ミリアの告白
ミリアの装い。それを一言で表すなら、それは陽だまりを全身にまとったかのような、鮮烈な躍動感そのものだった。
本人にこれといった気負いや意図はないのだろうが、彼女がそこに佇むだけで、澱んだ空間の空気がパッと明るく華やぎだす──そんな抗いがたい欲を、フィオナは密かに感じていた。ここがもし、権謀術数がうずまく王都ではなく、もっと自由な世界の片隅だったなら。
目を引くのは、眩いほどの鮮やかな赤を基調とした肩出しのニット。柔らかく胸上のラインを優美に包み込むフリルと、腕のサイドにしなやかに結ばれたリボンが、ただのカジュアルな装いでは終わらせない彼女らしい思わず抱きしめたくなるような愛らしさを主張している。
落ち着いたチェック柄の短いパンツが引き締まった腰元を形作り、黒いタイツに包まれた艶めかしい太ももの領域を大胆に露出させている。
足元には、編み上げのリボンが甘いアクセントとして施された可憐なショートブーツ。
そこには、格式ばった王族の仮面を脱ぎ捨てた、少女本来の無邪気な躍動が息づいていた。
歩を進めるたびに、ぴょんぴょんと弾むように揺れる金色のポニーテール。
その姿はまるで、どんなに薄暗くて不可解な絶望の事件も、胸躍る冒険のワンシーンに変えてしまうような、力強い太陽の光を放っていた。
◇◆◇
ミリアは、フィオナが自分をそんな温かな眼差しで見つめていることにも気づかず、視界いっぱいに広がる荘厳な廊下の真ん中で、ふと壁際に置かれた花瓶に生けられた不思議な形状の白い花に目を留めた。
「これは……?」
「………遺構化した、不死の薔薇よ。
この屋敷に飾ってあった古い絵画も、通路の銅像も、何もかもがすべて《遺跡》の浸食を受けているの」
その言葉を聞いて、ミリアはお腹が痛くなる。
すぐにでも学園寮に帰りたくなった。
フィオナが壁にかけられた絵画や古びた銅像を通り過ぎようとする中、ミリアはどうしてもその美しさに目を奪われ、その場から足を動かすことができなかった。
「ねぇ、フィオナ………この絵の人………誰?」
「有名な、往年の道化師かしらね」
額縁の脇に輝く小さな金のネームプレートを覗き込む。
「チャップリ…ン、って誰……?」
どこか甘えるように、わざとらしく彼女に問いかけてみる。
こうして互いの距離が少しずつ縮まっていく感覚が、今のミリアには妙に心地よかった。
本当は、もっと早い段階で誰かとこんな風に心を重ね合わせたかったのだと、彼女は今更になって気付かされていた。
「さぁ? 彼が生きていた時代には世界的に著名な道化師だったらしいけれど、あいにく私は芸術なんてよく分からないわ」
「?」
「……それに、この家に道化師はレイド・クラウン一人で十分だっての」
若き魔術師は、その潤んだ淡いピンクの唇から小さな、しかしどこか親愛を帯びた愚痴をこぼした。
道化師………か。
思い返せば、王城での暮らしは常に息が詰まるほど窮屈だった。家族と過ごす時間さえも外交の駆け引きと何ら変わらず、それは互いに仮面を被り合った終わりのない騙し合いの会合、まさしく道化の舞台そのものだった。
屋敷に飾られたどの絵画も、どの彫像も、私に向かって「王女であれ。完璧であれ」と冷酷に命じてくるように感じられる。
時には、その視線の裏側に痛烈な蔑みや、私という存在自体の全否定すら含まれていた。
私は、その呪わしい視線と押し潰されそうな感情から、ただひたすら逃げ出したかった。
決してこれまでの裕福な環境のすべてが嫌いだったわけではない。けれど、王城の氷のように冷たい空気も、前回の学園生活で味わった泥まみれの挫折の感触も、すべてを記憶の底に押しやって忘れてしまいたかった。
