9月11日の夜
第5話 後半
9月11日の夜
2001年9月11日の夜。
黒崎家は、すでに静まり返っていた。
美鈴は布団の中で眠っていた。
隣の部屋では、弟の誠一も小さな寝息を立てている。
けれど夜中、美鈴はふと目を覚ました。
「……おしっこ」
眠たい目をこすりながら、布団を抜け出す。
廊下は暗い。
居間の方だけ、ぼんやりと明かりが漏れていた。
美鈴は小さな足音で、居間の前を通りかかった。
その時、テレビの画面が目に入った。
夜のニュース番組。
映し出されていたのは、見たこともないほど高いビルだった。
そのビルから、黒い煙が上がっている。
次の瞬間、画面の中で飛行機が高層ビルへ突っ込んだ。
炎。
煙。
叫ぶようなアナウンサーの声。
美鈴は立ち止まった。
「……おとうさん」
ソファに座っていた正一が、はっと振り向く。
佳代も顔を上げた。
「美鈴、起きたと?」
美鈴はテレビを指さした。
「これ、なんかの映画の宣伝?」
正一も佳代も、すぐには答えられなかった。
テレビの向こうで起きていることの大きさを、二人はまだ完全には理解できていなかった。
けれど、それが子どもに見せていいものではないことだけは分かった。
佳代がすぐに立ち上がり、テレビの前に立つようにして、美鈴の視界を遮った。
「美鈴、トイレ行きたかったんやろ?」
「うん。でも、あれ……」
正一はリモコンを手に取り、音量を下げた。
そして、できるだけ穏やかな声で言った。
「これはね、怖い映画の宣伝たい」
「こわいえいが?」
「そう。美鈴にはまだ怖すぎるけん、見らんでいい」
佳代もそっと美鈴の肩に手を置いた。
「はやくおしっこして、寝ようね」
美鈴は少し不思議そうな顔をした。
けれど、眠気の方が勝っていた。
「うん……」
佳代に手を引かれ、美鈴はトイレへ向かった。
その背中を見送りながら、正一はテレビを見つめたまま、固まっていた。
画面の中では、信じられない光景が続いていた。
佳代が戻ってくると、正一は低い声で言った。
「……何が起きとるんや」
佳代も青ざめた顔で首を振った。
「分からん。でも、美鈴には見せたらいかん」
「うん」
正一はテレビの電源を落とした。
部屋が暗くなる。
外は静かだった。
けれど、世界のどこかで、とてつもないことが起きている。
その事実だけが、重く残った。
*
美鈴はその夜、再び布団に戻った。
父と母が言った。
怖い映画の宣伝。
だから、美鈴はそれ以上考えなかった。
けれど、煙を上げる高いビルの映像だけは、幼い記憶の奥に、ぼんやりと残った。
*
それからしばらく経って。
美鈴は、あの夜に見た映像が映画の宣伝ではなかったことを知る。
世界を揺るがした大事件。
多くの人の命が奪われ、世界の形を変えてしまった出来事。
そのことを理解した時、美鈴は両親がなぜ咄嗟に嘘をついたのかを知った。
小さな子どもに真実をそのまま渡しても、ただ恐怖になるだけだ。
正一と佳代は、世界の残酷さから、美鈴の心を守ろうとした。
嘘は、いつも悪いものとは限らない。
誰かを騙すためではなく、
誰かを傷つけないために、
その瞬間、必要になる言葉もある。
美鈴は大人になってから、その夜のことを思い出す。
そして、自分が母になった時に、ようやく分かる。
親は、子どもに何でも本当のことを言えばいいわけではない。
でも、ずっと隠し続ければいいわけでもない。
その子が受け止められる時が来るまで、
怖さを少しだけ遠ざけてあげる。
それもまた、親の役目なのだと。
父の背中は、コートの上だけにあったのではない。
あの夜、テレビの前でリモコンを握り、震える声を押し殺していた正一の背中もまた、
美鈴にとって、忘れられない父の背中だった。




