エルちゃん
フレアさんに案内されたリビングルームは、どこか懐かしい古き良き温もりと、新しく持ち込まれた生活の気配が絶妙に溶け合っていた。
ミリアちゃんとフィオナさんが席を外した時、私が持ち込んだ荷物はすでに彼女たちに預けていたので、リビングに残ることにした。
天井の精巧な石細工や重厚なアンティークの梁はそのままに、壁際には最新の魔導冷蔵庫が静かな低音を響かせている。ここの物を含め何個か冷蔵庫が設置されているのだろう。
せっせとフレアさんが飲み物の入ったガラスコップ運んできてくれる。その見覚えのある形に一瞬頬が強張る。きっと今日のために“同じもの”を買ってくれていたんだろう。
「オレンジジュースでよかった?」
「ええ。
………お気遣いありがとうございます
フレアさん」
「ふふ。いいよ」
唇をつけて一口飲むと、ただのオレンジジュースが身に染みる。
リビングには穏やかで奇妙なクラシックの旋律が流れ続けていた。場を和ませるためにこっそりレイドさんに頼んでかけてもらったものだった。
遺構と成り果てても、その古きレコードは何かの使命を背負ったように過去の物語を小さく語っている。
――だが、その平穏はほんの数秒で打ち砕かれた。
ソファに腰を下ろした私を待ち構えていたのは、レイドさんからの早速の洗礼だった。
「ねーシオン。そのベルト座ったらキツくない?
少し緩めれば?
それとも、緩めてあげようか?」
悪戯っぽく目を細め、下から覗き込んでくるその顔にはあざとさしかなかった。心臓が跳ね喉元が震えるのを必死に抑える。口だけだ、手は出されていない。
「冗談はやめてください」
「ねーシオン。魔物狩りでもする?それとも《遺跡》探索でもしようか?どっちがいいかな」
「……珍しく乗り気ですね、レイドさん」
死地を選ばされているのだろうか?
レイドさんは悪意のある糸目の笑みを深めた。
その反対側からは、フレアさんがレイドさんを牽制するかのように、私の太ももを強引に押さえてきた。臀部にフレアさんのお尻がぶつかり、二の腕には豊満な胸の柔らかさがむぎゅっと押し付けられる。
「いやいや、シオンちゃんは懐かしの我が家でゆっくり過ごしたいよね〜???」
ね?と、息がかかるほどの至近距離で美しい瞳を向けられる。私は無害を示すため両掌を向けて慌てて降参した。
二人に挟み撃ちにされた私は、「ご、ごめんなさい、ほ、他の子とも挨拶したいのでっ……!」と赤面しながらその場を逃げ出した。やきもちを焼くフレアさんがレイドさんに詰め寄る隙を突いて、私はそっとその場をうまく離れたのだった。
「おっと。邪魔してわるかったね」
「ちょっと。レイドくん?
テンション高いねー?お酒でも飲んだ??」
「いやいや。フレアに酔ってただけだよ」
「へ」
◇◆◇
私が少しでも手を伸ばせば彼女の髪や瞳にも触れられると、信じて疑わずにいられただろうか?
もしも彼女が三日月の端っこにちょこんと座っている妖精だったとしても、私はきっと信じた。
それぐらい貴方は美しい方だった。
リビングの隅、外の薄明かりが差し込み、風に掠れる枝葉の音が聞こえる窓辺で、彼女は銀の髪を肩から胸元に垂らすようにして上品に腰を下ろしていた。
白く細い指先で古いページの端を丁寧にめくり、その知的な瞳を文字の海へと深く没頭させている。
私はこの子を知っている。
「…………」
この子は、きっとエル・◆◆◆・◆◆◆◆◆◆だ。
どこか遠くの森の守護者かも知れなかった。
どこか天然めいた雰囲気を纏いながらも、儚げで愛らしい空気を漂わせ、透き通った髪は滝のように煌めいていた。
「…。はじめまして、私はシオンと申します」
少しテンションを高め、フレンドリーに声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げ、潤んだ目を合わせた。
「は、はじめまして……!
