止まらなかった車
第90話「止まらなかった車」
風呂場から、美鈴の爆笑がまだ聞こえていた。
「はははははっ!! 誠一、顔真っ赤やん!!」
「うるさい!!」
誠一はソファへ倒れ込む。
心臓が妙にうるさい。
「……なんなんあの人」
姉である。
実の姉。
それは分かっている。
だが。
昔から美鈴は妙に距離感がおかしかった。
平気で肩を組む。
平気で寝転がってくる。
平気で「男ってこういうの好きなんやろ?」とか聞いてくる。
しかも本人に悪気ゼロ。
だから余計にタチが悪い。
誠一は頭を抱えた。
「いやいやいや……」
必死に煩悩を振り払おうとする。
だが。
振り払おうとすればするほど。
さっきの美鈴のニヤニヤ顔が浮かぶ。
『でも見たいやろ?』
「うわぁぁぁぁぁ……!!」
誠一、クッションに顔を埋める。
「だから何であんなこと言うん……!」
しかも。
風呂場から鼻歌まで聞こえてくる。
完全に楽しんでいる。
「絶対わざとや……」
その時。
風呂場の扉が開く。
「ふぃ〜」
美鈴が出てきた。
髪をタオルで拭きながら、完全にリラックス状態。
Tシャツに短パン。
風呂上がりで頬が少し赤い。
誠一、反射的に視線を逸らす。
「なんで目逸らすん?」
「逸らしとらん!」
「いや逸らしたやん」
「気のせい!!」
美鈴、ニヤニヤ。
「誠一かわい〜」
「うるさい!!」
美鈴は冷蔵庫から麦茶を取り出す。
ゴクゴク飲む。
「あ゛〜生き返る〜」
「オッサンやん」
「誰がオッサンや」
そして。
美鈴が再びニヤリとした。
「誠一も風呂入ってきたら?」
「入る」
「背中流してあげよっか〜?」
誠一、硬直。
「……いらんわ!!」
「えー?」
美鈴、完全に面白がっている。
「なに? なんか想像した?」
「してない!!」
「顔真っ赤やけど?」
「してないって!!」
美鈴、大爆笑。
「はははははっ!! 誠一ほんと分かりやすい!!」
「姉ちゃん絶対性格悪い!!」
「今気づいた?」
「昔からや!!」
白金荘に笑い声が響く。
結局。
誠一は風呂へ逃げ込むように入っていった。
だが。
風呂場に入った瞬間。
「……うわ」
シャンプーの匂い。
湯気。
そして。
さっきまで美鈴が入っていたという事実。
「いやいやいやいや!!」
誠一、頭を抱える。
「落ち着け俺!!」
必死にシャワーを浴びる。
だが。
『背中流してあげよっか〜?』
「うわぁぁぁぁぁ!!」
風呂場で一人悶絶。
その頃リビングでは。
美鈴が腹を抱えて笑っていた。
「ははははっ!! 絶対今パニックなっとる!!」
姉、最低である。
だが。
どこか楽しそうだった。
弟とこうして笑い合う時間が、好きだった。
そしてその夜。
二人は布団を並べて眠った。
「明日早いけんね」
「はいはい」
「寝坊したら置いてくよ」
「姉ちゃんこそ起きれるん?」
「先生を舐めるな」
「朝めっちゃ弱いやん」
「……それは否定できん」
そして部屋の灯りが消える。
静かな夜。
誠一は天井を見つめていた。
隣から、美鈴の寝息が聞こえる。
「……ほんと変わったな」
昔は全国制覇しか見えてなかった姉。
勝つことしか考えてなかった姉。
でも今は。
子どもの話をして。
料理を作って。
笑って。
先生になろうとしている。
誠一は少し嬉しかった。
そして翌朝。
「誠一起きろー!」
「うわっ!?」
結局、美鈴の方が先に起きていた。
「朝ごはん出来とるよー」
「マジか……」
食卓には。
トースト。
サラダ。
スクランブルエッグ。
スープ。
「姉ちゃんほんと料理うまくなったな」
「当然」
「昔の焦げ鍋時代が懐かしい」
「黙れ」
二人で笑う。
そして午前十時過ぎ。
二人は地下鉄へ乗り込んだ。
今日の目的は、ショッピングモールに入っている時計専門店とアクセサリーショップ。
初任給で、両親へのプレゼントを買うためだった。
地下鉄車内。
「父ちゃんには腕時計かな」
「似合いそう」
「母ちゃんにはブレスレット」
「絶対泣く」
「いや泣かんって」
「泣く」
博多の街を歩く。
休日で賑わっていた。
ショッピングモール最寄駅で降りる。
そして二人は歩道を歩き始めた。
美鈴が少し前を歩く。
風が髪を揺らす。
誠一がふと思った。
綺麗になったな、と。
「姉貴も免許取ったら?」
「んー?」
「車あった方が便利やろ」
美鈴は苦笑した。
「今は無理〜」
「忙しい?」
「幼稚園とフェニックスで精一杯」
「まぁそりゃそうか」
「落ち着いたらね」
その時だった。
突然。
ゴォォォォォォッ!!
異常なエンジン音。
二人が反射的に振り向く。
道路沿いの駐車場。
一台の車が、異常な速度で加速していた。
「え――」
次の瞬間。
ドガァァァァァン!!
車止めを乗り越える。
フェンスを薙ぎ倒す。
そのまま歩道へ突っ込んできた。
「姉ちゃん!!」
誠一が叫ぶ。
だが。
間に合わない。
美鈴が振り向いた瞬間。
車が直撃した。
鈍い衝突音。
美鈴の身体が宙を舞う。
「ぁ――」
道路側へ叩きつけられる。
さらに。
車道を走っていた車が、美鈴を避けようとして急ハンドル。
対向車線へ飛び出す。
ドォォン!!
正面衝突。
後続車が急ブレーキ。
タイヤ音。
悲鳴。
次々に追突。
さらに。
美鈴を跳ねた車は止まらない。
猛スピードのまま前進。
真正面に停車していた車へ激突。
夜間照明を薙ぎ倒す。
ガシャァァァン!!
合計五台が絡む大事故。
煙。
悲鳴。
ガラス片。
鳴り響くクラクション。
そして。
道路の上。
美鈴が動かない。
「姉ちゃんッ!!」
誠一が駆け寄る。
血。
折れ曲がったガードレール。
周囲の悲鳴。
「救急車!! 誰か救急車!!」
誠一の声が震える。
「姉ちゃん!! 姉ちゃん!!」
美鈴の目は閉じたままだった。
やがて。
遠くからサイレンが聞こえ始める。
休日の博多に起きた、大事故。
この事故で。
黒崎美鈴が意識不明の重体。
五人が骨折などの重傷。
十人が怪我を負った。




