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笑う母の物語  作者: リンダ


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弟ができた日

第2話


弟ができた日


 2000年10月10日。

 福岡県宗像市。


 黒崎家の朝は、いつもより少し慌ただしかった。


 母・佳代のお腹は大きく、家の中には、もうすぐ新しい赤ちゃんが生まれるという不思議な緊張感が漂っていた。


 1歳9か月の美鈴は、その空気を正確に理解していたわけではない。


 ただ、最近のお母さんはゆっくり歩く。

 お父さんの正一は、いつも以上にそわそわしている。

 そして、みんなが何度もこう言う。


「美鈴、お姉ちゃんになるんよ」


 美鈴はそのたびに、首を少しかしげた。


「おねーたん?」


「そう。赤ちゃんが生まれたら、美鈴はお姉ちゃん」


 佳代が笑って言うと、美鈴は自分の胸をぽんと叩いた。


「みーたん、おねーたん?」


「うん。みーたん、お姉ちゃん」


 正一はそのやり取りを見ながら、すでに泣きそうな顔をしていた。


「佳代……美鈴がもうお姉ちゃんに……」


「まだ本人、意味分かってないと思うよ」


「でも、響きがすごい。お姉ちゃんやぞ」


「あなた、出産前から感動しすぎ」


 佳代のツッコミに、正一は苦笑した。


 その時、佳代の表情がふっと変わった。


 お腹に手を当て、深く息を吸う。


「……正一さん」


 正一の顔が一瞬で真剣になる。


「来た?」


「うん。病院、行こう」


 正一は慌てて立ち上がった。


「美鈴、じいちゃんばあちゃんのところ行くぞ」


 美鈴はお気に入りの小さなぬいぐるみを抱えたまま、父を見上げた。


「あかちゃん?」


 正一はしゃがみ込み、美鈴の頭を撫でた。


「そう。赤ちゃんに会いに行くんよ」


 美鈴はにこっと笑った。


「ばぶー?」


「美鈴、それは赤ちゃん役や」


 佳代は痛みの合間に、思わず笑ってしまった。


     *


 病院の廊下で、正一はまた落ち着きをなくしていた。


 約2年前、美鈴が生まれた日と同じように、廊下を歩き回り、時計を見て、深呼吸をして、また歩き回る。


 その横で、美鈴は祖母の膝の上に座り、ぬいぐるみを抱いていた。


 祖母・佳代の母が言う。


「美鈴ちゃん、もうすぐ赤ちゃん生まれるよ」


「赤ちゃん」


「そう。弟か妹か、楽しみやね」


「おとうと?」


 美鈴は、どこかで聞いた言葉をまねた。


 すると、分娩室の奥から赤ん坊の産声が響いた。


 正一が立ち止まる。


 美鈴も、ぴたりと動きを止めた。


 その小さな耳に、生まれたばかりの命の声が届いた。


「……ばぶー」


 美鈴が真顔でつぶやく。


 祖母が笑う。


「そうね。ばぶーやね」


 やがて看護師が出てきた。


「黒崎さん。男の子です。お母さんも赤ちゃんも無事ですよ」


 正一は両手で顔を覆った。


「男の子……」


 美鈴は父を見て、不思議そうに言った。


「おとうたん、ないた?」


「泣いてない」


「ないた」


「泣いてない」


 祖母が横から笑った。


「泣いとるね」


 正一は完全に逃げ場を失った。


     *


 病室に入ると、佳代が疲れた顔で、それでも穏やかに微笑んでいた。


 腕の中には、小さな男の子が眠っている。


 美鈴は父に抱き上げられ、そっと赤ちゃんを覗き込んだ。


「美鈴。弟よ」


 佳代が優しく言う。


「おとうと」


「名前は、誠一」


 正一が続ける。


「黒崎誠一。まっすぐで、誠実な子になりますようにって」


 美鈴は小さな誠一をじっと見つめた。


 小さな手。

 小さな鼻。

 まだ閉じたままの目。


 美鈴はしばらく黙っていたが、突然、自分のぬいぐるみを誠一の近くに差し出した。


「どーじょ」


 佳代が目を丸くする。


「美鈴、それお気に入りやろ?」


「どーじょ」


 美鈴は真剣だった。


 正一は胸を押さえた。


「佳代……もうお姉ちゃんや……」


「あなた、また泣くよ」


「無理や。これは泣く」


 美鈴は、父の顔を見てにこっと笑った。


「おとうたん、えーん」


