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笑う母の物語  作者: リンダ


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淡い初恋後編



 これまで、美鈴は女子たちの恋バナを何度も聞いてきた。


「先輩がかっこいい」

「目が合った」

「LINE返ってきた」

「今日、近く通った」


 そんな話を聞くたび、美鈴は笑いながら相づちを打っていた。


「それ、もう試合で言えばマッチポイントやん」


「いや、まだ予選リーグやろ」


 恋バナにもギャグで返す。


 けれど、自分のこととして考えたことは、ほとんどなかった。


 美鈴の青春は、ずっとバレーの中にあった。


 体育館。

 ボールの音。

 汗。

 悔し涙。

 作戦ノート。

 仲間の声。


 恋をする時間がなかったわけではない。


 ただ、心の真ん中にずっとバレーがいた。


 だから、舟富圭介を見て胸が跳ねた時、美鈴は戸惑った。


「……これ、何のポジション?」


 分析不能。


 守備位置も分からない。

 攻撃パターンも読めない。

 タイムアウトも取れない。


 まるで、思春期という名の全国大会に、突然ベンチ外から強制出場させられたようだった。


「いや、聞いとらん。こんな試合、事前ミーティングなかった」


 美鈴は机に突っ伏した。


 バレーなら、考えられる。

 相手の癖を読む。

 コースを読む。

 流れを読む。


 でも、自分の心だけは読めない。


 舟富先輩の笑顔を思い出すだけで、胸の奥が変なふうに跳ねる。


「これ、心臓がフォークサーブ投げよる……」


 落ちるのか、浮くのか、曲がるのか。


 自分でも分からない。


 遅ればせながら、美鈴は初めて“誰かを好きになる”という感情のど真ん中に放り込まれていた。


 それは、どんな全国大会よりも予測不能だった。






 悩んでも、らちが明かない。


 そう思った美鈴は、ある夜、台所に立つ母・佳代の背中に声をかけた。


「お母さん」


「ん? どげんしたと?」


「……ちょっと、相談してよか?」


 佳代は包丁を置き、美鈴の顔を見た。


 いつものバレーの相談ではない。


 試合でも、練習でも、足の疲労でもない。


 佳代はすぐに気づいた。


「よかよ。座り」


 食卓に向かい合って座る。


 美鈴はしばらく黙っていた。


 そして、小さな声で言った。


「……気になる人が、おるかもしれん」


 佳代は、少しだけ目を丸くした。


 それから、やわらかく笑った。


「そうね」


「これが恋かどうかも分からん。でも、その人を見ると、胸が変になる」


「うん」


「バレーなら分析できるとに、これは全然分からん」


 美鈴が真剣に言うものだから、佳代は思わず笑いそうになった。


 でも、茶化さなかった。


「誰かを好きになるって、素敵なことよ」


 美鈴は顔を上げた。


「素敵?」


「そう。いつか美鈴も、誰かのお嫁さんになるかもしれん。誰かのお母さんになるかもしれん。ずっと先には、誰かのおばあちゃんになるかもしれん」


 佳代は静かに続けた。


「その扉が、少し開いたんやね」


 美鈴は黙って聞いていた。


「その気持ち、大切にしなさい。焦らんでよか。答えを急がんでよか。ただ、自分の心をごまかさんこと」


「……うん」


     *


 少し沈黙したあと、美鈴が尋ねた。


「お母さんは、お父さんのこと、どう好きになったと?」


 佳代は少し照れたように笑った。


「急に聞くねえ」


「参考資料が欲しい」


「恋を資料扱いせんの」


 美鈴が真顔でうなずく。


「でも、お願いします」


 佳代はふっと息を吐いた。


「お父さんとはね、ほんとに大恋愛やったよ」


「大恋愛」


「うん。最初は、背が高くて、バレーが上手くて、ちょっと近寄りにくい人やなって思っとった」


「お父さんが?」


「若い頃はね。今は家で味噌汁こぼしただけで大騒ぎするけど」


 美鈴は吹き出した。


 佳代も笑った。


「でも、話してみると優しかった。私が困っとった時に、何も言わずに手伝ってくれたことがあってね。その時、ああ、この人はちゃんと人を見てくれる人なんやなって思った」


「へえ……」


「嬉しかったこともいっぱいある。初めて一緒に帰った日。試合に勝ったあと、照れながら『見に来てくれてありがとう』って言ってくれた日」


 佳代の声が、少し若くなる。


「でも、いいことばっかりやなかったよ」


「喧嘩もしたと?」


「したした。ちょっとしたすれ違いでね。お父さんはバレーで忙しい。私は寂しい。でも素直に言えん。向こうも疲れとる。言葉が足りん。そういう小さなことが重なって、大喧嘩」


