主将、コートの外へ
第62話
主将、コートの外へ
整形外科での診断結果は、左足首の重い捻挫。
骨折ではなかった。
だが、医師の表情は軽くなかった。
「しばらくは固定です。無理に動かせば、長引きます」
美鈴の左足首はギプスで固定され、その上から包帯が巻かれた。
移動は松葉杖。
全国までに復帰できるかは、まだ分からない。
*
学校の車で自宅まで送られた美鈴は、玄関で松葉杖をつきながら小さく息を吐いた。
「ただいま……」
そこへ、弟の誠一が飛び出してきた。
「姉ちゃん!」
野球部帰りの誠一は、制服のまま顔を青くしていた。
「大丈夫か?」
「骨は折れとらん」
「それ、大丈夫って言い方なん?」
「まあ……黒焦げよりはマシたい」
「今その例えいる?」
誠一は呆れながらも、美鈴の荷物を持った。
*
その日は、父・正一は遠征で不在。
母・佳代も仕事で遅くなる。
美鈴はソファに座り、固定された足をクッションの上に乗せた。
汗もかいている。
病院にも行った。
着替えたい。
できれば体もさっぱりさせたい。
だが、今の状態では一人で入浴は無理だった。
美鈴はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくり誠一を見た。
「誠一」
「何?」
「頼みがある」
「何でも言って」
「入浴、手伝って」
誠一の動きが止まった。
「……え?」
「足濡らしたらいかんし、転んだら終わるけん」
「いや、分かるけど……俺が姉ちゃんの入浴介助?」
美鈴はじとっと誠一を見る。
「なんか誠一、変なこと考えてない?」
「考えとらんわ!」
「声が裏返っとる」
「そりゃ裏返るやろ! 姉ちゃんやぞ!」
美鈴は少し笑った。
「冗談たい。全部手伝えって意味やなか。脱衣所まで移動、椅子の準備、足濡れんようにビニール巻くの手伝って。あとはドアの外で待機」
誠一はほっとしたように息を吐いた。
「それならできる」
「当たり前やろ。そこまで弟にさせたら、私の羞恥心が県大会敗退する」
「どんな敗退や」
*
誠一は、脱衣所に椅子を置いた。
タオルを準備し、ギプスが濡れないように大きなビニール袋とテープを持ってきた。
美鈴は足を上げる。
「慎重にお願い」
「分かっとる」
誠一は真剣な顔で、包帯の上から濡れないようにビニールを巻いた。
いつものふざけた弟ではなかった。
本当に心配しているのが伝わってきた。
「誠一」
「何?」
「ありがと」
「……別に」
誠一は少し照れた。
*
浴室の前まで移動すると、誠一はドアの外に立った。
「何かあったら呼んで」
「うん」
「絶対転ぶなよ」
「分かっとる」
「ほんとに呼べよ」
「分かったって」
美鈴は苦笑した。
シャワーだけで済ませる。
椅子に座り、左足を濡らさないように気をつける。
思った以上に不自由だった。
立ち上がるだけでも怖い。
ほんの数時間前まで、全国のコートを目指して跳んでいた体が、今は浴室の段差ひとつに緊張している。
美鈴は唇を噛んだ。
「……悔しか」
ドアの外から、誠一が声をかける。
「姉ちゃん?」
「大丈夫」
*
風呂から上がると、誠一がすぐに支えた。
「ゆっくり」
「うん」
ソファまで戻ると、美鈴はぐったり座り込んだ。
「お風呂だけで一試合分疲れた……」
「そりゃ足使えんけん」
「私の左足、早く復帰してほしか」
誠一は少し黙ってから言った。
「姉ちゃん」
「ん?」
「焦るなよ」
美鈴は驚いた。
誠一は目をそらしながら続ける。
「俺、野球で肩痛めた先輩見たことある。焦って戻って、もっと悪くなった」
「……うん」
「姉ちゃん、絶対無理するけん」
「失礼な」
「するやろ」
「……するかも」
誠一は真剣な顔で言った。
「だったら、周りに止めてもらえ。俺も止めるけん」
美鈴は、弟の顔を見つめた。
いつの間にか、誠一も大きくなっていた。
姉を心配し、ちゃんと支えようとしている。
「頼もしくなったね」
「何それ」
「いや、なんか……弟がちょっとだけ大人に見えた」
「ちょっとだけかい」
*
その夜、母・佳代が帰宅すると、誠一は今日のことを報告した。
「姉ちゃん、ちゃんと座ってシャワーした。足も濡らしてない」
佳代はほっと息を吐いた。
「誠一、助かった。ありがとうね」
「うん」
美鈴はソファで足を上げたまま言った。
「誠一、介護ポイント十点」
「何それ」
「十点たまると、姉ちゃんのありがたい説教が一回無料」
「いらん!」
リビングに笑いが戻った。
*
でも、美鈴の胸の奥には、不安があった。
全国に間に合うのか。
主将として、何ができるのか。
コートに立てない自分に、価値はあるのか。
その問いが、静かに胸を締めつける。
翌日、藤崎監督から連絡が入った。
「黒崎」
「はい」
「焦ってはいけません」
「……はい」
「今のあなたにできる主将の仕事をしなさい」
美鈴は松葉杖の横に置いたノートを見た。
プレーはできない。
でも、見ることはできる。
考えることはできる。
声を届けることはできる。
「分かりました」
*
黒崎美鈴、高校三年。
初めて、主将としてコートの外へ立たされる。
それは、これまでのどの試合よりも苦しい戦いの始まりだった。
次回予告
第63話「松葉杖の主将」
ギプスと松葉杖で学校に戻った美鈴。
コートには立てない。
走れない。
跳べない。
だが、彼女にはまだ“見る力”と“言葉”がある。
後輩たちは、美鈴不在のコートで不安を抱える。
「私は外から見る。あんたたちは中で戦う」
次回、第63話「松葉杖の主将」。
美鈴は、コート外からチームを導き始める。




