体育館の光
第7話
体育館の光
小学校生活にも、少しずつ慣れてきた。
授業。
宿題。
給食当番。
集団登校。
最初は大きく見えた宗像市立東郷小学校の校舎も、美鈴にとって少しずつ“自分の場所”になっていた。
朝、教室に入れば、すぐに友達が声をかけてくる。
「美鈴ちゃん、おはよう!」
「おはよう!今日も元気ばい!」
美鈴はランドセルを机の横にかけると、にこっと笑った。
「昨日の宿題、できた?」
「できたけど、算数がちょっとむずかしかった」
「どこ?」
「ここ。八ひく五」
「ああ、それはね、八こあるお菓子から五こ食べたと思えばよかと」
「五こも食べたら怒られるやん」
「そこは想像やけん大丈夫たい」
周りの子たちが笑う。
美鈴は、勉強ができるだけではなかった。
どう説明すれば相手が分かるかを、自然と考えられる子だった。
そして、笑いを忘れない。
「でも、ほんとに五こ食べたら、お母さんから『あんた何しよると!』って言われるばい」
「美鈴ちゃんのお母さん、言いそう!」
「言う言う。しかも目が強かと」
教室に笑い声が広がった。
1年1組は、今日も朝から賑やかだった。
*
その日の昼休み。
美鈴は友達と一緒に、校舎の廊下を歩いていた。
廊下の先にある体育館から、聞き慣れない音がした。
ぱんっ。
ぱんっ。
きゅっ。
ボールが床を打つ音。
シューズが床をこする音。
上級生たちの掛け声。
美鈴は足を止めた。
「……なんしよると?」
「体育館?」
「見てみる?」
美鈴はこくんとうなずき、体育館の扉の隙間から中をのぞいた。
そこでは、上級生たちがバレーボールをしていた。
ボールが高く上がる。
誰かが受ける。
誰かがつなぐ。
そして、ネットの向こうへ返す。
父・正一の実業団の試合とは違う。
速さも、高さも、迫力も違う。
それでも、美鈴には同じ光に見えた。
体育館の照明を受けて、白いボールが空中に浮かぶ。
落とさないように、みんなが声をかけ合っている。
「はい!」
「こっち!」
「つないで!」
その声が、美鈴の胸に響いた。
父の背中。
実業団のコート。
あの日見たスパイク。
その記憶が、体育館の光の中で重なった。
美鈴は小さくつぶやいた。
「みーすずも、あそこに行きたか」
友達が横からのぞき込む。
「美鈴ちゃん、バレーしたいと?」
「うん」
「ばーんってするやつ?」
「うん。でも、ばーんだけやなか。つなぐやつ」
美鈴は、上級生たちの動きをじっと見つめていた。
その目は、ただの憧れではなかった。
自分もあそこへ行く。
いつか、あの中でボールを追う。
まだ言葉にはできない決意が、小さな胸の中に芽生えていた。
*
その日の体育の時間。
先生が大きな袋から柔らかいボールを出した。
「今日は、ボールを使って遊びます。お友達に投げたり、受けたりしてみましょう」
美鈴の目が輝いた。
「ボールやん!」
隣の子が笑う。
「美鈴ちゃん、うれしそう」
「うれしか!さっき体育館でバレー見たっちゃん!」
「もうスパイクする?」
「まだせん。今日は、ぽーんたい」
先生は二人組を作らせ、向かい合ってボールを投げるように言った。
美鈴はボールを両手で抱えた。
思っていたより大きい。
「おっきかねぇ」
「美鈴ちゃんでも大きく見えると?」
「見える見える。これ、顔より大きか」
友達が笑う。
美鈴は真剣な顔で構えた。
「いくよ」
「うん」
「ぽーん!」
ボールは少し横へそれ、友達の足元へ転がった。
「あっ、ごめん!」
美鈴はすぐに走って拾う。
「もう一回してよか?」
「よかよ」
今度は少しゆっくり投げた。
「ぽーん」
友達が受けた。
「できた!」
「やった!」
