初任給の日
第89話
初任給の日
五月最後の金曜日。
ついに、その日がやってきた。
*
人生初めての給料日。
*
博多南幼稚園・職員室。
昼休み。
*
「黒崎先生ー」
事務の先生が封筒を差し出す。
「初任給ですよ」
*
美鈴、一瞬止まる。
「……え」
*
白い封筒。
自分の名前。
*
黒崎美鈴。
*
高校時代。
全国制覇。
春高三連覇。
表彰。
歓声。
*
色んなものを経験した。
でも。
この封筒は、どれとも違った。
*
“自分で働いて得たお金”。
*
「……」
美鈴、じっと見つめる。
*
井上先生が笑う。
「初任給って、特別ですよね」
*
美鈴、小さく頷く。
「はい……」
*
園児たちは相変わらず大暴れだった。
*
「せんせぇぇぇ!!」
「どうした!?」
「こうたくんが鼻に豆入れた!!」
「なんでぇぇぇ!?」
*
別方向。
「みすずせんせー!」
「はい!」
「アリ食べた!!」
「なんでぇぇぇぇ!?」
*
さらに。
「せんせー!!」
「今度は何!?」
「ゆうなちゃんが“結婚しよ”って言ってきた!」
「早い早い早い!!」
*
職員室、大爆笑。
*
主任の井上先生、肩震わせる。
「黒崎先生、ツッコミが完全に芸人なんですよ」
*
「いやもう毎日がカオスなんですけど!?」
*
でも。
そのカオスすら、少し愛おしかった。
*
帰宅後。
白金荘。
*
美鈴は封筒を机に置いた。
深呼吸。
*
「……よし」
開ける。
*
人生初めての給料。
*
「……ぉぉ……」
思わず声が漏れる。
*
もちろん。
大金じゃない。
でも。
重みが違った。
*
「ちゃんと働いたお金や……」
*
少しだけ、目が潤む。
*
すると。
ピンポーン。
*
「はーい」
玄関を開ける。
*
「よっ」
誠一だった。
*
「お、来た来た」
「姉ちゃん、給料日やろ?」
「なんで知っとるん」
「母ちゃんから聞いた」
*
誠一、部屋へ入る。
机の封筒を見る。
*
「おぉ……」
「なにその反応」
「いや、社会人っぽい」
*
美鈴、笑う。
*
「明日、付き合ってね」
「はいはい、荷物持ちやろ?」
「当然」
*
翌日。
土曜日。
*
美鈴は朝から珍しく気合い入っていた。
*
「どっちがいいかな……」
服選び。
*
「いや別にデートじゃないやろ……」
自分でツッコむ。
*
だが。
結局三十分悩んだ。
*
誠一、ソファで呆れる。
「姉ちゃん、まだ?」
「待って待って!」
「女子長い……」
*
そして。
美鈴、登場。
*
白ブラウス。
ロングスカート。
少し大人っぽい格好。
*
誠一、一瞬止まる。
*
「……何その顔」
「いや」
「?」
「普通に美人やなって」
*
美鈴、無言。
*
数秒後。
「キモっ」
「ひどっ!?」
*
白金荘、大爆笑。
*
だが。
誠一は少し本気だった。
*
高校時代。
ジャージ姿で怒鳴りながらバレーしてた姉。
汗だくで笑ってた姉。
*
それが今。
ちゃんと“大人の女性”になり始めていた。
*
博多の街。
*
時計店。
*
「父ちゃんには、やっぱ腕時計かな」
*
ショーケースを見る。
色んな時計。
*
「……父ちゃん、こういうの似合うかな」
*
誠一、腕組み。
「シンプルなのがいいんやない?」
「やっぱそうよね」
*
そして決まった。
シルバーの腕時計。
派手じゃない。
でも、しっかりしてる。
*
「父ちゃんっぽい」
美鈴、笑う。
*
次。
アクセサリー店。
*
「母ちゃんには……」
ブレスレット。
*
佳代は、自分のために贅沢をしない人だった。
だからこそ。
ちゃんとしたものを贈りたかった。
*
「これ、綺麗やない?」
美鈴が指差す。
*
淡い銀色。
小さな石が光る。
*
誠一も頷く。
「母ちゃん絶対喜ぶ」
*
美鈴、満足げ。
「よし、決まり!」
*
買い物終了。
*
その帰り道。
大型ショッピングモール。
*
「ちょっとトイレ行ってくる」
「はいよー」
*
誠一、ベンチ待機。
*
数分後。
美鈴、戻ってくる。
*
「お待たせー」
「姉ちゃんさ」
「ん?」
「ほんと変わったよな」
*
「?」
*
「昔、バレーしか見えてなかったやん」
*
美鈴、少し黙る。
*
「……まぁね」
*
「でも今、ちゃんと先生になっとる」
*
美鈴、小さく笑う。
「まだ全然やけどね」
*
その時だった。
*
遠くで。
タイヤが鳴る音。
*
キキィィィィッ――!!
*
人々の悲鳴。
*
「え……?」
*
美鈴と誠一が振り向く。
*
一台の車。
*
異常な速度。
*
まっすぐ――
人混みへ突っ込んでいた。
次回予告
第90話「止まらなかった車」
初任給で、両親へのプレゼントを買った帰り道。
その時――。
一台の車が暴走。
悲鳴。
衝突音。
崩れる日常。
一方フェニックス福岡では、“黒崎サーブ被害者の会”がまさかの会員急増。
「もうトラウマなんよ!!」
さらに宗像高校イタリアン研究会、ついに料理番組出演へ。
「だから何でバレー部がぁぁぁ!!」
そして。
黒崎美鈴の人生は、大きく変わる。
次回、第90話「止まらなかった車」。
あの日、運命が音を立てて崩れ始める。




