東郷小学校入学式
第6話
東郷小学校入学式
2005年4月。
朝の空気は、少しだけひんやりとしていた。
春の匂いが混ざった、どこか新しい季節の始まりを感じさせる朝。
黒崎家の玄関で、美鈴は何度も同じ動きを繰り返していた。
ランドセルを背負って、くるっと回る。
また正面に戻って、少し背筋を伸ばす。
そして、もう一度くるっと回る。
「……三周目やね」
佳代が腕を組んで見ている。
「だって、これ、かっこいいもん」
美鈴はランドセルの肩紐をぎゅっと握った。
「おとうさん、これ、にあう?」
正一はすでに三回とも同じリアクションをしている。
それでも、四回目も全力だった。
「似合う。いや、似合いすぎとる。ランドセル側が『ありがとうございます』言いよる」
「ランドセルしゃべると?」
「しゃべる。心の中で」
「おとうさん、ちょっとあぶない」
「美鈴に言われたくない」
誠一が横から口を出す。
「ぼくも!」
「せーたんはまだ!」
ぴしゃっと言い切る美鈴。
佳代が笑いながら言う。
「はいはい、そろそろ行くよ」
*
宗像市立東郷小学校。
校門の前に立った瞬間、美鈴は少しだけ足を止めた。
幼稚園よりも広い校庭。
背の高い校舎。
見たことのない数の子どもたち。
「……おおきい」
ぽつりとつぶやく。
その横で、正一がしゃがみ込む。
「怖いか?」
美鈴は少しだけ考えてから言った。
「ちょっとだけ。でも、たのしみのほうが多い」
正一は笑った。
「それでいい」
佳代が背中を軽く押す。
「行っておいで」
美鈴はうなずいた。
「おはようございます!」
大きな声。
その一言で、もう半分は大丈夫だった。
*
教室。
まだ誰も座り慣れていない机。
きょろきょろと周りを見回す子どもたち。
そして――
泣いている子。
「おかあさーん……」
その声を聞いた瞬間、美鈴は動いた。
隣に座る。
何も言わずに、ちょっとだけ顔をのぞき込む。
「……なきよると?」
その子はうなずく。
美鈴は少し考えてから、ゆっくり言った。
「みーすずも、ちょっとだけこわい」
その子が顔を上げる。
「ほんと?」
「ほんと。でもね」
ここで美鈴は、急に顔をぐにゃっとゆがめた。
目を細めて、口を横に引っ張る。
「こんなかおのほうがこわいよ」
一拍。
そして――
「……ぷっ」
笑いがこぼれた。
美鈴はにこっとする。
「だいじょうぶ。みーすず、おるけん」
それは、ただの慰めじゃなかった。
“ここにいるよ”という、ちゃんとした言葉だった。
*
数日後。
教室の空気は、すでに変わっていた。
原因はひとつ。
黒崎美鈴。
「ねえねえ、今日なにする?」
「みーすず、なんかおもしろいのして!」
休み時間になると、自然と人が集まる。
美鈴は少しだけ考えて、ニヤッとした。
「じゃあ、テレビのまねする」
「なにそれ!」
「すごいやつ!」
美鈴は机の上に軽く手を置いて、急に声色を変えた。
「いや〜ほんまにね、これね、びっくりしたんですよ〜!」
関西風のテンポ。
次に、少し間を取る。
「いやいやいや、ちょっと待って、それ絶対ウソやろ!」
ツッコミ。
さらに続ける。
「ちゃうねん!ほんまやねん!見たんやって!」
ボケ。
テンポが早い。
間が絶妙。
そして何より――
表情がすごい。
目の動き。
口の動き。
体の揺れ。
まるで本当に、テレビの中の人がそこにいるみたいだった。
「なんでやねん!」
教室が爆発した。
「あはははは!!」
「すごい!!」
「もう一回!!」
美鈴は止まらない。
「いやいや、あんたな!それ言うたらあかんやろ!」
「ほんまかいな!」
ボケとツッコミを一人で行き来する。
まるで、さんまと所が同時にそこにいるみたいだった。
先生が廊下から覗いて、思わず吹き出す。
「ちょっと……なにそれ……」
クラスは完全に美鈴中心の空気になっていた。
*
でも、その日。
空気が変わる瞬間が来た。
ひとりの男の子が、別の子の持ち物を指差した。
「それ、ださくね?」
一瞬で、笑いが止まる。
からかわれた子が、下を向く。
誰も動けない。
その空気を、美鈴は見ていた。
そして、立ち上がる。
「それ、ちがうと思う」
静かな声だった。
でも、教室全体に届いた。
「なんで?」
男の子が言う。
美鈴は、ちゃんと考えてから答えた。
「だって、その子がかなしくなるやん」
間。
誰も笑わない。
「ほんとのことやし」
男の子が言う。
美鈴は、首を横に振った。
