を手早く編み直し、小さなハンカチで結ってから、「いいわよ」と皆へ声をかけた。


振り向いた一同に、モルガナはカエルのマントを投げ返し、「助かった」と小さく礼を言う。そして腕を組み、「今日は山越えよ」と即断する。


ジャレクがため息を漏らし、カエルは目を皿のように見開いた。「無理だ!」彼は悲鳴に近い声を上げる。「山上は氷点下だし、君は休養が全然足りてない!」燃える橙と、氷の蒼が正面からぶつかった。


「――今日、行く。嫌でも、氷坊や」モルガナは平板に告げる。


カエルが反論しかけたが、先にジャレクが口を開く。「俺も行く。俺なしでは、どのみち進めない」揺るぎない声音。


モルガナは片眉を上げ、口元に一瞬だけ笑みが閃いた――とアストラには見えた。ひと呼吸の静寂。


「じゃあ、行く」モルガナは淡々と背を向け、川から離れる。ジャレクが横につく。


カイラとアストラは顔を見合わせ、「待って!」と揃って駆け出す。取り残されたカエルは河原に立ち尽くし、唖然と呟いた。(あの女は――勇敢か……それとも愚かか)頭を振り、翼を広げる。四人の後を追い、霧煙る山並みへ――メイルストローム川を背にして。

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