宗像市立幼稚園 2002年春。 黒崎美鈴、3歳
第3話
宗像市立幼稚園
2002年春。
黒崎美鈴、3歳。
宗像市立幼稚園の門の前で、美鈴は新品の制服に身を包み、小さな帽子をかぶって立っていた。
隣には母・佳代。
少し後ろには、父・正一。
そしてベビーカーには、弟の誠一。
「美鈴、先生に会ったら何て言うと?」
佳代が尋ねると、美鈴は胸を張った。
「おはようございます!」
「よし、えらい」
正一が満面の笑みでうなずく。
「美鈴、挨拶は大事やぞ。バレーでもな、試合前と試合後の挨拶がちゃんとできん選手は――」
「正一さん、入園初日に実業団の訓示は長い」
「……はい」
美鈴は父を見上げて、にこっと笑った。
「おとうさん、おはなし、ながいね」
「美鈴に言われた……」
佳代は笑いをこらえながら、美鈴の背中をそっと押した。
「さあ、行っておいで」
美鈴は元気よく門をくぐった。
「おはようございます!」
その声は、春の園庭にまっすぐ響いた。
*
教室には、緊張した子どもたちが集まっていた。
お母さんと離れたくなくて泣いている子。
椅子に座ったまま固まっている子。
名札を気にして何度も触っている子。
先生が優しく声をかけている。
「大丈夫よ。みんな、今日からお友達だからね」
その時、ひとりの男の子が大きな声で泣き出した。
「おかあさーん!」
教室の空気が一気に不安になる。
つられて泣きそうになる子もいた。
美鈴はその男の子をじっと見た。
それから、自分のほっぺを両手でぐいっと押し上げた。
目を細め、口をひょっとこみたいに曲げる。
「ぶにょーん」
男の子の泣き声が止まった。
周りの子たちも、ぽかんと美鈴を見る。
美鈴はさらに変顔を続けた。
「おかお、びよーん」
次の瞬間、男の子が吹き出した。
それを見た別の子も笑った。
教室のあちこちから、くすくす笑いが広がっていく。
先生も思わず笑ってしまった。
「美鈴ちゃん、すごいね。お友達、笑ったね」
美鈴は胸を張った。
「ないたら、わらったほうがいいよ」
先生はその言葉に、少し驚いた。
3歳の子どもの言葉にしては、妙に芯があった。
*
美鈴は、幼稚園にすぐなじんだ。
朝は大きな声で挨拶する。
「おはようございます!」
帰る時も、ちゃんと言う。
「さようなら!」
友達が困っていると、すぐに近づく。
「いっしょにあそぼ」
「これ、かしてあげる」
「だいじょうぶ。みーすず、いるよ」
誰とでも一瞬で仲良くなれる子だった。
けれど、美鈴はただ明るいだけではなかった。
ある日、砂場でひとりの子が、別の子のスコップを無理やり取った。
「だめよ!」
美鈴がすぐに声を上げた。
相手の子はむっとした顔をする。
「つかいたかったもん」
美鈴は少し考えてから、言った。
「つかいたいのは、わかる。でも、とったら、いやなきもちになる」
先生が近くで見守る。
美鈴はさらに続けた。
「だから、じゅんばんこ。こっちのカップ、つかってまっとこ」
そして自分の持っていたカップを差し出した。
「これ、かしてあげる」
先生は静かに感心した。
怒るだけではない。
相手の気持ちも聞く。
でも、だめなことはだめと言う。
その上で、どうすればいいかを出す。
それは、家庭で育っていた力だった。
*
黒崎家では、父・正一がよく子どもたちに話をしていた。
正一は実業団のバレーボール選手で、日本代表としてもプレーしている。
だからこそ、ルールやきまりの大切さを知っていた。
けれど、正一は頭ごなしには叱らない。
「美鈴、順番を守るのはな、ただ決まりやけん守るんやない」
「なんで?」
「みんなが気持ちよく過ごすためたい」
「みんな?」
