クリスマスに生まれた笑顔
第1話
クリスマスに生まれた笑顔
1998年12月25日。
福岡県宗像市。
海から吹く冬の風は冷たく、街にはクリスマスの飾りがまだ残っていた。住宅街の窓には小さなイルミネーションが灯り、ケーキ屋の前には、予約したクリスマスケーキを受け取る家族連れが並んでいる。
そんな夜、黒崎家では、ひとつの命が生まれようとしていた。
病院の廊下を、黒崎正一は何度も行ったり来たりしていた。
身長の高い、がっしりした体格。
バレーボール実業団でプレーし、日本代表にも選ばれた男。
コートの上では、どんな強烈なスパイクにも動じない。
国際試合の大歓声の中でも、冷静にボールを追える。
だが、今の正一は完全に落ち着きを失っていた。
「まだか……まだか……」
看護師が通りかかるたびに、正一は反射的に振り向いた。
「黒崎さん、落ち着いてくださいね」
「あ、はい。落ち着いてます」
そう答えた直後、正一は廊下の椅子に座ろうとして、椅子の位置を見誤り、少しだけ空振りした。
看護師は苦笑した。
「……かなり落ち着いてないですね」
「すみません。日本代表の試合より緊張してます」
「それはそれで、お母さんに怒られますよ」
正一は思わず背筋を伸ばした。
分娩室の向こうには、妻の佳代がいる。
いつも穏やかで、芯が強く、正一が試合でどれだけ追い込まれても、笑って送り出してくれた人だった。
その佳代が、今は命をかけて子どもを産もうとしている。
正一は両手を組み、祈るようにうつむいた。
「佳代……がんばれ……」
その時だった。
分娩室の中から、赤ん坊の泣き声が響いた。
正一は立ち上がった。
廊下に、まっすぐな産声が広がる。
高く、強く、まるで冬の空を割るような声だった。
正一の目に、あっという間に涙が浮かんだ。
「……生まれた」
看護師が扉を開け、笑顔で告げた。
「黒崎さん。女の子ですよ」
正一は大きな体を少し震わせながら、何度もうなずいた。
「女の子……」
「お母さんも赤ちゃんも、無事です」
その言葉を聞いた瞬間、正一はその場にへたり込みそうになった。
コートでは絶対に膝をつかない男が、病院の廊下で危うく崩れ落ちるところだった。
*
しばらくして、正一は病室へ通された。
ベッドの上には、疲れ切った表情の佳代がいた。
だが、その顔には、これまで正一が見たことのないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。
佳代の腕の中には、小さな赤ん坊が眠っていた。
赤い頬。
小さな手。
まだ何も知らない、けれど確かに生きている命。
正一はそっと近づいた。
「佳代……ありがとう」
佳代は少し笑った。
「それ、最初に言う言葉としては合格」
「合格でよかった……」
「ただし、廊下で椅子に座り損ねたって聞いたけど」
正一は固まった。
「もう伝わっとるんか」
「病院の情報網、速いよ」
「日本代表のブロックより速いな」
佳代は小さく笑った。
その笑い声につられるように、赤ん坊が少しだけ口を動かした。
まるで笑ったように見えた。
正一と佳代は、同時に息をのんだ。
「……今、笑った?」
「笑ったよね」
「生まれたばっかりで?」
「この子、なかなか大物かもしれんね」
佳代が赤ん坊の頬をそっと撫でる。
正一は、その小さな顔を見つめながら言った。
「名前……決めとったよな」
「うん」
二人は何度も話し合っていた。
強く、優しく、明るく。
誰かの心を照らせる子になってほしい。
美しく、鈴の音のように澄んだ笑いを届ける子に。
佳代が静かに言った。
「美鈴」
正一も続ける。
「黒崎美鈴」
赤ん坊は、また小さく口元を緩めた。
佳代は涙を浮かべながら笑った。
「この子、名前気に入ったんやない?」
「そうやったら嬉しいな」
正一はそっと指を差し出した。
美鈴の小さな手が、その指をぎゅっと握った。
