『夜が好き。口癖だった。』
――贖罪を。
覆す何かを、自分自身で示すと、そう決めたのだ。
――家に帰った遊真は、母親にこっぴどく怒られてしまったものの、それが当然だと思っていたので甘んじてその説教を受け入れた。
そしてその説教のすぐ後に、母親に必死に聞いて、ヤホ姉がかかっている病気が『癌』であると遊真は聞き出したのだ。
そこから遊真は真面目に、寝る間も惜しんで、友達との時間すらも犠牲にして、ヤホ姉を助けるために只管に勉強し続けた。
やがて高校が終わる頃、友達はいなくなり、それでも遊真は気にしていなかった。
「……早く、早く……!」
最短ルートで、医者になるために、遊真は人生のほぼすべてを捧げていたといっても過言ではない。
そして、勉強をすればするほど思い知るのだ。『癌』の治療、その難しさを。
癌の治療を遊真ができるように、最短ルートを最高速度で駆け抜けた。
そうして医者になり、研修もなんとか終わらせて。
「ヤホ姉、これで、やっと、やっと――!」
やっと貴方を治すことができる。そう、思っていたのに。
――そう思っていたのに、
「美空夜星さんは、亡くなっております。2年ほど前に、癌で」
――癌の進行が、想定よりも早かったらしい。それで、計画していた治療日時よりも前に、癌は末期癌へと変貌し、ヤホ姉の体を食い荒らしたのだ。
「――」
田舎だったから、どんな情報でもすぐ回る。すれ違う赤の他人にすら名前を知られているような地域で、癌で亡くなってしまった夜星が知られない筈がなかった。
そして更に、患者の名前である美空夜星がその地域で有名になっただけでなく、夜星が住んでいた家の住所まで知れ渡ってしまった。
何処に行っても名前を知られていることにストレスを感じた美空一家は葬式と同時に引越をしてしまったことまで、病院の職員は教えてくれた。
だが、情報を教えてくれた病院の職員に挨拶もせずにその場を離れた気がする。
もう、そこから既に記憶が曖昧だった。
ぼやけた視界のまま、ふらふらと一人で暮らす家に帰り、何もせずに布団に潜り込んだ。
贖罪をすると決めて、約束を果たすと決意して、何もかもを捨てて最速で辿り着いた未来がこんな無様なものであることが、遊真には信じられなかった。
――否。信じたく、なかった。
突きつけられる事実が、遊真に重くのしかかる。
夜星が死んだという結末が、約束を果たせなかった不甲斐なさが、覆せなかった未来が。
何もかもが遊真を苦しめて、掴んで潰して離さなかった。
それを、信じたくなくて。受け入れたく、なくて。
現実を直視したくないと、無意識に目をそらし続けて、絶望だけ、し続けて。
その結果、遊真の脳は本能的に『選んだ』のだ。
選んで、しまったのだ。
「……やべえ、就職しなきゃ」
――自ら、『記憶』を手放すことを。ヤホ姉に関わる記憶を、全て。
自分がヤホ姉のために医者になったことも、高校の友達を捨てて全てを勉学に捧げたことも、ヤホ姉の名前も、顔も、全て。
唯一残ったのは、『従姉妹と、昔遊んだことがある』という、対して面白みもない、きっかけがなければ思い出すこともないだろう記憶だけ。
そうして遊真は、自分のアピールポイントすらわからずに就職に走り、人間性など全く重視しないブラック企業に入ってしまったのだ。
揉まれて、理不尽に押し潰されて、自分の存在意義すらも甘く揺蕩い不確かで。
仕事から帰るときの時間はいつも真夜中だったから、仕事から解放された実感と解放感で、よくよく景色が目に焼き付いた。
――何処までも空を黒く染め上げる『夜』。
「……綺麗だなあ」
――そこに煌々と輝く、明るい『星』。
光を反射する、澄んだ川の水面の様に、空は綺麗で。
だから、夜は好きだと思っていた。
「――」
夜が好き。口癖に、なった。
何があっても、夜はいつでも自分を見守っている。
嫌なことがあっても、嬉しいことがあっても、いつでも平等に。
だからこそ、困ったときには空を見上げた。
「――」
ただ空を見て、息を呑むのだ。
――なんて綺麗な夜空なのだろうか。
静かで、物言わず、ただただ見守ってくれる『夜』が、好きだった。
「……夜は静かだなあ」
そうして、また。また――、
「……頑張らなきゃ」
また、何もかもが救えない会社で働く英気を養うのだ。
救えなかった現実から目を背けて、記憶を自らなかったことにして、贖罪から、逃げて。
――皮肉なことだ。
遊真が引き当てた最低な会社と同じように、遊真もまた最低な人間だったのだから。
――空は綺麗で。夜空は驚くほどに輝いていて。
――そして自分は、救えないほどに愚かな存在で。
心に決めた約束すら守れず。
贖罪すら果たせず。
愚かでみっともなくて、道化のように哀れで。
――そしてその記憶を塗り潰して、無かったことにして、なんともない顔で生きている。
それが、安田遊真の人生だった。




