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笑う母の物語  作者: リンダ


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夏前の試練

第37話


夏前の試練


 夏の大会が近づいていた。


 宗像高校女子バレー部の体育館には、いつも以上の緊張感が漂っていた。


 ベンチ入りできる人数は限られている。

 レギュラーに入れるのは、さらに一握り。


 主力候補として評価を上げ始めた美鈴も、安心できる立場ではなかった。


     *


 紅白戦。


 美鈴にトスが上がる。


 相手ブロックは二枚。


 美鈴はブロックアウトを狙った。


 だが、手首がわずかに早い。


 ボールは外へ大きく流れた。


「アウト!」


「すみません!」


 次のプレー。


 サーブレシーブ。


 いつもなら落ち着いて処理できるボールだった。


 しかし、腕の面がずれた。


 ボールが横へ流れる。


「黒崎、集中!」


「はい!」


 また次。


 助走の一歩目が遅れる。


 打点が下がる。


 ブロックに捕まる。


「くっ……」


 小さなミスが続いた。


     *


 練習後。


 美鈴は体育館の隅でノートを開いていた。


『手首が早い』

『レシーブ面がずれる』

『助走が遅い』

『集中が切れている?』


 書けば書くほど、焦りが増えていく。


(何しよると、私)


 そこへ、高城由奈が近づいた。


「黒崎」


「はい」


「焦っとるな」


 その言葉は短かった。


 でも、美鈴の胸に刺さった。


「……はい」


「レギュラー候補になってから、結果を出そうとしすぎとる」


 美鈴は黙っていた。


 図星だった。


「一本一本を“決めないかん”と思いすぎ。だから、体より先に頭が前へ行っとる」


「頭が……」


「そう。考えるのは悪くない。でも、焦りながら考えたら、判断じゃなくて迷いになる」


 美鈴はノートを握りしめた。


「でも、ここで結果出さんと……」


「出さんと?」


「ベンチ入りも、レギュラーも……」


 由奈は静かに言った。


「その気持ちは分かる。でも、焦って崩れる選手は、勝負どころでは使えん」


 厳しい言葉だった。


 でも、必要な言葉だった。


     *


 その日の帰り道。


 一年生たちは、いつものように美鈴を囲んで歩いていた。


 だが、美鈴はいつもより口数が少なかった。


 ひかりが心配そうに聞く。


「美鈴ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫」


 沙耶が言う。


「今日、ギャグ少なかったです」


「ギャグ数で体調見るんやめて」


 小雪が穏やかに言った。


「でも、ほんとに疲れとるように見える」


 美鈴は少し笑った。


「疲れとるね。足が労基に相談するどころか、もう弁護士立てそう」


 みんなが笑う。


 でも、その笑いは少しだけ弱かった。


 ひかりが言った。


「美鈴ちゃん、たまには休んでもよかよ」


 美鈴は前を向いた。


「休んだら、置いていかれそうで怖か」


 その本音に、みんな黙った。


     *


 夜。


 黒崎家。


 美鈴は父・正一に練習の話をした。


「焦っとるって言われた」


 正一はうなずいた。


「実際、焦っとるやろ」


「うん」


「なんで?」


「レギュラー候補になったけん。ここで落ちたくなか」


「落ちたくないから、前に進みたい。でも、前に進みすぎて足元見えんくなっとる」


 美鈴は黙った。


 正一は続けた。


「いい選手は、急ぐ時ほど基本に戻る」


「基本……」


「足。目線。呼吸。声」


「呼吸?」


「焦ると呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなると、判断も浅くなる」


 佳代が台所から言った。


「ご飯もちゃんと食べんとね」


 美鈴は苦笑した。


「そこも基本?」


「もちろん。食べん選手は動けん」


 正一が笑う。


「お母さんの言うことが一番正しい」


     *


 翌日。


 美鈴は練習前に、体育館の隅で深呼吸した。


 足元を見る。

 床を感じる。

 息を吸う。

 息を吐く。


(急がん)


(一本ずつ)


 紅白戦。


 トスが上がる。


 昨日なら、焦って決めにいった場面。


 だが今日は違った。


 美鈴は相手ブロックを見る。


 無理に打たない。


 つなぐ。


「ナイス判断!」


 長谷川真帆の声。


 次のラリー。


 再び美鈴へ。


 今度はブロックが遅れている。


 打つ。


 ライン際へ決まる。


「ナイス!」


 美鈴は小さく息を吐いた。


 決めようとしすぎない。

 でも、決めるべき時は決める。


 その感覚が、少し戻ってきた。


     *


 練習後。


 由奈が美鈴に声をかけた。


「今日は少し戻ったね」


「はい」


「何を変えた?」


「呼吸と、足元です」


 由奈はうなずいた。


「それでいい。焦ったら、派手なことを変えたくなる。でも本当に大事なのは、小さい基本たい」


「はい」


「黒崎、あんたは考えられる選手やけど、考えすぎたら自分で自分を縛る」


 美鈴は笑った。


「頭の中で自分をぐるぐる巻きにしとった感じですね」


「そう」


「黒崎巻き……」


「何それ」


「新しい料理名です」


 由奈はため息をついた。


「戻ってきたね」


     *


 夏前の選抜は、まだ続く。


 美鈴の立場はまだ確定していない。


 だが、この試練で美鈴はまた一つ学んだ。


 焦りは、前へ進む気持ちから生まれる。


 けれど、焦りのまま動けば、自分を見失う。


 急ぐ時ほど、基本へ戻る。


 呼吸。

 足。

 目線。

 声。


 そして、笑い。


 美鈴はノートに書いた。


『焦りは敵。でも、焦るほど本気という証拠』

『本気を焦りにせず、集中に変える』

『急ぐ時ほど基本』

『黒崎巻きは禁止』


 最後の一行を見て、自分で少し笑った。


     *


 黒崎美鈴、高校一年。


 夏前の試練は、彼女を苦しめた。


 だが、焦りを越えた先に、また少しだけ高校のコートが近づいた。


 レギュラー争いは、まだ終わらない。


 けれど美鈴は、もう一度自分の足で立ち直り始めていた。



次回予告


第38話「夏のメンバー発表」


 夏の大会メンバー発表の日が来る。


 ベンチ入りを勝ち取れるのか。

 それとも、再び外から見ることになるのか。


 緊張の中、美鈴の名前が呼ばれる。


 だが、同じ一年生の中には、涙をのむ者もいた。


「選ばれた人間には、選ばれんかった人の分も背負う責任がある」


 高城由奈の言葉が、美鈴の胸に響く。


 次回、第38話「夏のメンバー発表」。

 美鈴は、初めて“選ばれる重さ”を知る。

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