小さなキャプテン気質
第11話
小さなキャプテン気質
初めての悔し涙を流してから、美鈴は少し変わった。
明るさはそのままだった。
休み時間になれば、相変わらずギャグを飛ばす。
「今日の給食、カレーやけん、午後から教室がインドになるばい!」
「ならんよ!」
「でも、においはちょっとなるやろ?」
教室に笑いが広がる。
けれど、美鈴の目は以前よりも少しだけ周りを見るようになっていた。
泣いている子。
怒っている子。
自信をなくしている子。
ただ変顔をして笑わせるだけでは足りない時がある。
何も言わずに隣に座る方がいい時もある。
ちゃんと理由を聞いた方がいい時もある。
美鈴は、少しずつそれを覚え始めていた。
*
ある日の音楽の時間。
先生が黒板の前に立って言った。
「今年の学芸会で、1年1組は合唱をします」
教室がざわっとした。
「歌うと?」
「何の歌?」
「踊りもあると?」
先生は笑った。
「今回は、みんなで歌うことを大事にします。歌う曲は、みんなの意見を聞いて決めましょう」
その言葉に、教室が一気に盛り上がった。
「アニメの歌がよか!」
「知っとる歌がいい!」
「元気なやつ!」
「きれいなやつ!」
いくつもの候補が出た。
そして最終的に残ったのが、二曲だった。
『となりのトトロ』。
『君をのせて』。
明るく、楽しく、誰もが笑顔になれる歌。
そして、空や未来を思わせる、少し大人びた歌。
先生は黒板に二つの曲名を書いた。
「この二曲を歌いましょう」
1年1組から歓声が上がった。
*
美鈴は、ピアノも弾けた。
家で佳代に教わりながら、少しずつ練習していたのだ。
まだ難しい曲を完璧に弾けるわけではない。
けれど、音を聞き、リズムを取り、みんなの歌に合わせる力はあった。
音楽の先生が尋ねた。
「黒崎さん、伴奏を少しやってみる?」
教室の視線が、美鈴に集まる。
美鈴は一瞬、目を丸くした。
「みーすずが?」
「うん。無理にとは言わないけど」
美鈴は少し考えた。
前なら、目立てることが嬉しくてすぐに飛びついたかもしれない。
でも今は違った。
自分が弾くということは、みんなが歌いやすくなるように支えるということだった。
美鈴は背筋を伸ばした。
「やってみます」
*
練習が始まった。
最初の『となりのトトロ』は、みんなもよく知っていた。
明るいメロディーに合わせて、子どもたちの声が広がる。
けれど、最初からうまくいくわけではなかった。
速く歌いすぎる子。
声が小さくなる子。
歌詞を忘れて口だけ動かす子。
隣の子につられて笑ってしまう子。
美鈴はピアノの前で、それを聞いていた。
弾きながら、みんなの声を聞く。
速すぎる時は、少しだけテンポを落とす。
声が弱くなった時は、少し強く音を出す。
入りがずれそうな時は、はっきり合図になるように弾く。
先生が感心したように言った。
「黒崎さん、みんなの歌をよく聞いているね」
美鈴は少し照れた。
「みんなが歌いやすいほうがよかけん」
*
問題は『君をのせて』だった。
1年生には少し難しい。
ゆっくりした曲だからこそ、声がばらばらになる。
言葉の意味も少し大人びていて、気持ちを込めるのが難しい。
ある日の練習で、ひとりの女の子が泣きそうになった。
「わたし、うまく歌えん……」
別の男の子も言った。
「この歌、むずかしか」
教室の空気が沈みかける。
美鈴はピアノの椅子から降りて、その子たちの前に立った。
「むずかしかよね」
みんなが美鈴を見る。
「でも、むずかしかけん、できたらすごかと思う」
女の子が顔を上げた。
「できるかな」
美鈴は少し笑った。
「一人で歌ったら難しか。でも、みんなで歌うっちゃけん、一人で全部がんばらんでよか」
「みんなで?」
「そう。誰かの声が小さかったら、隣の子がちょっと支える。入るところが分からんかったら、みーすずがピアノで合図する」
そして、明るく言った。
「みんなでやったら、もう一回できるたい」
その言葉に、教室の空気が少しだけ戻った。
先生は何も言わず、その様子を見守っていた。
*
それから1年1組は、毎日少しずつ練習した。
朝の時間。
音楽の時間。
学芸会前の特別練習。
美鈴はピアノの前に座り、みんなの声を聞き続けた。
「そこ、ちょっと早かよ」
「ここは、もっとやさしく歌ったらきれいかも」
「今の、めっちゃよかった!鳥肌たった!まだ鳥じゃないけど!」
「鳥じゃないなら何なん?」
「たぶん、ちょっと寒かっただけ!」
笑いながら、でも確実に練習は進んでいく。
美鈴はみんなを引っ張るだけではなかった。
みんなを支えた。
前に出る時もあれば、後ろに回る時もある。