だからこそ───あの夜の雨の中で触れた、レイドの温かな手の感触が、彼の振るう自由で容赦のない剣の軌跡が、私の頭のてっぺんから心臓の奥底に至るまで、激しく染み渡っていたのだ。
レイドさん……
◇◆◇
「あのさ」
ふいにかけられたフィオナの低い声に、ミリアの意識は現実に引き戻される。
彼女はすでに、レイドの言葉の端々に隠された歪んだ真理と、その底に流れる確かな優しさを、自分なりに受け止め始めていた。
胸の奥にあるのは、もはや乾いた涙ではなく、言葉にならない微熱だった。小さな胸の痛みをそのまま明るい笑顔のなかに押し込めようとした、まさにその時だった。
「……はぁ。そんなに気を張ってたら、いつか壊れちゃうわよ。抱え込んでるものなんて、全部ここに吐き出しちゃいなさいよ」
「……っ」
フィオナから投げかけられた予想外の言葉に、ミリアはすぐには返答を見つけられなかった。
自分が今、どんな情けない表情をしているのかすら、分からなかった。
「きっとあなたは、誰にも言えない面倒な困難を人一倍多く抱えているんでしょうから………あれだったら、私が何か少しぐらい相談に乗ってあげられるわよ?」
「い、いえ………そんな、特別になんて……」
誰かに同情されたことが疎ましいわけではない。
それなのに、自分でも自分の感情の制御が効かなくなっていた。ただただ、あまりに不憫な自分の境遇に絶望し、そこから這い上がる方法を見つけられずに立ち往生していたのだ。
膝の関節がガタガタと震えだし、ミリアはついにその場に崩れ落ちるように座り込んでしまった。
ぬるいものが上から下に頬を濡らしていく。
潤んだ瞳のふちから、熱を帯びた大粒の涙がポツリ、ポツリと、自分の足元の深紅の絨毯へと零れ落ちていることに気がついた。
初対面同然の相手の前で、こんなにも醜い泣き顔を晒してしまうなんて。
彼女の精神は、すでに限界の境界線を突破していた。
だからこそ彼女は──────目の前にいる、少し冷たくて優しい女性に対して、抑えきれない一縷の救いを求めてしまったのだ。
「本当に、寂しがり屋のくせに強がりなんだから。
───まったく、あのバカと一緒よ。
……だからこそ、あいつもあなたを気にかけたのかもしれないけれどね」
心臓を、冷たい指先でそっとつままれたような、鋭い疼きが走る。
何も言い返すことができず、震える唇が情けなく開閉した。
私とレイドさんが一緒? そんなはずが絶対にない。
彼は世界を掌握するような圧倒的な存在で、私はただ、彼の掌の上で転がされているだけの落ちこぼれなのだから。
「ミリア。あなたって、本当に怯えた兎みたいね」
「っ! ……失礼だよ! 私は兎なんかじゃない!」
カッと熱を帯びた頬が真っ赤に染まる。
からかわれているのだと頭では理解しているのに、レイドのあの悪戯な視線からも、そして目の前の女性が紡ぐ的を射た言葉からも、不思議と逃れることができなかった。
この軽薄な挑発が、ミリアの心臓を狂おしいほど激しく跳ねさせる。気づけば自分はフィオナさんの差し伸ばした手を振り払っていた。
「……ごめんなさい。本気で怒らせるつもりじゃなかったのよ。そんなに痛々しい深刻な顔をしないで」
フィオナの紡ぐどこか不器用な慰めの言葉に触れた瞬間、ミリアの胸の奥底にずっと蓋をして隠していた重苦しい絶望の塊が、一気に堰を切ったように蘇ってきた。
「……あ、あのね、フィオナさん」
ミリアは、かすかに首をかしげて自分の言葉を待つフィオナの瞳をまっすぐに見つめ返し、意を決するように震える声で切り出した。
「実は……、二日後に私、《護衛》のミカエルと手合せという名の決闘をすることになったんです」
