10 覚醒
祖母の家に帰ってきて二週間が過ぎた。
畑の手伝いをしたり、家の修繕をして過ごすうちに、祖母に残された日々は少ないと感じる。
昔から、病気知らずで、元気な人だったが、今は少しずつしか動けなくなっている。
「もう九十五歳だ。いつお迎えが来てもいいころさ」
そう言って笑う祖母は、野本にはなぜか眩しく感じる。
九十五年の人生で、ひたすら同じことを過ごしてきた祖母は、屈託なく「良い人生だった」というのだ。
「そんなこと言うなよ。百まで生きられるさ、ばあちゃんなら」
「ははは、そうなったらお前どうする? 動けない年寄りを抱えて困るだろう」
祖母は野本に、何も聞かない。ただ、毎日畑へ出て、同じことを繰り返す。
野本は祖母に食事を作ったりしてはいるが、一日の終わりに必ず言われることがある。
「街へ帰って働け。ここにいても何もない。嫁さんもらって家庭を築け」
「うん。でも、もう少しだけここにいさせて」
そう答える声が、自分でも驚くほど弱々しく聞こえた。
「ああ、好きなだけいればいいさ。ここは達也の家だ。さあ、寝るか」
次の日、朝食をとっているとき、祖母の様子が急変した。
いままで楽しげに話していたのに、急に苦しそうにうめき出した。
「ばあちゃん!」
「……いつもの持病だ。静かにしていれば治る。騒ぐな」
だが、祖母の顔色は土気色だ。
急いで救急に連絡したが、ここまで救急車は入って来られそうにない。
野本は祖母を担ぎ上げ、山の斜面を駆け下りていく。
背中に担いだ祖母の重さが、まるで感じられない。
「達也。本当に大丈夫なんだよ。大げさにすることはないんだ」
「だめだ。ちゃんと病院で見てもらわないと」
車の通れる道まで降りて、しばらく待つ。やがて救急車のサイレンが近づいてくるのが分かり、ほっと息をついた。
救急車の中で、祖母の手を握り、苦しそうな顔を見ていると、祖母はうっすらと目を開けて言った。
「山に帰りたい。山で死にたい……」
普段は気丈な祖母が、彼にそう懇願する。
野本は体が震え、ぎゅっと強く祖母の手を握り返した。
「俺が面倒見るから。しばらく病院でゆっくりしような、ばあちゃん」
祖母は野本の目をじっと見てから、諦めたようにそっと目をつぶった。
祖母は病院に着いて、まもなく亡くなってしまった。
野本は呆然として、何も考えられなくなった。
そのまま、祖母の葬式やら何やらを街の葬儀場で手配し、
野本一人だけで、寂しく祖母を見送ったのだった。
「これで本当に独りぼっちになったな……俺は」
祖母の家を一人で片付け、納屋へ入って古い耕運機やトラクターを見る。
昔はトラクターに野本を乗せて、麓まで連れて行ってくれたこともあった。
今では使われなくなった、旧式の農機具。
納屋から出て畑をみる。
昔と変わらないと思っていたが、改めて見ると、幼い頃見た畑はもっと大きかったように感じる。
「これっぽっちじゃ、ばあちゃん一人で食っていくのに精一杯だったろうな」
斜面にミカンの木がしげり、家の周りは畑と小さな田んぼ。
ミカンを少し出荷して、後は自分が食べるだけの作物。現金収入は年金とミカンだけだったろう。
「こんなので、俺を高校まで行かせてくれたのか……」
野本はここで、一人で生きていくことに決めた。
自分に残された時間はどれほどあるかは分からないが、祖母が希望した「山で死にたい」という最後の言葉が頭に染みついていた。
この頃、頭の奥がじくじくと痛む。
「もう、始まったのか……」
畑でうずくまり、ふっと諦めのため息を吐く。
痛みが治まるのを待って、再び黙々と鍬を振った。
痛みさえやり過ごせば、身体は驚くほど動いた。
まるで疲れというものを忘れてしまったかのようだ。
気がつけば、目の前には野本が一人で耕した広大な畑が広がっていた。
機械も使わずに黙々と鍬を振るっただけだったが、、たった数日で耕し終えてしまった。
「化物じみてきたな……」
黒く汚れた手のひらを見つめる。
「俺は一体、何に変わったんだ」
ひたすら耕しただけで、何を植えるかなんて考えてもいなかった野本だった。
苗を買わなければならないが――一体どこで、何を買えばいい?――途方に暮れてしまった。
とりあえず、納屋に残っていた種芋を植えておくことにした。
広々とした畑の一角だけが、ぽつんと埋まった格好だ。
仕事がなくなってしまった野本は家の中に入り、久しぶりにパソコンを立ち上げた。
まだ、自分の頭の中に外国語の知識が残っているのかを確かめたくなったからだ。
パソコンが起動した途端、画面に映し出されたのはビーグル犬だった。
そしてその犬は、こう言葉を発した。
「I’ll be back」