私はエルと申します……!」
容姿と異なる素直で心地よい幼なげな反応。
健気に応えてくれるその姿に、このエルフの少女とはきっと良い友だちになれる─そんな予感がした。
目を引くのは、長くピンと尖った美しい耳と、スレンダーな背中を流れ落ちる滝のような白銀の艶髪。
エルちゃんは大切そうに抱えていた本から、名残惜しそうに視線を外した。表紙には『血の滲んだペンダント』という、何とも不穏で刺激的なタイトルが刻まれている。
もしかして、こういうダークで猟奇的な物語が好みなタイプなのだろうか。
「あの……エルさんは、こういう読書が趣味なんですか?」
私は少しだけ首を傾げ、自分の艶やかな髪を耳にかけながら、相手の警戒心をそっと解くような色気のある仕草で尋ねた。
「わ、私、読書は………っ//// その、本当は苦手なんです……っ//// でも、この本だけは───特別なんです……!」
「……そうなんですか。誰かの贈り物とか、思い出の品ですか?」
「はいっ! 世界でいちばん大切な、私だけの宝物です!」
なんだろう。胸の奥がざわめく。誰かからのプレゼントなのだろうか。
「今度、私にも少しだけ見せてくださいね!」
明るい声音でそうねだると、エルちゃんは「そ、それは………だめですっ!////」と耳まで真っ赤に染め上げ、股の間にその古本を慌てて挟み込むと、両の掌で必死に表紙を覆い隠して防御した。
何度か興味本位で可愛くプライドを捨てた“おねだり”を重ねてみたものの、すべて頑なに拒絶されてしまう。ここまで徹底して隠されると、かえって好奇心が煽られてたまらない。
「そんなに隠されると、余計に見たくなくなっちゃいますよ?」
わずかに肩を落としてみせると、エルちゃんは慌てて首を横に振る。
「これだけは……私だけの秘密なんです。誰にも、見せたくありませんっ!」
キッパリと拒絶されて内心少しだけ傷ついたが、彼女という存在そのものへの探求心がそれを上書きする。私は姿勢を正し、少しトーンを変えて話題を切り出した。
「私は錬金術師です。今後の私の研究に大いに役立つ可能性があるので……よければ、その綺麗なお耳、少しだけ触らせてくれませんか?」
「だ、ダメですっ!!」
今度は即座に両手で耳をピシャリと押さえるエルちゃん。その無垢で素直すぎる反応が、なんだか無性に愛おしくて楽しくなってくる。
「そこまで言うなら、お礼にこの小瓶を差し上げます。エルさんとお近づきの印ですよ」
「なんですか? この綺麗な小瓶は……」
「世界最高峰の素材を調合して私が作った特製香水です。これを使えば、朝も夜も、どんなに疲れた日だって幸せな気分で眠れますよ」
「私のために作ってくれたんですか……?//// じゃあ………す、少しだけなら、いいですよ……っ」
やっぱり根っからのお人よしな天然っ子だったか。交渉に応じた彼女の頭の上で、ぴこぴこと警戒するように動く人外の尖った耳がたまらなく愛らしい。
「失礼しますね。……本当に、触ってもいいですか?
「あ、あまり人に触られるのは、その………っ、ちょっとだけですからね……?」
恐る恐る伸ばした指先が、彼女の柔らかい耳たぶに触れる。
絹糸のように滑らかな耳先や軟骨のラインをゆっくり、ゆっくりとなぞっていくと、エルちゃんは耐えきれないといった様子で小さく身を震わせ、みるみるうちに耳の根元まで真っ赤に染め上げていった。
「も、もう無理です……ダメですシオンさんっ////」
耳を執拗に揉みほぐされてすっかり骨抜きにされ、両手で自分の耳を隠したままヘニャヘニャと脱力し始めたエルちゃんを残し、私はリビングの別の場所へと視線を移した。
そこには、恥ずかしげにこちらを盗み見る狐の獣人がいた。




