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笑う母の物語  作者: リンダ


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魂だけの帰宅

第91話「魂だけの帰宅」


 事故から三日。


 黒崎美鈴は、まだICUで眠り続けていた。


 病室には、規則正しい電子音だけが響いている。


 心電図。


 人工呼吸器。


 点滴。


 ベッドの上の美鈴は、まるで深く眠っているだけのようにも見えた。


 だが――


 その頃。


 美鈴本人は、自分の身体の外にいた。


     ◆


 白金荘二〇一号室。


 夕暮れ。


 アパートの廊下に、美鈴は立っていた。


「……帰ってきた」


 ぼんやりと呟く。


 事故の記憶は、まだ曖昧だった。


 猛烈なエンジン音。


 誠一の叫び声。


 身体が宙へ浮いた感覚。


 そこから先が、途切れている。


 美鈴はドアノブへ手を伸ばした。


 だが。


 触れられない。


「え?」


 何度握ろうとしても、指がすり抜ける。


「なにこれ……」


 困惑する。


 その時だった。


 ふわり、と身体が前へ進む。


 閉まっていたドアを、そのまますり抜けた。


「……は?」


 部屋の中。


 見慣れた景色。


 テーブル。


 ソファ。


 保育実習のノート。


 洗いかけの食器。


 冷蔵庫の中には、作り置きのサラダ。


 全部、いつものままだった。


 なのに。


 自分だけが違う。


 美鈴は、自分の手を見る。


 少し透けていた。


「……あぁ」


 そこでようやく理解する。


「私……幽霊になっとるんや」


 その言葉を口にした瞬間。


 急激に怖くなった。


「うそやろ……」


 壁へ寄りかかる。


 だが。


 身体は壁をすり抜ける。


「うわっ!?」


 そのまま半分壁へ埋まり、美鈴は悲鳴を上げた。


「ちょ、ちょっと待って!?」


 完全にパニックだった。


「なにこれ!? 怖っ!!」


     ◆


 翌朝。


 美鈴は外へ出た。


 通勤する人たち。


 地下鉄へ向かう学生。


 会社員。


 誰も、自分を見ていない。


「おはようございますー」


 返事なし。


「……あれ?」


 別の人へ声をかける。


「すいませーん」


 完全に無反応。


 美鈴は、ゆっくり理解する。


「……見えてない」


 誰にも。


 自分は見えていない。


 その現実が、じわじわ胸へ刺さっていく。


 そして。


 駅前ビジョンのニュースが流れた。


『交通事故で重体となっている――』


 映し出されたのは、自分だった。


 春高優勝。


 笑顔。


 トロフィー。


 園児と遊ぶ姿。


『現在も昏睡状態が続いています』


 美鈴は立ち尽くす。


「……昏睡?」


 じゃあ今の自分は。


 生きているのか。


 死んでいるのか。


 分からなかった。


     ◆


 一方。


 博多南総合病院。


 黒崎家は、交代で付き添いを続けていた。


 佳代は毎日、美鈴の手を握る。


「帰ってきて……」


 正一は疲弊していた。


 本来なら宗像中で指導する時間。


 だが今は、娘のそばを離れられなかった。


 誠一も、自分を責め続けていた。


「俺がもっと早く気づいてれば……」


「誠一のせいやなか」


 正一はそう言う。


 だが。


 正一自身も、心が壊れそうだった。


     ◆


 そして。


 美鈴の魂は、病院へ戻っていた。


 ICU。


 眠る自分の身体を見る。


「……これ私?」


 包帯だらけ。


 管。


 固定具。


 右側頭部。


 右肩。


 右腕。


 右脚。


 痛々しい姿だった。


「うわぁ……」


 思わず顔をしかめる。


「そりゃ重傷言われるわ……」


 だが。


 不思議と痛みは感じない。


 その代わり。


 胸が苦しかった。


 家族が泣いている。


 後輩が泣いている。


 みんなが苦しんでいる。


 それなのに、自分は何も出来ない。


「……帰りたい」


 美鈴は呟く。


「帰らないかん」


 まだ。


 やり残したことが山ほどある。


 幼稚園。


 園児たち。


 フェニックス。


 後輩たち。


 そして。


 両親へのプレゼント。


「まだ渡してないっちゃけど……」


 涙がこぼれた。


     ◆


 その頃。


 宗像高校女子バレー部。


 藤崎香織監督は、部員たちへ話していた。


「今、私たちに出来ることは何か」


 静かな体育館。


「黒崎の思いを受け継ぐこと」


 涙を堪えながら続ける。


「黒崎の思いに恥じないプレーをすること」


 部員たちは顔を上げた。


「そうや」


「一番辛いの、黒崎先輩や」


「私たちがへこたれてどうする!」


 拳を握る。


「絶対インターハイ優勝する!!」


「黒崎先輩に報告行く!!」


「おおおおっ!!」


 体育館へ、再び声が戻る。


     ◆


 病院の窓際。


 美鈴の魂は、その光景を見ていた。


 涙を流しながら。


「みんな……」


 そして。


 眠る自分自身へ視線を向ける。


「……まだ終われんよ」


 黒崎美鈴の、“魂だけの日々”が始まっていた。

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