思ったよりも強い力だった。
正一は目を見開いた。
「おお……握力あるな」
「あなた、もうバレー選手にする気?」
「いや、まだ生後数十分やけど……これは将来、有望かもしれん」
「気が早すぎ」
「でも、レシーブの時に指の力は大事やし」
「新生児にレシーブ教えようとせんで」
佳代のツッコミに、正一は苦笑した。
その横で、美鈴は小さく手を動かした。
まるで、二人の会話に参加しているみたいだった。
*
その日の宗像の夜は、いつもより少し静かだった。
病室の窓の外には、クリスマスの光が見える。
遠くで車の音がして、どこかの家からは家族の笑い声が漏れていた。
佳代は眠る美鈴を見つめながら、ぽつりと言った。
「この子、どんな子になるやろうね」
正一は少し考えた。
「元気な子になる」
「それは、もう分かる気がする」
「よく笑う子になる」
「それも、もう分かる気がする」
「あと……人を笑わせる子になるかもしれん」
佳代は正一を見た。
「なんで?」
「さっきから、こっちが真面目に感動しようとするたびに、口元がにやっとするけん」
「赤ちゃんに先制攻撃されとるね」
「すでに父親、負けとる」
佳代は声を出さないように笑った。
その時、美鈴が小さく「あう」と声を出した。
正一は驚いて身を乗り出す。
「今、何か言ったぞ」
「言葉なわけないでしょ」
「いや、『お父さん落ち着け』って言ったかもしれん」
「生後初日に父親へ注意する娘、強すぎるやろ」
二人はまた笑った。
その笑い声の中で、美鈴はすやすやと眠っていた。
何も知らない赤ん坊だった。
これから先、自分がどれほど多くの人を笑わせるのか。
どれほど多くの涙を越えるのか。
そして、いつか光子と優子、美香という三人の娘たちを育て、“令和の爆笑女王”たちの母と呼ばれるようになるのか。
まだ、何も知らない。
ただ、その小さな寝顔には、不思議な明るさがあった。
*
翌朝。
黒崎家の親戚たちにも、美鈴誕生の知らせが届いた。
「クリスマス生まれやって!」
「めでたかねえ」
「正一、もう泣いとるやろ」
「絶対泣いとる」
その予想は、だいたい当たっていた。
正一は病室で、美鈴の寝顔を見るたびに目を潤ませていた。
佳代はそれを見て、少しあきれながらも嬉しそうだった。
「正一さん」
「ん?」
「この子が大きくなったら、ちゃんと叱ってね」
「叱る?」
「かわいいかわいいだけやったら、わがままになるよ」
正一は美鈴を見た。
小さな寝息。
小さな口。
小さな手。
「……叱れるかな」
「もう負けとる」
「いや、努力はする」
「努力目標じゃ困るんやけど」
佳代がそう言うと、美鈴がくしゃっと顔を動かした。
泣くのかと思った次の瞬間、また口元だけがふっと緩む。
正一は完全にやられた顔になった。
「佳代」
「何?」
「この子、たぶん強い」
「うん。私もそう思う」
「そして、たぶん面白い」
「それも、私もそう思う」
二人は顔を見合わせて笑った。
美鈴の誕生日は、クリスマス。
街が光に包まれる日に、黒崎家へ届いた小さな贈り物。
その子はまだ、泣くことと眠ることしかできない。
けれど、確かにそこにいた。
家族の中心に。
笑いの始まりに。
これから長い物語の、最初のページに。
黒崎美鈴。
のちに、三人の娘を育て、たくさんの子どもたちを導き、バレーのコートでも教育の現場でも、人を笑顔にし続ける女性。
その人生は、この日、宗像の冬の空の下で始まった。
クリスマスに生まれた笑顔。
それはまだ小さく、やわらかく、頼りない光だった。
けれどいつか、その光は家族を照らし、仲間を照らし、娘たちへ受け継がれていく。
そして、ずっと先の未来。
光子と優子が世界を笑わせるたびに、誰かが言うことになる。
「この二人を育てたお母さん、どんな人なん?」
その答えは、ここにある。
黒崎美鈴。
笑いの始まりは、ひとりの赤ん坊の小さな笑顔だった。