「ほんとのことでも、いっていいことと、だめなことある」
そして、少しだけ柔らかくする。
「それより、いいとこいったほうがいい」
空気が、ゆっくり動き出す。
「それ、かっこいいやん」
「色いいよね」
誰かが言う。
次々に声が出る。
さっきまで止まっていた空気が、変わる。
美鈴は何も言わずに、にこっと笑った。
さっきの爆笑とは違う、静かな笑顔だった。
*
帰り道。
「きょうね、めっちゃうけた!」
美鈴が報告する。
「誰のまねしたと?」
佳代が聞く。
「さんまさんと、所さん!」
正一が吹き出す。
「渋いとこいくなあ!」
「おもしろかったもん!」
そして、美鈴は少しだけ真面目な顔になる。
「でもね、ないてる子もおった」
「どうしたと?」
「おはなしきいた」
正一がうなずく。
「それでいい」
「あとね、だめなこと、だめっていった」
正一は少しだけ間を置いて言った。
「言い方、大事やぞ」
「うん。でも、ちゃんといった」
「それでいい」
佳代がそっと言う。
「笑いも大事。でも、それだけじゃないね」
美鈴はうなずいた。
*
夜。
布団の中。
美鈴は小さくつぶやいた。
「みーすず、ちゃんとできたかな」
その問いに答える人はいない。
でも、答えはもう出ていた。
笑いで人を包む。
言葉で人を守る。
その両方を持つ子。
それが、黒崎美鈴。
そしてその力は――
いつか、光子と優子へ。
さらに、美香へ。
確かに受け継がれていく。
まだ6歳。
でも、この教室で、すでに始まっていた。
“あの母”になる物語が。
美鈴は、勉強もよくできた。
算数の足し算や引き算。
国語のひらがな、カタカナ、音読。
先生の話をよく聞き、分からないところがあれば、素直に質問する。
そして一度分かると、それを自分の言葉で説明できる子だった。
ある日の算数の時間。
隣の席の男の子が、プリントを前にして困っていた。
「……これ、わからん」
美鈴はのぞき込む。
「どれ?」
「七ひく三」
美鈴は少し考えて、鉛筆を七本並べた。
「ほら、これが七こ」
「うん」
「ここから三こ、ばいばいする」
美鈴は鉛筆を三本よけた。
「のこったの、いくつ?」
「……四」
「そう。だから七ひく三は四」
男の子の顔がぱっと明るくなる。
「わかった!」
美鈴はにこっと笑った。
「こうすると、よくわかるよ」
別の日には、国語の時間。
ひらがなの読み方でつまずいている女の子がいた。
「これ、なんて読むと?」
「“き”たい」
「“さ”と似とる」
「うん。ちょっと似とるね。でも、“き”はここがこうなっとる」
美鈴は空中に指で字を書いた。
「き、き、き。ほら、木みたいに覚えたらいいよ」
「木?」
「そう。き、は木!」
女の子は笑った。
「それなら覚えられる!」
そんなことが何度も続くうちに、休み時間になると、自然と美鈴の周りにクラスメイトが集まるようになった。
「美鈴ちゃん、ここ教えて」
「この字、これで合っとる?」
「さっきのギャグ、もう一回して!」
「さんまさんのやつ!」
「所さんのやつも!」
男の子も女の子も関係ない。
勉強の話も、テレビの話も、給食の話も、かけっこの話も、全部が美鈴の周りで混ざっていった。
美鈴は誰かを特別扱いしなかった。
速い子にも、遅い子にも。
よく話す子にも、静かな子にも。
男の子にも、女の子にも。
同じように声をかけた。
「わからんかったら、きけばいいとよ」
「まちがえても、なおせばいいやん」
「はい、ここでギャグ入りまーす」
そして突然、変顔をする。
クラスが笑う。
「美鈴ちゃん、急すぎ!」
「いまの顔、先生に見せて!」
「だめ!先生笑いすぎて授業できんくなる!」
1年1組は、いつも賑やかだった。
ただ騒がしいのではない。
誰かが分からないまま置いていかれない。
誰かが泣いたまま放っておかれない。
誰かがからかわれたまま終わらない。
そんな空気が、少しずつできていた。
先生は、教室の後ろからその様子を見て、静かに思った。
黒崎美鈴という子は、ただ明るいだけではない。
この子の周りでは、人が安心して笑える。
勉強も、遊びも、失敗も、全部が少し軽くなる。
その力は、まだ名前のない才能だった。
けれど、確かにそこにあった。
人を集める力。
人を助ける力。
そして、人を笑わせる力。
美鈴のいる1年1組は、今日も明るかった。
誰かの「わからん」が「わかった」に変わるたび、教室には小さな拍手と笑い声が生まれていた。