次は、美鈴が受ける番だった。
友達が投げる。
ボールが飛んでくる。
美鈴は両手を出す。
ぽすん。
ボールは胸に当たって、床に落ちた。
「うわっ」
周りの子たちが笑う。
美鈴も一瞬びっくりしたあと、すぐに笑った。
「ボールがみーすずに突撃してきた!」
「違うよ、美鈴ちゃんが受けそこねたっちゃろ」
「いや、ボールにも気持ちがあるかもしれん」
「なかろうもん!」
先生も笑いながら近づいてきた。
「美鈴ちゃん、もう一回やってみようか」
「はい!」
失敗する。
拾う。
もう一回。
また失敗する。
また笑う。
そして、また挑戦する。
ボールに触れる。
つなぐ。
落とす。
それでも、もう一度。
美鈴は夢中になっていた。
上手にできたから楽しいのではない。
できないことが、少しずつできるようになる。
その感覚が、美鈴の心を強く引っ張っていた。
*
体育のあと、教室に戻っても、美鈴はまだ興奮していた。
「さっきのボール、思ったより大きかったね」
「うん。みーすず、顔で受けそうになった」
「顔面レシーブ?」
「顔面レシーブは禁止たい。鼻がびっくりするけん」
クラスの子たちが笑う。
美鈴はさらに続けた。
「でも、つなぐの楽しかった。落ちそうになったら、みんなで『あー!』ってなるやん」
「なるなる」
「あれがよかね。みんなで同じ気持ちになる感じ」
まだ小学一年生の言葉だった。
けれど、美鈴はもう感じ取っていた。
バレーは、ひとりで完結するものではない。
誰かが受ける。
誰かがつなぐ。
誰かが返す。
その全部がつながって、ひとつのプレーになる。
父が言っていた言葉の意味が、ほんの少しだけ分かった気がした。
*
その日の夕方。
美鈴は家に帰るなり、玄関で靴を脱ぎながら叫んだ。
「おとうさん!」
居間にいた正一が顔を上げる。
「おかえり。どげんしたと?元気が玄関から飛んできよるばい」
「今日、学校でバレーボールしたよ!」
「おおっ!」
正一の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとか!」
「うん!ボール、ぽーんってしたと!」
「そげんね。楽しかったか?」
「楽しかった!」
美鈴はランドセルを下ろすのも忘れて、両手でボールを抱える真似をした。
「でもね、ボール大きかねぇ」
「バレーボールは大きかけんな」
「野球のボール何個分くらいあると?」
正一は固まった。
「……何個分て?」
「うん。何個分?」
正一は少し上を見た。
バレー選手として、ボールの感触は誰よりも知っている。
けれど、野球のボール何個分かと聞かれると、すぐには答えられない。
「何個分くらいかねぇ……」
台所から佳代が顔を出した。
「日本代表でも、そこはすぐ答えられんとやね」
「いや、競技が違うけん」
「美鈴の質問、なかなか鋭かね」
美鈴は目を輝かせた。
「じゃあ、調べる!」
「調べると?」
「パソコンで!」
居間の隅には、黒崎家のパソコンがあった。
当時の家庭用パソコンは、今ほど子どもが自由に使うものではなかった。
インターネットも、まだ大人がそばについて見るものだった。
正一と佳代は顔を見合わせた。
*
黒崎家では、パソコンにフィルタリングをかけていた。
いつか美鈴や誠一が使うようになっても、危ない情報や不適切なサイトに触れないように。
それは、正一と佳代が前から話し合って決めていたことだった。
正一は椅子を引いた。
「じゃあ、お父さんと一緒に調べてみよっか」
「やった!」
「でもな、約束があるばい」
美鈴はぴたりと止まった。
「約束?」
「パソコンは、お父さんかお母さんがおる時に一緒に使うこと」
