走るのが好き、笑うのが好き
第4話
走るのが好き、笑うのが好き
宗像市立幼稚園の園庭には、今日も元気な声が響いていた。
「よーい、どん!」
先生の合図と同時に、子どもたちが一斉に走り出す。
その中で、ひときわ速く飛び出す小さな影。
黒崎美鈴だった。
風を切るように走る。
足の回転が速い。
体のバランスもいい。
あっという間に、先頭に立つ。
「はやい……」
「みーすず、また一番やん」
ゴールテープを切るのは、いつも美鈴。
先生も思わず笑う。
「美鈴ちゃん、ほんとに速いね」
美鈴は息を弾ませながら、にこっと笑った。
「はしるの、だいすき!」
その言葉どおりだった。
かけっこ、鬼ごっこ、縄跳び、ボール遊び。
とにかく体を動かすことが大好き。
園庭の端から端まで走り回り、疲れるどころか、ますます元気になる。
いつの間にか、美鈴は“園で一番速い子”として知られるようになっていた。
「また美鈴ちゃんが勝ったね」
「もう毎回やね」
「超健康優良児やね」
保護者の間でも話題になるほどだった。
*
ある日、かけっこの練習中。
美鈴はいつものように先頭を走っていた。
ゴールが見える。
あと少し。
その時、後ろで「わっ!」という声がした。
ひとりの女の子が足をもつれて転んだのだ。
砂が舞い上がる。
美鈴は一瞬だけゴールを見た。
そして次の瞬間、足を止めた。
振り返る。
そして、その子のところへ全力で走り戻った。
「だいじょうぶ!?」
まだ先生が駆け寄る前だった。
美鈴はその子のそばにしゃがみ込み、小さな手を差し出した。
「いたい?」
女の子は涙をこらえながらうなずく。
「ひざ、いたい……」
美鈴はそっと砂を払った。
「ここ、すこしすりむいとるね。でも、だいじょうぶ。みーすずも、いっぱいころぶ」
そして、にこっと笑った。
「いっしょにいこ」
女の子は少し安心した顔で、その手を握った。
先生が駆け寄る。
「美鈴ちゃん、ありがとう」
美鈴は首を振った。
「ころんだら、たすける」
それは当たり前のことのように言った。
先生は、その言葉に胸を打たれた。
*
けれど、美鈴はいつも完璧ではなかった。
勝つことが好きだった。
負けるのは悔しかった。
鬼ごっこで捕まると、思わず言ってしまう。
「まだ!もう一回!」
「今のなし!」
ある日、友達とぶつかった。
「ずるい!」
「ずるくないもん!」
言い合いになり、空気がピリッとする。
その日の夜。
正一は美鈴を膝に乗せて話した。
「美鈴、今日なにがあった?」
美鈴は少し黙ってから言った。
「みーすず、まけたくなかった」
「うん」
「でも、けんかになった」
正一はゆっくりうなずいた。
「勝ちたい気持ちは大事や」
「うん」
「でもな、もっと大事なことがある」
美鈴は顔を上げる。
「なに?」
正一はまっすぐ目を見て言った。
「勝ったあとに、どうするか」
「かったあと?」
「そう。自分だけ喜ぶんか。負けた子のことも考えるんか」
美鈴は考える。
少し難しい顔をする。
正一は続けた。
「強い人はな、速いだけじゃない。優しい人たい」
「やさしい……」
「今日、美鈴は転んだ子にどうした?」
「て、だした」
「それが本当の強さや」
美鈴の表情が少し明るくなる。
「みーすず、つよい?」
「強い。でも、もっと強くなれる」
「もっと?」
「うん。勝っても負けても、みんなで笑える人になったら、もっと強い」
美鈴はしばらく考えてから、こくんとうなずいた。
*
次の日の園庭。
またかけっこが始まる。
「よーい、どん!」
美鈴は走る。
やっぱり速い。
やっぱり一番。
ゴールしたあと、少し息を整える。
そして、後ろを見る。
転んでいる子はいないか。
泣いている子はいないか。
今日は誰も転んでいなかった。
でも、ひとりの子が悔しそうにしていた。
美鈴は近づいた。
「つぎ、いっしょにはしろ」
「え?」
「みーすず、ちょっとゆっくりはしる」
「ほんと?」
「うん。でも、ちょっとだけね」
その子は笑った。
「ありがとう」
美鈴も笑った。
その笑顔は、ゴールした時よりも、少しやわらかかった。
*
夕方、帰り道。
美鈴は元気よく歩いていた。
「きょうね、みんなでいっぱいはしった!」
「楽しかった?」
佳代が聞く。
「うん!でもね、みんなでわらったのが、いちばんたのしかった!」
正一はその言葉を聞いて、静かに笑った。
「そうか」
走るのが好き。
勝つのも好き。
でも、それ以上に――
笑うのが好き。
誰かと一緒に笑うのが好き。
黒崎美鈴、3歳。
その小さな体には、すでに“強さ”と“優しさ”が同時に育ち始めていた。
やがてそれは、チームを支える力になり、
子どもたちを導く力になり、
そして家族を守る力へとつながっていく。
走ることが好きだった少女は、
やがて誰かの人生を前に進める人になる。
その第一歩は、園庭の小さなゴールラインの上にあった。
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次回予告
第5話「父の背中」
実業団の試合で見た、父・正一の姿。
コートで戦うその背中は、美鈴の心に強く残っていた。
「みーすずも、ばーんする!」
小さな決意が、やがて大きな夢へと変わっていく。
一方で、父としての正一は、美鈴と誠一に“ルールを守る意味”を伝え続ける。
強さとは何か。
本当にかっこいいとはどういうことか。
バレーと家族をつなぐ、黒崎家の時間が描かれる。