声をかける時もあれば、黙ってピアノで支える時もある。
それは、まだ正式なキャプテンではない。
けれど、たしかに人をまとめる力だった。
*
学芸会当日。
体育館には、保護者たちが集まっていた。
正一と佳代も客席にいた。
誠一は佳代の膝の上で、少し退屈そうに足をぶらぶらさせている。
「お姉ちゃん、まだ?」
「もうすぐよ」
正一は落ち着かない様子でプログラムを見ていた。
「佳代……美鈴、ピアノ弾くんよな」
「うん」
「大丈夫かな」
「正一さんの方が大丈夫じゃなさそう」
「いや、俺は大丈夫」
「手、震えとるよ」
正一は自分の手を見た。
「これは準備運動たい」
「何の?」
「感動の」
佳代は小さく笑った。
*
1年1組がステージに上がった。
美鈴はピアノの前に座る。
客席を見ると、正一と佳代の姿があった。
正一はすでに目が潤んでいる。
美鈴は少し笑いそうになった。
でも、すぐに前を向いた。
今は、みんなの歌を支える時間だった。
最初の一音。
ピアノの音が体育館に響く。
『となりのトトロ』。
明るい声が広がった。
1年1組の子どもたちは、楽しそうに歌った。
少し緊張している子もいたが、隣の子の声を聞きながら、少しずつ笑顔になっていく。
美鈴はピアノを弾きながら、みんなの声を聞いていた。
次に、『君をのせて』。
体育館の空気が少し変わった。
静かで、やさしい前奏。
子どもたちの声が重なる。
最初は少し小さかった。
でも、美鈴がピアノでそっと支えると、声が前に出た。
誰か一人の声ではない。
1年1組全員の声だった。
美鈴は弾きながら思った。
(一人じゃなか)
みんなで歌っている。
みんなで進んでいる。
最後の音が、体育館に静かに残った。
一瞬の間。
そして、大きな拍手。
美鈴はピアノの前で、深くお辞儀をした。
*
結果発表。
1年生の部、最優秀賞。
「1年1組!」
呼ばれた瞬間、クラス全員が跳び上がった。
「やったー!」
「最優秀賞ばい!」
「すごか!」
美鈴も目を輝かせていた。
でも、すぐにみんなの方を向いた。
「みんなで取ったとよ!」
その言葉に、クラスメイトたちは一斉にうなずいた。
誰か一人がすごかったのではない。
みんなで練習した。
みんなで支えた。
みんなで歌った。
だから、この賞はみんなのものだった。
*
帰り道。
正一は美鈴の頭を何度も撫でた。
「美鈴、すごかったぞ」
「ほんと?」
「ほんと。ピアノもよかったし、みんなの歌もよかった」
佳代も言った。
「美鈴、ずっとみんなの声を聞いて弾いてたね」
美鈴は少し照れた。
「みんなが歌いやすいようにしたかったと」
正一は静かにうなずいた。
「それが、支えるってことたい」
「支える……」
「目立つだけがすごいんやない。みんなが力を出せるようにする人も、すごい」
美鈴は、学芸会のステージを思い出した。
みんなの声。
ピアノの音。
拍手。
最優秀賞。
「みんなでやったら、うれしかね」
「そうたい」
正一は笑った。
「バレーも同じや」
美鈴は顔を上げた。
「ボールも、歌も、つなぐと?」
「うん。つなぐ」
美鈴は大きくうなずいた。
*
その夜。
美鈴は布団の中で、学芸会のことを思い出していた。
最初は不安だった。
失敗しそうで怖かった。
でも、みんなで練習して、みんなで支えて、最後までやり遂げた。
その達成感は、これまで感じたことのないものだった。
「みんなでやったら、できるたい」
小さくつぶやく。
黒崎美鈴、6歳。
まだキャプテンではない。
まだチームを率いた経験もない。
けれど、彼女の中に確かに芽生えていた。
人を見る力。
声を聞く力。
空気を整える力。
そして、みんなでひとつのことをやり遂げる喜びを知る力。
それはやがて、バレーのコートで。
幼稚園の教室で。
家庭の中で。
そして博多ドンタクスの監督として。
多くの人を支える力になっていく。
小さなキャプテン気質。
その始まりは、1年1組の合唱と、ピアノの前に座った美鈴の背中にあった。
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次回予告
第12話「卒業の日、次のコートへ」
1年生としての一年が終わり、少しずつ上級生への道を歩き始める美鈴。
友達と笑い合い、失敗して、泣いて、また立ち上がった日々。
その中で、美鈴は自分の中にある小さな夢を、はっきりと意識し始める。
「みーすず、いつか本気でバレーしたか」
父の背中、体育館の光、仲間とつないだボール。
次の学年へ進む春。
美鈴の心は、少しずつ“本当のコート”へ向かっていく。