「違う、これは感動の涙」


「えーん」


 病室に笑いが広がった。


 その笑いに反応するように、誠一が小さく口を動かした。


 美鈴はそれを見て、ぱっと顔を輝かせた。


「わらった」


「うん。笑ったかもしれんね」


 佳代がそう言うと、美鈴は誠一の顔に近づき、小さな声で言った。


「みーたん、おねーたん」


 まだ何も分からない弟に向かって、美鈴は胸を張った。


 その姿は、ほんの幼児のものだった。

 けれど確かに、そこには姉になった瞬間の光があった。


     *


 誠一が家に帰ってきてから、黒崎家の日常は一変した。


 赤ちゃんは泣く。

 眠る。

 また泣く。

 ミルクを飲む。

 また泣く。


 美鈴は最初、そのたびに驚いていた。


「せーたん、ないた」


「赤ちゃんやけんね」


「せーたん、またないた」


「赤ちゃんやけんね」


「せーたん、ずっとないた」


「そういう日もあるね」


 佳代は寝不足で大変だったが、美鈴は美鈴なりに弟を助けようとしていた。


 誠一が泣くと、ぬいぐるみを持ってくる。

 ガラガラを鳴らす。

 変な顔をする。

 時には自分が寝転がって、赤ちゃんの真似をする。


「ばぶー」


 誠一は泣き止まない。


 美鈴は少し考えて、さらに大きく口を開けた。


「ばぶぶぶぶー」


 それでも泣き止まない。


 正一が横で吹き出した。


「美鈴、方向性は合っとるけど、圧が強い」


 佳代も笑った。


 その瞬間、誠一の泣き声が少し小さくなった。


 美鈴は目を丸くした。


「せーたん、とまった」


「美鈴が笑わせたんかもね」


 佳代が言うと、美鈴はぱっと笑った。


「みーたん、わらわせた」


「そうね」


「もっかい」


 美鈴は再び誠一の前に立ち、今度はほっぺを両手で押して、妙な顔を作った。


 正一が腹を抱えた。


「美鈴、それはお父さんに効く」


 佳代も耐えきれず笑う。


 誠一は泣き止んだまま、ぼんやりと姉を見ていた。


 美鈴は得意げに胸を張った。


 この家に、ひとつ新しい役割が生まれた。


 美鈴は姉になった。

 そして、家族を笑わせる小さな係にもなった。


     *


 ある夜。


 佳代が誠一を寝かしつけている横で、美鈴も眠たそうに目をこすっていた。


 正一が声をかける。


「美鈴、もう寝ようか」


「せーたん、ねんね」


「そう。誠一もねんね」


 美鈴は小さな弟の顔を見つめた。


 そして、そっと布団をかけようとした。


 少しずれていたが、その気持ちは十分だった。


 佳代が優しく手を添える。


「ありがとう、美鈴」


 美鈴は小さくうなずいた。


「みーたん、おねーたんやけん」


 正一はその言葉に、また目を潤ませた。


 佳代はすかさず言った。


「正一さん、泣くなら静かにね。誠一起きるから」


「分かっとる」


「鼻すすったらアウト」


「厳しい」


 美鈴は父を見て、にやっと笑った。


「おとうたん、えーん」


「だから違うって」


 小さな笑い声が、夜の黒崎家に広がった。


 美鈴はまだ幼い。

 弟の存在の意味も、姉としての責任も、すべてを理解しているわけではない。


 けれど、その小さな胸には確かに芽生えていた。


 誰かを守りたい気持ち。

 誰かを笑わせたい気持ち。

 泣いている人のそばにいたい気持ち。


 それは、ずっと先の未来につながっていく。


 事故で倒れた自分を呼び戻してくれる人。

 虐待に苦しむ少女を抱きしめる母。

 光子と優子が命の危機に陥った時、絶対に諦めない強い母。


 そのすべての始まりは、この夜だった。


 弟ができた日。


 美鈴は初めて、“誰かのために笑う”ことを覚えた。



次回予告


第3話「宗像市立幼稚園」


 3歳になった美鈴は、いよいよ宗像市立幼稚園へ入園する。


 初めての制服。

 初めての教室。

 初めて出会う友達。


 泣いている子、緊張している子、うまく輪に入れない子。

 そんな中、美鈴は思いがけない行動で教室中を笑わせる。


 小さな黒崎美鈴、幼稚園デビュー。

 ここから彼女の“人を笑顔にする力”が、少しずつ形になっていく。

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