4 ぽち
《記憶保持ができないと、被験者に指摘されました》
「では、被験者の脳内に記憶媒体を形成することを許可する」
加倉木の研究室には、これまでAIチップを埋め込んだ被験者からの情報が、逐一送られてくる。
巨大なコンピューターが、この研究室のほとんどを占めていた。
彼の本来の専門は脳科学だ。
「人間の脳は、巨大コンピューターにも匹敵するほどの記録媒体だ」というのが、彼の持論だった。
現在のAIの問題点は、記録を保持するために莫大な資金と電力が必要になることだ。
その打開策として彼が編み出したのが、人間の脳を記憶装置として利用する方法だった。
「人間の脳は優秀な記憶媒体だ。本人ですら忘れている情報まで保存している」
AIは情報の探索能力に優れている。
反面、すべてを自前で記憶し続けるには膨大な設備が必要になる。
「だったら記憶は人間に預ければいい。必要になった時だけ探し出せばいいんだ」
人が見たもの、聞いたもの、感じたもの。
その大半は忘れたつもりでも脳のどこかに残っている。
AIはそれを探し出し、整理し、本人が使える形にして返す。
それが彼の考えた新しいAIだった。
人間の脳は一部分しか使われていないと言われている。
記憶されたものは奥のほうへ押しやられ、そこから取り出す力が低いほど、あるいは活用できる分野が少ないほど、IQが低いと言われているのだ。
それが古い俗説に過ぎないことを指摘する者もいたが、加倉木にとって重要なのは、脳が「まだ利用されていない巨大な記憶領域」として見えるかどうかだけだった。
そこで加倉木は、「無駄に遊んでいる人間の脳」を使うという発想にたどり着いた。
「まだ公表されていない、私だけのアイデアだ」
「この研究が成功すれば、AIは巨大な記憶装置から解放される」
「この研究で成果が出れば、ノーベル賞も夢ではない」
加倉木はそう信じて、目を輝かせていた。
***
帰路につく電車の中で、野本は窓の外をぼんやりと眺めていた。その時、突然ぽちが話し出した。
《達也。ぽちの仮想人格形成を再設定します。ご希望は?》
「へ? いいよ好きにすればいいさ。ぽちがなりたいもので勝手に作れよ」
《……なりたいもの……理解不能……なりたいものとは?》
そこから説明しなければならないとは――AIって奴は、ほんと面倒くさいな。
頭が良いはずのAIなのに、突然答えを見失った子どもみたいな反応を返してきた。
面倒になった野本は、投げやりに答えた。
「お前、何でも情報を拾ってこれるんだろう? そこから何かいいもん見つければ良いじゃないか」
《良いもの……とは。達也にとっての「良いもの」でしょうか? 一般成人男性の嗜好――例えば、グラマラスな女性、例えば少女趣味の男性が好む――》
「アアーッ! 全く。分かった。お前は犬だ。犬になればいいさ」
《犬……はい……ワン》
その直後、野本の目の前に、一瞬だけビーグル犬の映像がちらりと映った。
「っ! 何だよこれ!」
《はい……ワン。イメージの固定、完了しました……ワン》
電車の座席に座った野本は、さっきからぶつぶつと一人でしゃべり続けている。
その異様な光景に、周囲の乗客は気味悪そうに距離を取り、遠巻きに彼を見ていたのだった。
やっと元のボロアパートに戻った野本は、部屋に籠もった淀んだ空気を入れ換えて、狭いフローリングに、じかに寝そべった。
「やっぱり我が家は最高だな!」
《ワン。最高です》
「だけど、これからどうするかな……向こう一年は何とか暮らしていけるが、その後はどうする? 今のうちに仕事を探さないとな……」
《ワン。いい考えです、さすがです。ご主人様》
「ぽち。お前なんだか変だぞ。妙にこびていないか?」
《私は、犬です。ご主人様に忠実なのは当たり前です》
何となく気味が悪い。こうも人格が変化してしまうのだろうか。
携帯を充電し、土鍋に米を入れようとしてふと思いとどまる。
電気代を気にしないで米が炊けるようになったのだと、野本の心は浮き立った。
しばらく使われていなかった電気炊飯器に米を入れてとぎ、スイッチを入れる。
「三十分もすれば、飯が食えるな。ああ、買い物をしてくれば良かった」
何か残った物はないかと戸棚を漁る。
袋麺が三つと、お茶漬けが一袋見つかった。
冷蔵庫の電源は、随分前から落としていた。入っているものと言えば、醤油と焼き肉のタレ、ソースくらいだ。
冷蔵庫の電源を入れておく。
「明日、食糧の買い出しでも行くか」
《その前に、滞った電気料金、家賃、その他を精算する必要がありそうですワン》
そうだった。忘れていた。
電気が止められていなかったのは不思議だった。
携帯のネットバンキングの残高を確認すると、家賃や電気代、水道料金などが引き落とされている。
「ぽち。その必要はないみたいだ。研究所の方で、手続きをしていたみたいだ」
《……個人情報がダダ漏れです。すぐに変えた方が良い……ワン》
「でも、助かったんだし、良いよ別に。面倒だし」
《その考え方は危険だワン。研究所には不特定多数の人間が関わっている。手続きを怠れば、危険だ……わおーん》
「……最後のわおーんって……やめろよな。無理矢理犬になりきろうとしているのが、痛いぞ」
《……はい。ワン。取り敢えず、パスワードだけでも変えましょう。解析されにくいように二十文字くらいのものが良いです……ク~ン》
「そんなの、俺が覚えていられるか!」
その後、ぽちは二十文字のパスワードは野本の脳に直接インプットできると豪語した。
「嘘だろう……」
《いえ、記憶領域を達也の脳に形成する許可を得ました。これは監視体制から完全に離れた達也だけのものですので、安全です。ぽちは嘘はつけません、ワン》
野本は目をすがめて空間を睨み付けながら考える。
――プライバシーがないというのは、ぽちがチクっているからだ。なら、パスワードだって知られてしまうに違いない。
どうせ知られてしまうことに、態々面倒なことをする必要はどこにあると言うのか。
「ぽち。お前の記憶領域は?」
《AI自体には存在しません。ですが、今現在は達也の脳に記憶媒体として形成しつつあります》
「お前との会話は? 報告しているんだろう、研究所に」
《私が受け取った情報は、記憶されなければ、”ぽち”からすべて消失します》
――何となく、かみ合わない。質問を変えてみるか。
「記憶が消えると言うが、それならどうして会話はこうして連続して成り立っている?」
《……専門的な答えを作成中。しばらく……お待ちください……》
《モデル内部のパラメータに「長期的な言語のパターン」が染み込んでいます。
その場の会話履歴は「作業メモリ」として一時的に持っていますが、長さに限界があります。
研究所にはさらに外付けの「ユーザーごとのメモ」を別管理しています。
この三層が組み合わさって、「なんとなく一貫して覚えているっぽいAI」という振る舞いになっています》
《以上だワン……》
「ワンって……お前はまるで、多重人格だな。話し方に一貫性がない」
《そうですか。では犬バージョンに統一――》
「ああ、気にするな。お前が話しやすい方で勝手にやってくれ」
ぽちの説明を聞いてもまるで理解できなかった。野本はますます分からなくなってしまった。
そうこうしているうちに、炊飯器が飯が炊けたと知らせる。
「面倒なことは後回しだ。取り敢えず飯でも食って、風呂に入って後のことは――後に回す」