「学園外学習……アイツが言ってた通りなのね」
フィオナの表情が微動だにしないことを確認すると、ミリアはさらに追い討ちをかけるように言葉を継いだ。
「……ミカエルは、レイドさんと同じ《七銀聖》の一員で……私にとっては、もう逃げ場のない終わりの運命なんです」
「ああ、やっぱり………そのことだったのね」
フィオナは、まるで予期していたかのように「やっぱり」と息を吐いた。――あなたに私の何がわかるのよ、と、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
その瞬間、ミリアの頭の中でドス黒い邪悪な思考が激しく渦を巻き、歯を食いしばる大きな音が口腔内に響いた。
「……そうよ。きっと学園の上層部にとって、私はただの“厄介な邪魔者”でしかないんだ」
「っ……レイドさんにとっても、ただの気まぐれな“オモチャ”にしか見られていないんでしょうけどね!」
こみ上げる感情に任せ、思わず声のトーンが荒々しく跳ね上がる。嗚咽が漏れ、顎や顔を抑えた手の隙間を伝って、認め難い何かがぬるりと落ちていく。
「勝てるわけがないんです……!
あんな風に力でねじ伏せられて、またあの息の詰まる監禁生活に戻るくらいなら……!」
感情に身を任せたその叫びはあまりにも自虐的で、フィオナをしばらくの間、完全に沈黙させた。
堰を切ったように言葉の濁流が次々と溢れ出し、もう誰にも止めることはできなかった。
「もし、明後日の試合で、前回より少しでもッ張り合えるだけの成長を見せられなければ……」
ミリアはぎゅっと両手を固く握りしめ、痛みに耐えるように目を強く閉じた。
「私は、皇帝陛下の手によって、あの場所へ無理やり呼び戻されてしまうんです」
それは彼女にとって、自らの自由の完全な終焉を意味していた。もう二度と、外の風を吸うことも許されず、あの息苦しい静寂のなかへ永遠に幽閉される。
一度だけこじ開けてしまった宝箱の蓋を、冷酷な手で再び力任せに閉じられてしまうような、得体の知れない恐怖が全身を支配する。ずっとこらえていた感情のダムが決壊した。
◇◆◇
「私……私、もうあんなところには戻りたくない!
この学園で、身分も隠して、普通の友人を作って、泥だらけになって笑い合って、自分の力でちゃんと生きたかっただけのに……!」
震える声が廊下に虚しく反響する。泥まみれになり、幾度も絶望を味わったあの日の記憶が、今この瞬間に鮮烈に蘇ってきた。
「お父様は、私の必死の努力なんて一度だって見てくれない! 私はいつまで経っても役立たずの無能、ただそれだけなんです……っ!」
フィオナは、その言葉に対しても何も否定の言葉を発しなかった。
その代わり、彼女はゆっくりとひざまずき、泣きじゃくるミリアの身体をそっと優しく抱きとめ、その艶やかな頭を慈しむように撫でてくれた。ただ静かに、同じ目線の高さまで屈み、怯えるわたしをしっかりと視線を合わせてくれたのだ。
「もういいのよ。泣きたいだけ、ここで思いっきり泣きなさい、ミリア」
その声は驚くほど静かで、そして昨日の雨の中で聞いたレイドの低い声と同じ、不思議な温かな温度を含んでいた。彼女の細い腕がミリアの背中を優しく、トントン、とリズムを刻むように叩いてくれる。
それはまるで、傷ついた大切な肉親を慈しむような、静かで、しかし底知れなく強い包容力だった。
そして、その圧倒的な優しさの奥には、彼女自身がかつてくぐり抜けてきたであろう、どこか寂しげな過去の影が微かに見え隠れしているようにも感じられた。
「……どうせ、こんな声は誰も聞いていないんだから」
