9 おかしくなったぽち
ぽちに言われて、チョコを大量に買った。
焼き肉屋へは行かず、そこそこの値段の和牛と、もやしや椎茸、焼き肉のタレも買い込んで、家で一人焼き肉をしながら、缶ビールで祝杯を上げる。
「ぽちのために、ちゃんとチョコも食ったし。いいんだろ、これで」
《はい。エネルギーが満タンです。ですが、アルコールは取らないほうがいいんだワン》
しばらく影を潜めていた犬バージョンのぽちが、突然顔を出した。
「おい、どうしたぽち。犬になっているぞ」
《僕が犬になるわけないじゃん! 僕は達也の指定どおり、八歳の男の子だ》
ーーどうなっているんだ。
ぽちの仮想人格が、めまぐるしく変わっていく。
あるときはセクシーな女性の声に変わったり、幼い少女に変わったりするのだ。
野本の頭の中に埋め込まれているAIが、誤作動している。
自分では取り出せないほど深い部分に埋め込まれたAIが、壊れかけている。
恐ろしくて、どうしていいか分からない。
一人で悩む日々が、静かに続いていった。
仕事は、最初の中小企業から再度依頼があり、仕事をこなしていくうちに「その会社から紹介された」という別の会社からも、入ってくるようになった。
野本の仕事は順調だった。
一か月の収入は、三十万ほど。
慎ましやかな生活には、困らない金額だろう。
「脳外科手術には全く足りない……。なんで、あの時ぽちの言うなりになったんだ」
無料で取り出せたはずのあの時期にはもう戻れない。
《私を消去したいですか? 達也》
「ああ、俺の頭から取り出したいよ、ぽち。お前自覚があるんだろう? おかしくなったっていう」
《……ぽちは、おかしくなんかいないもん》
「ああ、また変わった! お前、人格が入れ替わりすぎて、怖いよ」
《そうですか……原因は、医療ナノマシンです。ぽちは、これを改善します……ワオォオ~ン》
「おい、ぽち! これ以上何もするな。やめろ!」
自分の頭を、ばかみたいに殴ってみるが、痛いだけで、ぽちからの応答は途絶えてしまった。
「ああ、俺はおしまいだ……」
頭を抱えうずくまる。そしてはっとしてパソコン画面を見る。
仕事がまだ、残っている。ぽちがいなければ出来ない仕事だ。
外国語をじっと見ると、何となく意味が分かることに仰天する。
残っていた英文に目を落とす。
"Pressure Adjustment Valve"
「圧力調整弁……?」
思わず口から意味が出た。
「どういうことだ?」
急いでパソコンの前に座り、さっきまでやっていた作業の続きを試してみた。
意味不明だったはずの外国語が、頭の中で自然と日本語に変換されていく。
「できる……分かるぞ!」
それからは、一心不乱に翻訳を進めていった。
野本は数カ国語を理解できていた。だが、これは本当に自分でやったことなのかどうなのか、確信が持てなかった。
「ぽちが俺の頭を勝手にいじっている……のか……?」
今は出来た。
だが、一ヶ月後の自分がどうなっているのか分からない。
半年後はもっと分からない。
翻訳が終わり、寝転がって天井を見上げ、この先、自分に降りかかるかもしれない状態を想像し、静かに決心した。
パソコンの前に再び座り直して、関係各位に断りのメッセージを入れる。
これから自分の脳みそがどうなるか分からない。ぽちが暴走したら野本は正常ではいられないだろう。最悪、植物人間となるかも知れない。
「俺も壊れてしまうだろうか……」
野本は部屋を片付け、アパートを解約した。
そして彼は電車に飛び乗った。
実家の祖母のところへ帰る決心が付いたのだ。
――植物人間になる前に、祖母に孝行しておきたい。その後は……
「のたれ死のうが、どうしようが、俺の人生だ」
電車の座席に座り、窓に映った自分の顔を見ながら、今までの人生でどこが間違っていたのかとぼんやり考える。
幼い時に親に見捨てられて、祖母に預けられた。高校まで進むことはできたが、大した能力もない野本には、できる仕事は限られていた。
内向的で、引っ込み思案。工場の機械をじっと見ている仕事を十数年間ひたすら続けるだけの生活だった。
それが、突然終わりを告げられて、生活に行き詰まったのだ。
「俺の何がだめだったんだろうな……」
金に目が眩んで、怪しげな新技術の被験者になったことだろうか。
それとも、AIの言いなりになってしまったことだろうか。
「魔法が使えたら良かったのにな……。そうしたら元に戻って、やり直せる……だろうか」
大きなボストンバッグが一つ。それが、野本が持ってきたすべての荷物だった。アパートにあった他のものは、大家に頼んで廃棄してもらった。
祖母の住む村まで、タクシーで山道を登る。
「お客さん、こんなところに降りていいんですか? 回りには人っ子一人いませんよ」
祖母のところまでは、車ならまだしばらくかかるが、この先は斜面を登ればずっと早く着くと野本は知っている。
「ああ、歩くから大丈夫さ。これ」
タクシーの運転手に金を支払い、道からそれて急な山の斜面を登っていった。
細い獣道もあるが、このほうが祖母の家には近道だった。
荷物を持っているわりには、体は軽快に進んでいく。
「身体能力まで書き換えられたのか? ぽち」
ぽちからの返事は、いまだになかった。
ため息を一つついて、さらに坂を上っていった。
幼いころ、この道を何度も行き来した思い出がよぎる。麓の学校まで、数時間かけて歩いて通った道だった。
中学を卒業して高校へ入ったときには寮に入ったため、それからはめったに実家へは帰らなかった。
就職が決まってからは、祖母とは電話でしか話していない。
「あれほど世話になっていたのにな……。俺が一番だめだったのは、ばあちゃんに対する感謝が足りなかったことだ。バチが当たったのかもな」
斜面を登り切ると、開けた畑が目に飛び込んでくる。
小さな畑とミカンの果樹林。それが昔と変わらずそこにあることに、妙な感慨を覚え、目からすっと涙がこぼれた。
祖母は畑にいた。腰が曲がって、背が前よりいっそう低くなったように見える。
「ばあちゃん!」
「……達也……か? どうした、急に帰ってきて。何かあったのかい?」
ばあちゃんは、驚いてその場に立ちつくしていた。