「ひとりじゃだめと?」
「まだだめたい」
「なんで?」
正一は少し考えた。
子どもに分かる言葉で伝えるために。
「パソコンの中には、便利なもんもいっぱいある。知りたいことも調べられる。ばってん、美鈴が見たら怖くなるもんや、困るもんもあると」
美鈴は真剣に聞いた。
「怖いもんもあると?」
「ある。やけん、大人と一緒に使うと。分からんことがあったら、すぐ聞く」
佳代も隣に来た。
「これは美鈴を縛るためやなかとよ。守るため」
美鈴は少し考えてから、こくんとうなずいた。
「わかった。お父さんか、お母さんと一緒に使う」
「よし」
正一はパソコンの電源を入れた。
画面がゆっくり明るくなる。
美鈴は初めて、インターネットの世界をのぞいた。
「おお……」
正一が検索窓に文字を打つ。
バレーボール 大きさ
野球ボール 大きさ
美鈴は画面をじっと見つめた。
「お父さん、字がいっぱいある」
「そうたい。必要なところば探すと」
「宝探しみたいやね」
「ちょっと似とるな」
正一は説明した。
「バレーボールはな、ぐるっと一周がだいたい65センチから67センチくらい」
「ながっ!」
「野球のボールは、だいたい23センチくらいやね」
「じゃあ、三こくらい?」
「周りの長さで考えたら、だいたい三個分くらいやな」
美鈴は目を丸くした。
「バレーボール、野球ボール三兄弟やん!」
佳代が吹き出した。
「なにそれ」
「おっきいお兄ちゃん!」
正一も笑った。
「美鈴の発想は自由すぎるばい」
「野球だけに?」
佳代がすぐに返した。
「今のはお母さんの勝ちやね」
美鈴は悔しそうに笑った。
「お母さん、急に強か!」
*
調べ終わると、正一はパソコンの電源を切った。
画面が暗くなる。
美鈴は少し名残惜しそうに見つめた。
「また調べてよか?」
「よかよ。でも、約束覚えとる?」
「お父さんか、お母さんがおる時に一緒に使う!」
「そう」
「ひとりでぽちぽちせん!」
「それも大事」
佳代が笑った。
「ぽちぽち禁止ね」
「わかった!」
美鈴は両手を広げた。
「でも、バレーボールは野球ボール三個分!」
「だいたいやけどな」
「じゃあ、みーすずがばーんしたら、野球ボール三個が飛んでいく!」
「いや、それは違う」
正一が笑う。
美鈴も笑った。
*
その夜。
美鈴は布団の中で、体育館の光を思い出していた。
上級生たちがボールをつないでいた姿。
自分が初めて学校でボールに触れた感触。
パソコンで調べた、ボールの大きさ。
世界は、思っていたより広い。
体育館の中にも。
パソコンの画面の向こうにも。
父の話の中にも。
でも、どの世界にもルールがある。
ボールを落とさないためのルール。
相手を傷つけないためのルール。
パソコンを安全に使うためのルール。
美鈴は、小さくつぶやいた。
「みーすず、ちゃんと守る」
そして、もうひとつ。
「でも、ばーんはする」
その声は、眠気に溶けていった。
父の背中から始まった憧れは、体育館の光の中で、少しだけ形になった。
黒崎美鈴、6歳。
まだ本格的なバレーは始まっていない。
けれど彼女の中で、ボールを追いかける未来は、確かに動き出していた。
次回予告
第8話「笑いのレシーブ」
体育館でボールに触れた美鈴は、ますますバレーに興味を持つ。
休み時間も、家でも、頭の中はボールのことでいっぱい。
けれど、うまくできないことも増えていく。
失敗して、悔しくて、少し落ち込む日もある。
そんな時、美鈴は気づく。
笑いは、失敗をごまかすためのものではない。
もう一度立ち上がるための力になる。
次回、第8話「笑いのレシーブ」。
美鈴の笑いが、仲間の




