父の背中
第5話
父の背中
黒崎美鈴が、父・正一の実業団の試合を初めて強く覚えた日。
それは、幼稚園の制服よりも、園庭のかけっこよりも、もっと大きな世界を見た日だった。
広い体育館。
まぶしい照明。
響き渡る笛の音。
観客席からの拍手。
そして、その中央に立つ父。
家では少し涙もろくて、佳代にすぐツッコまれる父。
美鈴と誠一の前では、いつも大きな手で頭を撫でてくれる父。
けれど、コートの上の正一は違った。
背筋が伸び、目が鋭く、ボールを追う姿に迷いがなかった。
「おとうさん……」
美鈴は、観客席で小さな手をぎゅっと握った。
相手チームの強いサーブ。
味方のレシーブ。
高く上がるトス。
次の瞬間、正一が跳んだ。
まるで体育館の天井へ届きそうなほど高く。
そして――
ばーん!
強烈なスパイクが相手コートに叩き込まれた。
会場が沸いた。
美鈴の目が、きらきらと輝く。
「おとうさん、ばーんした!」
隣の佳代が笑う。
「すごかったね」
「みーすずも、ばーんする!」
その言葉に、佳代は少し驚いた。
美鈴は立ち上がりそうな勢いで、コートを見つめていた。
まだ3歳。
ルールも戦術も分からない。
でも、美鈴の胸には、確かに何かが残った。
父の背中。
仲間とボールをつなぐ姿。
勝っても驕らず、相手と握手する姿。
それは、美鈴にとって最初の憧れだった。
*
試合が終わると、正一が観客席へやって来た。
汗を拭きながらも、娘を見つけると表情がゆるむ。
「美鈴、見とったか?」
「みた! おとうさん、ばーん!」
美鈴は両手を振り上げてジャンプした。
正一は笑った。
「スパイクな」
「すぱいく!」
「そう。スパイク」
「みーすずも、すぱいくする!」
正一は一瞬だけ、佳代を見る。
佳代は肩をすくめるように笑った。
「始まったね」
「始まったな」
正一はしゃがみ込み、美鈴の目線に合わせた。
「美鈴。バレーは、ばーんだけじゃないぞ」
「ばーんだけじゃない?」
「そう。ボールを落とさんように、みんなでつなぐんよ」
「つなぐ?」
「ひとりで勝つんじゃない。みんなで勝つ」
美鈴は少し首をかしげた。
まだ難しい。
それでも、正一の顔が真剣だったから、美鈴も真剣に聞いた。
「それと、ルールを守ること」
「るーる?」
「決まりのことたい」
正一は続ける。
「強い人は、決まりを破って勝つ人じゃない。決まりを守って、それでも勝てる人たい」
美鈴は小さくうなずいた。
「みーすず、まもる」
「うん。美鈴ならできる」
*
それからしばらくして。
黒崎家の近くの空き地で、正一と美鈴の“バレーボールごっこ”が始まった。
もちろん、本格的な練習ではない。
柔らかいボールを使い、ぽんぽんと投げたり、受けたり、軽く打ったりするだけ。
「美鈴、まずはボールを見る」
「みる!」
「手はこう」
「こう?」
「そうそう。上手いぞ」
正一がゆっくりボールを投げる。
美鈴は両手を伸ばして受けようとする。
ぽすん。
ボールは美鈴の腕に当たり、前へ転がった。
「できた!」
「当たったな。最初はそれで十分たい」
「もういっかい!」
美鈴は何度も挑戦した。
うまくいく時もある。
顔に当たりそうになって、びっくりする時もある。
空振りして、自分で笑う時もある。
「みーすず、へた?」
「へたじゃない。始めたばっかりたい」
「じゃあ、うまくなる?」
「なる。続けたら、必ずなる」
美鈴はにこっと笑った。
「じゃあ、つづける!」
その時だった。
横から、小さな影が走ってきた。
弟の誠一である。
「だー!」
誠一は転がっていたボールを見つけると、両手でぎゅっと抱えた。
「あっ、せーたん!」
美鈴が叫ぶ。
誠一はボールを抱えたまま、全力で走り出した。
「まてー!」
美鈴が追いかける。
誠一はきゃっきゃと笑いながら逃げる。
正一は一瞬ぽかんとした後、大笑いした。
「誠一、それはバレーじゃなくてラグビーたい!」
誠一は意味も分からず、さらに走る。
「だー!」
「せーたん、かえしてー!」
「やー!」