ミリアはフィオナの華奢な肩に顔を埋め、声を押し殺しながら、とめどなく溢れる涙を流し続けた。
誰も真正面から見ようともしなかった彼女の泥まみれの絶望を、フィオナは否定もせず、ただ静かに、すべてを受け止めてくれた。
──────
────
──
どれほどの時間が過ぎただろうか。
やがてミリアがゆっくりと顔を上げると、フィオナの紫色の宝石のような双眸には、嘲笑の色も、安易な同情の色も一切宿っていなかった。そこにあったのは、ただ互いの過酷な境遇を深く理解する者同士の、静謐な共感だけだった。
フィオナはミリアの手を取って立ち上がらせると、その真剣な瞳をまっすぐに見据えて告げた。
「もう、めそめそと泣くのはおしまい。泥を這うような惨めな生活は、今日で終わりにしましょう?」
「でも……レイドさんが…………レイドさんが、きっと私を助けて………くれる、よね……?」
フィオナは細い人差し指で、泣きはらして濡れそぼったミリアの美しい顎をそっとすくい上げ、上を向かせた。
「ひとつだけ、あなたに特別なコトを教えてあげる───」
その指をそのまま移動させ、ミリアの金色の髪が散らばる頭を優しく、けれど少しだけ力を込めて撫でる。
「あの男とはね
“絶対に、甘い約束をしちゃダメよ”
あとで必ず、身を焦がすような悲劇を生むことになるんだから」
──────え?
「さて、ミリア。いつまでもそうやって湿気た顔をしていないで、しっかり立ちなさいよ」
その瞳の輝きは、ミリアに対して明確な意志を命令していた。それは彼女の両親が発する冷酷な支配の命令とは違い、少女のなかに眠るわずかな可能性を信じ抜く者の、力強い命令だった。
「あなたの本当の目的は、その決闘で単に相手を打ち負かすことじゃないはず。
『絶対に、あの冷たい王城に戻らないこと』
───そうでしょ?
目的のためなら正面からの勝利なんて綺麗に捨て去るのが、あの道化師のやり方なのよ」
「そんなの、ずるい手……」
「そう、とびきりずるい手よ。すべての不条理を逆手にとるの─── 私たちの手で、この残酷で儚い物語の最後に、最高に美しいどんでん返しをくれてやるのよ」
ミリアの胸のなかで、先ほどまでの冷たい諦めの代わりに、小さな、しかし決して諦めきれない闘志の中で、小さな小さな炎が熱く燃え始めていた。
「あのさ……フィオナさぁん、、」
「なにかしら?」
「フィオナ、、さんって、私のこと………もしかして、すごく好きなんですか……?」
「はぁ!? ………な、なにバカなこと言ってるわけ? そんなわけないでしょ。そこまで冗談が言えるようになったんなら、ぐずぐずしないでさっさと歩きなさいって」
口から吐き出された冷たい否定の言葉とは裏腹に、彼女の白磁のような頬から耳たぶにかけては、隠しきれない鮮やかな朱色に染め上げられていた。
それが、彼女なりの精一杯の不器用な優しさなのだと気づく。じっと目と目を合わせると、このすまし顔の美少女は、思っていた以上に愛らしくて不器用な人間なのだとミリアは胸を熱くした。
「ほら、とっととリビングに戻るわよ……みんなが待ってるんだから」
「………ごめんな、さい。でも、ありがと」
こんな時になっても、わたしの頬を伝う涙はすぐには止まる気配を見せなかった。彼女に頼るようにフィオナの肩へとそっと身体を預ける。
その時、フィオナは自分の熱を持った頬を片手で恥ずかしそうに隠しながら、何気ないふりをしてぽつりと呟いた。
「……ねぇ、夜になったら……温泉でもどう?少しぐらい…羽を伸ばしたら、気持ちも落ち着くんじゃないかしら」
「うん……………えっ?」
温泉……ある、の?