「お父さん、謝った?」


「最初は意地張っとった」


「うわ、お父さんらしい」


「でも最後は、ちゃんと謝ってくれた。『バレーばっかり見とったけど、佳代のこともちゃんと見らないかんかった』って」


 美鈴は少し黙った。


 知らなかった。


 父と母にも、そんな時代があったのだ。


     *


「告白は?」


 美鈴が聞くと、佳代は頬を少し赤くした。


「お父さんから」


「おお」


「試合帰り。夜の駅前でね。ものすごく緊張した顔で、『佳代さん、俺と付き合ってください』って」


「お父さんが緊張?」


「手、震えとったよ」


「日本代表候補の手が?」


「恋の前では、みんな初心者たい」


 その言葉に、美鈴は胸の奥をつかまれた気がした。


 恋の前では、みんな初心者。


 全国決勝でフォークサーブを打った自分も。


 舟富圭介の笑顔の前では、ただの初心者だった。


     *


 佳代は美鈴の手にそっと手を重ねた。


「美鈴」


「うん」


「好きになるって、勝ち負けやなかよ」


「……うん」


「相手を思うこと。自分の心を知ること。相手を大切にすること。そして、自分も大切にすること」


 美鈴は静かにうなずいた。


「バレーみたいに、すぐ答えは出らんかもしれん。でも、その気持ちは、美鈴をきっと優しくする」


「優しく……」


「そう。強いだけじゃなくて、人の気持ちがもっと分かるようになる」


 佳代は微笑んだ。


「それは、きっと美鈴のバレーにも、人生にも、いつか役に立つよ」


     *


 部屋に戻った美鈴は、ノートを開いた。


 バレーの反省欄の下に、こっそり書く。


『誰かを好きになること』

『勝ち負けではない』

『恋の前では、みんな初心者』

『お母さんとお父さんにも、喧嘩やすれ違いがあった』

『この気持ちを大切にする』


 最後に、少し迷ってから書いた。


『舟富先輩を見ると、心臓がフォークサーブになる。要観察』


 書いたあと、美鈴は一人で顔を赤くした。


 けれど、さっきより怖くなかった。


 この気持ちは、変なものではない。


 大切にしていいものなのだ。


 母の言葉が、胸の奥で静かに灯っていた。






 けれど――


 初恋というものは、いつも物語みたいにうまくいくわけではない。


     *


 ある日の昼休み。


 女子バレー部の一年生たちが、いつものように恋バナをしていた。


「舟富先輩、今日もマネージャーさんと一緒やったね」


「仲良すぎやろ、あの二人」


「付き合っとるって有名やん」


 その言葉を聞いた瞬間。


 美鈴の時間が、一瞬止まった。


「……え?」


 彩音が何気なく言う。


「黒崎、知らんかったと?」


「いや……」


 知らなかった。


 舟富圭介には、女子バスケ部のマネージャーと付き合っている人がいた。


 体育館で自然に話していた姿。


 試合後に並んで歩いていた姿。


 あれは、そういう関係だったのだ。


     *


 その日の練習。


 美鈴は普通に動いていた。


 レシーブも上がる。

 サーブも入る。

 スパイクも決まる。


 でも、どこか少しだけ、空気が違った。


 高城由奈が気づく。


「黒崎」


「はい」


「大丈夫?」


「何がですか?」


「……強がっとる顔」


 美鈴は少しだけ黙った。


 それから、小さく笑った。


「失恋って、ほんとに胸が変になるんですね」


 由奈は隣に座った。


「そうね」


「全国決勝より意味分からんです」


「そっちは分析できるからね」


「恋はデータ不足です」


 由奈は吹き出した。


 でも、そのあと優しく言った。


「初恋なんて、だいたいそんなもんよ」


     *


 夜。


 部屋でノートを開く。


 いつもの戦術ノート。


 でも、その日はバレーのことを書けなかった。


『舟富先輩には、好きな人がおった』

『失恋した』

『胸が少し痛い』

『でも、先輩が幸せそうなら、それでいいと思った』


 そこまで書いて、美鈴はペンを止めた。


 涙が出るほどではない。


 でも、静かに寂しかった。


「……終わったねえ、私の初恋」