美鈴は必死に追いかけるが、誠一もなかなかすばしっこい。
最後は足がもつれて、二人そろって芝生にころんと転がった。
ボールもころころと転がる。
少し沈黙。
そして――
「あはははは!」
二人とも笑い出した。
正一も笑った。
佳代は洗濯物を取り込みながら、遠くからその様子を見ていた。
「もう、バレーなのか運動会なのか分からんね」
それでも、その声は優しかった。
*
夕方。
空はオレンジ色に染まっていた。
美鈴はボールを抱え、正一の隣に座っていた。
「おとうさん」
「ん?」
「せーたん、るーるまもってない」
正一は笑いをこらえた。
「まあ、まだ小さいけんな」
「ぼーる、もってはしった」
「うん。バレーではだめやね」
「でも、せーたん、たのしそうやった」
「そうやな」
正一は少し考えてから言った。
「美鈴。ルールは大事や。でもな、まだ知らん子には、教えてあげればいい」
「おこるんじゃなくて?」
「危ないことや、人を傷つけることは止める。でも、知らんだけなら、教える」
「おしえる」
「そう。美鈴も幼稚園でできるやろ。『こうしたらいいよ』って」
美鈴はうなずいた。
「みーすず、できる」
正一は娘の頭を撫でた。
「美鈴は、強くなれるよ」
「ばーんできる?」
「できる」
「おとうさんみたいに?」
「お父さんより、すごくなるかもな」
美鈴は目を丸くした。
「ほんと?」
「ほんと」
その言葉に、美鈴は胸を張った。
「じゃあ、みーすず、いっぱいれんしゅうする」
正一は笑った。
「でも、まずは幼稚園でいっぱい遊んで、いっぱい食べて、いっぱい寝ることたい」
「いっぱいアイスも?」
「それはお母さんに聞きなさい」
ちょうどその時、家の方から佳代の声が飛んできた。
「アイスはご飯のあと!」
美鈴と正一は同時に背筋を伸ばした。
「はい!」
その横で、誠一だけがボールをもう一度抱えて走り出した。
「だー!」
美鈴が叫ぶ。
「あっ、またラグビー!」
正一は腹を抱えて笑った。
*
夜。
美鈴は布団の中で、今日のことを何度も思い出していた。
父のスパイク。
会場の拍手。
ボールの感触。
誠一の暴走。
正一の言葉。
強い人は、ルールを守る。
知らない子には、教えてあげる。
ひとりではなく、みんなでつなぐ。
美鈴は小さな手を天井に向けて伸ばした。
「ばーん」
小さな声でつぶやく。
隣の部屋では、正一と佳代が話していた。
「美鈴、ほんとにバレー好きになるかもね」
「無理にはやらせん。でも、やりたいなら応援する」
「正一さん、泣かんでね」
「まだ泣いてない」
「“まだ”なんや」
「美鈴が初めて試合に出たら、たぶん無理や」
「早すぎる」
二人の会話を聞きながら、美鈴はくすっと笑った。
家族の声に包まれて、眠りに落ちていく。
この日、美鈴はまだ何者でもなかった。
ただ、走るのが好きで、笑うのが好きで、父の背中に憧れる小さな女の子だった。
けれど、その胸には、確かに芽生えていた。
ボールを追いたい気持ち。
仲間とつなぎたい気持ち。
正しく、強く、優しくありたい気持ち。
父の背中は、遠かった。
でも、美鈴はいつか、その背中を追いかけて走り出す。
そして、もっと先の未来で――
今度は自分自身が、娘たちや子どもたちに背中を見せる人になっていく。
その始まりは、夕焼けの空き地での、小さな“ばーん”だった。
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次回予告
第6話「東郷小学校入学式」
2005年4月。
黒崎美鈴、6歳。
ランドセルを背負い、宗像市立東郷小学校の入学式へ向かう。
幼稚園で培った明るさと社交性はそのままに、新しい教室、新しい友達、新しい先生との出会いが待っていた。
だが、小学校は幼稚園とは違う。
授業、宿題、集団登校、給食当番。
戸惑いながらも、美鈴は持ち前の元気と笑顔で、少しずつ新しい世界へなじんでいく。
次回、第6話「東郷小学校入学式」。
美鈴の世界が、またひとつ広がる。