「そう。美鈴だけが楽しくても、誰かが悲しかったら、本当の楽しいにはならん」
美鈴は真剣に聞く。
「じゃあ、みんなでたのしいがいい?」
「そう。それが一番強い」
「バレーも?」
「バレーも。ひとりだけ上手でも勝てん。みんなでつなぐけん、強くなる」
美鈴はその言葉を、幼いなりに受け止めていた。
だから幼稚園でも、理不尽なことにはちゃんと言う。
でも、相手を責めるだけでは終わらせない。
「じゃあ、こうしよ」
そう言える子だった。
*
そんなある日。
美鈴は父の実業団の試合を見に行くことになった。
会場に入った瞬間、美鈴の目は大きく開いた。
広い体育館。
高い天井。
まぶしい照明。
観客席のざわめき。
コートに響くシューズの音。
正一はユニフォーム姿でコートに立っていた。
家で見る父とは、まるで違った。
大きくて、速くて、強い。
サーブが放たれる。
レシーブが上がる。
トスが伸びる。
正一が跳ぶ。
そして、強烈なスパイク。
ボールが相手コートに叩き込まれた。
会場が沸いた。
美鈴は息をのんだ。
「おとうさん、すごい……」
佳代が微笑む。
「かっこいいね」
美鈴は目を輝かせたまま、コートを見つめていた。
試合後、正一が観客席にやって来ると、美鈴は駆け寄った。
「おとうさん!」
「美鈴、見とったか?」
「みた! ばーんってした!」
「スパイクな」
「みーすずも、ばーんする!」
正一は一瞬、驚いた顔をした。
「美鈴、バレーしたいと?」
「うん!」
美鈴は小さな両手を上げて、ぴょんと跳んだ。
「おとうさんみたいに、ばーんする!」
正一は佳代を見た。
佳代も静かに笑っていた。
その瞬間、黒崎美鈴の中に、小さな火が灯った。
まだ3歳。
ボールよりも、変顔のほうが得意。
ルールも技術も、何も分かっていない。
けれど、確かに始まった。
父の背中を見て。
体育館の光を見て。
仲間がボールをつなぐ姿を見て。
美鈴は、バレーボールに出会った。
*
幼稚園に戻った美鈴は、さっそく園庭で友達に話した。
「おとうさん、ばーんってした!」
「ばーん?」
「ボールをね、どーん!」
美鈴は両手を振り上げて、勢いよくジャンプした。
しかし着地で少しよろけた。
「あぶなっ」
友達が笑う。
美鈴も笑う。
「みーすず、まだちょっとだけへた」
先生がそばで言った。
「ちょっとだけ?」
美鈴は真顔で答える。
「いっぱいかも」
教室中が笑いに包まれた。
美鈴はその笑いの真ん中で、にこにこしていた。
明るく、元気で、挨拶ができる。
誰とでも仲良くなれる。
間違ったことには、きちんと向き合える。
そして、人を笑わせることができる。
黒崎美鈴、3歳。
幼稚園生活は、まだ始まったばかりだった。
けれどその小さな姿の中には、すでに未来の美鈴がいた。
バレーで仲間を支える美鈴。
幼稚園教諭として子どもを導く美鈴。
母として三人の娘を抱きしめる美鈴。
そして、光子と優子と美香を育てる、笑いの源になる美鈴。
すべては、この小さな教室から始まっていた。
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次回予告
第4話「走るのが好き、笑うのが好き」
幼稚園生活にも慣れた美鈴は、園庭を走り回る毎日を送っていた。
かけっこ、鬼ごっこ、縄跳び、ボール遊び。
とにかく体を動かすことが大好きな美鈴。
けれど、勝ち負けにこだわるあまり、友達とぶつかってしまうこともある。
父・正一は美鈴に語る。
「勝つことは大事。でも、勝ったあとにどうするかが、もっと大事たい」
走る楽しさ。
笑う楽しさ。
友達と一緒に遊ぶ楽しさ。
美鈴は少しずつ、“強さ”と“優しさ”の両方を学んでいく。




