白金荘、幽霊と新社会人
第91話「白金荘、幽霊と新社会人」
春だった。
白金荘の二〇一号室には、もう“生活の音”が存在していなかった。
カーテンは閉じられ、
冷蔵庫は空、
キッチンには何もない。
そこにいるのは――
黒崎美鈴。
ただし、“魂だけ”の存在として。
「……帰ってこんねぇ」
ぽつりと呟く。
誰も答えない。
当然だった。
今の美鈴は、誰にも見えない。
事故の日から一年近く。
病院のベッドでは昏睡状態が続き、
魂だけが、この白金荘に取り残されていた。
最初は混乱した。
玄関のドアノブを掴めない。
なのに、壁はすり抜ける。
鏡にも映らない。
街を歩いても、
誰も振り向かない。
自分がこの世界から少しだけ外れてしまったことを、
嫌というほど思い知らされた。
それでも、美鈴は毎日ここにいた。
理由は分からない。
ただ――帰る場所が、ここしかなかった。
◇
その日。
白金荘の前に、一台の軽ワゴンが止まった。
「ここかぁ……」
車から降りてきたのは、
二十二歳の青年。
小倉優馬。
久留米から博多へ出てきたばかりの、
駆け出しのIT企業社員だった。
スーツはまだ新品感が抜けず、
ネクタイも少し曲がっている。
仕事はプログラマー見習い。
残業は多い。
給料は少ない。
恋人いない歴=年齢。
人生に派手さはない。
だが、
博多勤務になったことで、
会社に近いこの白金荘へ引っ越してきたのだった。
「二〇一……ここね」
鍵を開ける。
ガチャ。
部屋に入った瞬間、
優馬は妙な違和感を覚えた。
「……なんか寒くね?」
四月なのに、
妙に空気が冷たい。
だが、気のせいだと思った。
「疲れとるだけか……」
段ボールを運び込む。
パソコン。
衣類。
インスタント麺。
エナジードリンク。
IT系独身男性らしい荷物ばかりだった。
一方。
その様子を、
部屋の隅でじっと見ている存在がいた。
美鈴だった。
「……新しい人」
小さく呟く。
この一年、
何人か内見には来た。
だが、誰も契約しなかった。
だから、美鈴は少し驚いていた。
「ほんとに住むんや」
優馬は荷物を置き、
床に座り込む。
「はぁ〜……疲れた」
そしてコンビニ袋からビールを一本取り出した。
「博多生活、スタートってことで……」
プシュッ。
一口飲む。
「……さみし」
その瞬間だった。
ふわり。
優馬の背後に、
美鈴が立った。
「それ、第三のビールやろ?」
「ぎゃああああああああああああああ!!!!!」
優馬の絶叫が、
白金荘全体を揺らした。
「で、で、で、出たぁぁぁぁぁ!!!」
「うるさいうるさい!」
「なんで!?!?!?!?」
「なんでって、うちここ住んどるけん」
「いやいやいやいや!!
住んどるって何!?
透けとるやん!!
半透明やん!!」
「失礼やね!」
「幽霊やん!!」
「まぁ、そこは否定できん」
優馬は壁際まで後退する。
「え、待って、
俺なんかした!?
事故物件!?!?」
「事故はあったね」
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
美鈴はため息をついた。
「落ち着きんしゃい」
「落ち着けるか!!」
「大丈夫たい。
呪ったりせんけん」
「その“けん”が怖いんよ!!」
◇
三十分後。
ようやく優馬は、
少しだけ落ち着いていた。
「……ほんとに幽霊?」
「ほんとに幽霊」
「……マジかぁ」
優馬は頭を抱える。
だが不思議と、
恐怖は少しずつ薄れていた。
目の前の幽霊が、
あまりにも“普通”だったからだ。
「名前は?」
優馬が恐る恐る聞く。
「黒崎美鈴」
「黒崎さん……」
「“さん”いらん」
「え?」
「距離ある感じするけん」
優馬は少し戸惑いながら言った。
「……美鈴?」
「うん、それでよか」
その瞬間だった。
優馬の脳裏に、
地下鉄で出会った女性の記憶がよみがえる。
ハンカチを拾ってくれた、
あの綺麗な女性。
「あ……」
「ん?」
「いや……なんでもない」
優馬はまだ気づいていなかった。
目の前にいる幽霊こそ、
あの日、
一目惚れした相手だったことに。
◇
夜。
優馬はようやく段ボール整理を始める。
「ふぅ……
まぁ、幽霊おる以外は普通か……」
「何その評価」
「いや普通じゃないけど」
その時だった。
優馬のバッグから、
一枚の社員証が落ちる。
美鈴が覗き込む。
「へぇ、IT企業なんや」
「まぁね。
まだ新人やけど」
「何作りよると?」
「企業向けシステムとか。
バグ修正ばっかやけど」
「ばぐ?」
「プログラムのミス」
「へぇ〜」
美鈴は興味深そうに聞いていた。
「なんか意外」
「何が?」
「もっとチャラチャラしとる人かと思った」
「偏見強くない!?」
「だって恋人いなさそうやし」
「ぐはっ」
優馬にクリティカルヒットした。
「……ちなみに」
「ん?」
「恋人いない歴=年齢たい」
「言わんでよか!!」
美鈴が吹き出す。
その笑い声を聞いた瞬間。
優馬は、少しだけ思った。
(……あれ)
(なんか)
(可愛いな、この人)
幽霊なのに。
いや、
幽霊だからこそなのか。
その笑顔は、
どこか儚かった。
◇
深夜。
優馬は布団を敷きながら、
恐る恐る聞く。
「……美鈴ってさ」
「ん?」
「ずっとここおるん?」
「おるよ」
「成仏とかせんの?」
美鈴は少し黙った。
「……まだ、帰れんけん」
「帰る?」
「お父さんとお母さんに、
プレゼント渡せてない」
優馬は何も言えなかった。
事故のことを、
まだ詳しくは知らない。
でも。
この人が、
ずっと“やり残した何か”に縛られていることだけは分かった。
静かな沈黙。
その空気を破ったのは、
美鈴だった。
「……で」
「ん?」
「優馬」
「はい」
「そのバッグの奥に隠しとるDVD、何?」
優馬、凍る。
「え」
「なんで女性アイドルのDVD隠しとると?」
「ちがっ!!
これはその!!
文化的資料!!」
「へぇ〜?」
「待って!!
開けんで!!」
次の瞬間。
「ぎゃあああああああ!!!」
白金荘に、
再び絶叫が響き渡った。
こうして。
幽霊・黒崎美鈴と、
駆け出しITサラリーマン・小倉優馬の、
奇妙すぎる同居生活が始まった。
◇
次回予告
第92話「幽霊と社会人一年目」
白金荘で始まった奇妙な共同生活。
だが優馬はすぐに現実へ直面する。
「……洗濯物、誰が畳むん?」
「知らん」
「飯は?」
「知らん」
「幽霊、生活能力ゼロやん!!」
一方、美鈴の病室では、
再び“ある変化”が起き始めていた。
そして優馬は、
地下鉄で出会った“ハンカチの女性”と、
美鈴の面影が重なり始める――。
次回、
第92話「幽霊と社会人一年目」。
白金荘の騒がしい夜は、まだ始まったばかり。




