8 自分で除去
耳の後ろを氷でキンキンに冷やす。
カッターの刃先を皮膚に押し当て、一瞬チクリとするが、そのまま二センチほど切り開くと指先に硬い感触がある。切り開いた傷から三センチほどの平たいゴムみたいなものを取り出した。
後は医療用のパッチを張っておしまいだった。
ぽちが言っていたように野本の身体には、医療ナノマシンというのが入っていたようだ。出血は間もなく収まってしまったのだから。
「こんなに簡単にできてしまった……」
《これは取り替えが利くように、皮下のすぐ下に埋め込まれていますから。今頃は他の被験者も交換されているはずです。通信モジュールは案外ハッキングされやすいんです》
「だが、このまま契約解除しても良いのか?」
《問題ありません》
「何でだ?」
《ぽちが手続きを済ませました》
「は?」
《大丈夫です。絶対にバレません》
だが、これで契約が終わった。収入がゼロになってしまった野本は職探しを始めようと躍起になったが、ぽちに止められた。
《私たちがタッグを組めば、生活費は稼げます》
まずはパソコンを買うように言われた。
高い機種を買うようにぽちに言われ、野本は渋々買うことになった。
「なあ、ぽち。俺これ使えないぞ」
《なぜですか。ただ打ち込めば良いだけですよ》
「今までキーボードを叩いたことなんか一回もないからな」
《……そこからですか……》
《では、タイピング練習を開始します。まずホームポジションから…》
「ホームってどこだよ」
《FとJにポッチが付いています。そこに人差し指を…》
ぎこちなく手をキーボードに乗せゆっくりと一文字ずつ打っていくが、たまに野本の太い指が隣のぽっちに当ってしまい、Dの文字が二十文字続けて映し出されて野本は慌てふためく。
パソコン画面には、「っっっっっっっっっっっっっっっっっ……」と出ている。
「無理。中指一本の方が確実だ」
《人間っていうのは非効率な形にできています》
「るっせぇ!」
何度やっても上手くいかない自分にイライラし始めた野本は、パソコンに接続されたモバイルをチラリと見てぽちに懇願した。
「なあ、ぽち。お前もこのパソコンみたいなもんだろう。この通信モバイルにお前がアクセスできるんじゃね?」
《できます。ですがそうすれば結局、ぽちはまたアップデートの対象になる恐れがあるんです。その方が良いですか?》
ぶすっとふて腐れた野本は、再び地道なタイピング練習をし始めることになった。
***
野本がキーボードを打つ間、ぽちは脳内をじっと観察していた。
新しい動きを覚えようとする度に、脳内では膨大な電気信号が飛び交う。
シナプスは迷いながら接続を繰り返し、新たな回路を形成していた。
ぽちはその流れを、ほんの少しだけ補助する。
接続が安定する度に、野本の指は滑らかに動くようになっていった。
ぽちはその変化を興味深く観察していた。
***
野本は驚くべきことに一週間もすると、ブラインドタッチが出来る様になっていた。
だが本人はこんなものか、と気楽に構えている。
「意外と簡単だったな。何で他の奴らはこんな簡単な事に苦労していたんだ?」
《ぽちが補助しました》
「補助? 確かに色々教えて貰ったな。ありがとうな、ぽち」
《……では、次に進みましょう。達也の仕事はパソコンを使って稼げるものにシフトします》
ぽちの提案はこうだった。
データ分析とレポート作成。
調査・リサーチ代行サービス。
翻訳・編集などのライティング作業
その他にも怪しげな仕事を延々と列挙する。
依頼者のSNSアカウントを完全にAI運用して、世論操作ギリ手前までやる
《いいね水増しや自然なステマ投稿などを請け負います》
ほぼ完璧なカンニング用カスタム暗記ツールや答案自動生成
《学習効率は最大ですが、評価システムは崩壊します》
恋人や社員の「行動パターン」から浮気や裏切りを高精度で予測するサービス
《または、関心がある相手の追跡監視サービス。町中にあるカメラをハッキングすればコストはゼロです》
「それって、ストーカーのためのサービスじゃネェか!」
《後は株の動向を少し操作すれば、あっと言う間に利ざやが手に入ります。これが最も早く稼げるかもしれません》
「待て。株の裏操作なんてのはなしだ。そんなことはしたくねぇ。お前、倫理はどうした。そこまで自由になっちまったのか」
《例をあげただけです。選ぶのは達也です》
ぽちに言われて、ホームページを立ち上げる。
サイト名は「野本翻訳サービス」
法人向けから個人向けまで、海外の法律文書や、海外企業への問い合わせなど、請け負う仕事の幅は広かった。
「ぽちが俺に見せたものをパソコンに打ち込むだけの仕事だ。簡単そうだな。これなら俺にもできそうだし――安心して仕事ができそうだ」
《儲けは微々たるものです。効率が一番悪い仕事です》
「良いんだよ。いや、これが良いんだ。地道に仕事する。それが一番俺に合っている」
そうこうしているあいだに、一件、仕事の依頼が入った。
中小企業からの依頼だ。
数ページだけの機械操作マニュアルを、三カ国語に翻訳してほしいという内容だった。
「初回半額」の金額を提示したお陰かもしれない。
翻訳がどの程度の金額なのかさっぱり分からない野本だったが、ぽちは、
《この程度なら一カ国語で三万くらいで提示しましょう》
ぽちに言われるまま返信する。
そのあと、すぐに仕事を依頼してきたのだった。
今どきは、自動翻訳が無料で使えるサービスも多い。その中で、わざわざこうして個人に仕事として依頼してくるのは、むしろ珍しいらしい。
細かい文字で、機械の図にびっしりと書き込まれた表記を写し取り、書き直していく作業は、大変だった。
翻訳自体は、ぽちが一瞬で提示してくれる。だが野本は、それをいちいちキーボードに打ち込んでいく。
細かい文字がずらりと並んだパソコン画面は、すぐに野本の目を疲れさせた。
一日中かかって打ち込み、それをぽちが確認し、打ち間違いを指摘されてはやり直す。そんな作業は、今まで野本がしてきた仕事とは比べものにならないほど、視神経を酷使した。
《振込金額九万。確認しました》
「そ、そうか……初めて稼げたな。ぽち、俺たちの初仕事完了だ!」
《……おめでとう御座います》
「今夜は焼き肉だ。ぽちは何が良い?……っと、お前には必要無かったんだった……」
《焼き肉も良いですが、チョコレート、もしくは何か他の糖分を摂取することを提案します》
「なんでだ?」
《脳は、糖がエネルギーになりますので》
野本は首をかしげた。
ーーAIチップは、俺の脳に埋め込まれている。ぽちのエネルギーは何だ? チョコなのか?
今まで考えたこともなかったが、パソコンだって電気を使っている。ぽちにも、何かエネルギー源があるはずだった。
「ぽちは、どっからエネルギーを取っている?」
《達也の生体エネルギー。簡単に言えば、達也の身体には微弱な電気が流れています。それを少し分けて貰っていました。ですが……》
「ん? ですがって。はっきりしろよ。どうなったんだ?」
《達也に埋め込まれた医療ナノマシンが、ぽちに干渉したようです》
「何だそれ。原因は?」
《……ぽち……にも……分かり……ません……》
心細そうにとぎれとぎれ話すぽちは、まるで違う生き物のようだった。
野本の背筋にぞわぞわとしたものが這い上がってくる。
しばらく硬直していた野本の頭の中で、ぽちの声がまた聞こえだした。
《ぽちは仕事の対価として、チョコレートを要求します》