 そう呟いて、自分で少し笑った。


 そして、その笑いの奥で、美鈴は少し大人になった。


     *


 佳代は、その夜の美鈴を見て、何も聞かなかった。


 ただ、夕食に美鈴の好きなハンバーグを少し大きめに作った。


 正一は何も知らず、


「今日のハンバーグ、全国大会優勝レベルやな!」


と騒いでいた。


 美鈴は笑いながら言った。


「お父さん、その例え何にでも使いよるやん」


 でも、その何気ない家族の空気に、美鈴は救われていた。


     *


 初恋は、儚く終わった。


 けれど、その経験は美鈴の中に静かに残った。


 誰かを好きになること。


 胸が苦しくなること。


 届かない気持ちがあること。


 それを知った美鈴は、以前より少しだけ、人の気持ちに敏感になっていった。


     *


 そして、時は流れる。


 2020年。


 黒崎美鈴は、一人の男性と出会う。


 小倉優馬。


 のちに、美鈴の人生を大きく変える人。


 笑いが好きで、少し不器用で、でも誰より優しい男。


 その出会いは、普通ではなかった。


 事故によって、美鈴は一度、生死の境をさまよう。


 意識を失ったまま、魂だけが“白金荘”という古いアパートに居座る幽霊のような状態になっていた。


 そこで優馬と出会う。


 最悪で、意味不明で、でも運命みたいな出会い。


 最初は、喧嘩ばかりだった。


「なんで幽霊がテレビ見よると!?」


「うるさい! そこ私の定位置!」


 そんなやり取りから始まった。


 けれど、優馬は、美鈴を“怖い存在”ではなく、一人の人間として見てくれた。


 泣いている時は隣にいてくれた。


 苦しい時は笑わせてくれた。


 そして美鈴も、そんな優馬に少しずつ惹かれていく。


     *


 舟富圭介への初恋は、淡く散った。


 でも、その経験があったからこそ、美鈴は“誰かを好きになること”を知っていた。


 そして、本当に人生を共に歩く相手と出会った時、その気持ちをちゃんと受け止めることができた。


     *


 2022年。


 黒崎美鈴は、双子の女の子の母になる。


 青柳光子。

 柳川優子。


 のちに、“笑いと音楽”で世界を照らしていく双子。


 美鈴は、その小さな命を抱きながら思う。


 あの時の初恋も。

 失恋も。

 涙も。

 全部、ここへ続いていたのかもしれない、と。


 人生は、すぐには答えが出ない。


 でも、遠回りした気持ちも、いつかどこかで、大切な未来へつながっていく。


 それを、美鈴は少しずつ知っていくのだった。




そして後年。


 優馬と出会い、白金荘であれだけ騒がしく笑い合い、辛いリハビリを乗り越え、ようやく結ばれた時。


 美鈴は、ふと舟富圭介への初恋を思い出す。


 あの時、人を好きになった。


 胸が跳ねて、戸惑って、どうしていいか分からなくなった。


 そして、儚く恋破れた。


 でも――


「あれも、いい経験やったんやね」


 美鈴はそう思えるようになっていた。


 初恋が実らなかったから、恋を諦めたわけではない。


 届かなかった気持ちがあったからこそ、誰かを想う切なさを知った。


 そして優馬が、どれほど自分を大切にしてくれているのかも、ちゃんと分かるようになった。


 優馬の手を握りながら、美鈴は小さく笑う。


「私も、いろいろ遠回りしたね」


 優馬が首をかしげる。


「何の話?」


「秘密」


「また秘密かい」


「うん。でも、今はこれでよか」


 初恋。

 失恋。

 事故。

 リハビリ。

 白金荘。

 優馬との出会い。


 全部が、美鈴をここまで連れてきた。


 そして今、美鈴はようやく思う。


 人を好きになることは、怖いだけじゃない。


 傷つくこともある。


 でも、その経験は、いつか本当に大切な人と出会った時、心をやさしくしてくれる。


 舟富先輩への初恋は、儚く散った。


 けれど、それは決して無駄ではなかった。


 優馬と結ばれた美鈴は、そのことを静かに噛みしめていた。

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