フィオナの案内
「ちょっといいかしら」
あれからすぐにフィオナさんに呼ばれ、私とシオンは賑やかなリビングをあとにした。
挨拶程度の当たり障りのない雑談をすませた後、持ってきた荷物を一度“安全な場所”へ預けたいと申し出たのは、他ならぬミリアの方からだった。
「…お客さんでしょ? 荷物くらい預かるわよ───って言っても、2階の寝室に放り込んでおくだけだけど」
今夜私たちが眠るための部屋。到着するまでの馬車の中でレイドが説明していた通り、この旧公爵邸で《遺構》の侵食を受けているのは中庭と玄関口のみであり、構造的に最も安全が担保されているのはこの2階の区画らしい。
「そのぐらいなら、自分で運びますよ」
シオンが小さく首を横に振る。その整った瞳にはわずかな緊張の色が宿っていた。もしかすると、他人に容易に見られたくない厄介な研究道具でも入っているのかもしれない。
「そうね。………嫌なら、自分でやればいいわ」
フィオナがそっと差し出しかけた手をピタリと止める。
その端正な頬が、ほんのわずかに強張っていた。
彼女の瞳の奥に浮かんでいるのは、恐怖とまでは言えないまでも、未知のものに対する微かな警戒と緊張──そんな不安定な感情が入り交じっていることが、なぜか私には痛いほどよく分かった。
「すみません。
じゃあやっぱり、お願いできますか?」
シオンは場の空気を和らげようとするかのように、意図して柔らかな声を投げかけた。それは王城の夜会などで私やシオンがよく使う、処世術としての“社交辞令”だった。シオンは一瞬だけ、私に意味深な目配せを送る。
「ありがとうございます、フィオナさん」
「わ、私も迷惑をかけるわけにはいきませんので、その、一緒に……」
「いいけど。寝室は2階よ」
ミリアはキュッと革製カバンの編み紐を指先で強く握りしめた。こうして同じ寮の仲間として気を遣われているのだと実感すると、胸の奥が少しだけ寂しさに似た熱を帯びる。
ふと、フィオナが「ごめんなさい」と、掠れた呟きをこぼした。
「もともとは、あなたの家なんでしょ? シオンさん」
ああ、そういうことか。
シオンもまた、脳内でバラバラだった点と点が鮮やかに線で結ばれるような感覚を覚えたのか、驚いたように丸くした瞳で私と顔を見合わせ、それから朗らかにフィオナへと笑い返した。
「お気になさる必要は一切ありません!
むしろ……レイドさんたちには感謝こそあれ、不満などありません。皆さんがこの邸宅を利用してくれなければ、今のこの屋敷にこれほどまでの活気が戻ることは絶対にありませんでしたから」
「そう。………それなら、よかったわ」
フィオナが、胸を圧迫していた重石が取れたかのように、深く長い息を吐き出す。
「でも、うるさいだけよ? 勝手に壁をぶち抜いて改造しちゃった場所もあるし………誰も、あなたがいつの日か戻ってくるだなんて……思っていなかったから」
「いえいえ! お気に病む必要はありませんよ、フィオナさん。私が再びこの場所を訪れることができるだけで、十分すぎるほど幸せなんですから。
それに───」
シオンの声のトーンがわずかにくぐもり、フィオナはその続きの言葉を待つようにじっと彼女を見つめた。
「嬉しかったんです。
レイドさんが、私のことを───あんな風に、よく知ってくれていたことが」
「そんな惚気じみたこと言ってると、あの子にまた怒られるわよ?」
フィオナは冗談めかして返したが、その表情は先ほどまでの氷のように冷たい硬質さから解放され、いくぶん柔らかな温かみを帯びていた。
「でも、告白までする必要はなかったんじゃないかしら?シオンさん」
「え?………………あ、へ//// 」
きっとあの時はどうかしていたのだろう。シオンが無言で頬を抑え、頬から耳へ額へ火照るのを見て、私たちも緊張もほぐれたのか、自然と微かな笑い声が響いていたのだった。
◇◆◇
シオンが足早に部屋の奥へと消え、背後で重厚な扉が完全に閉ざされると、自己紹介の喧騒で満ちていたリビングの声はウソのようにピタリと絶え、重苦しい静寂が廊下に舞い戻った。
レイドさんが「この家に来るのが初めてなのは“君だけ”だね」と告げたきり、私たちは分かれて行動することになり、結果として私はこの巨大な旧公爵邸を彼女に案内してもらう流れとなっていた。きっとシオンの方は、邸宅の案内より彼女らと仲良くなるのが優先だと思ったのだろう。抜け目のない友人だ。
外交の場に慣れた散歩気分なシオンとは異なり、いまだに得体の知れない恐怖と気まずさに震えている未熟な私を、レイドが密かに気遣ってくれたのだろう。
もっとも、先ほどの「フィオナ、案内を頼める?」という無愛想な一言によって、その小さな安心感はすっかり打ち砕かれてしまったのだが。
「案内するのはいいけど。……本当に、相手が私でよかったの?」
「は、はい……!」
レイドと二人きりになる甘美なチャンスに恵まれなかった私は、思わず気後れしたように下手に出る。
私だって王族の誇りにかけて、彼女に劣らぬ容姿と気品を備えているという自負があったはずなのに、この屋敷の圧倒的な異質さの前に、プライドのかけらも残っていなかった。完全敗北だ。
入学してから始めて同年代の友人になるのだ、これを機に腹を割って話してみる価値はある。
いや、正直に言えば、私は完全に誰かからの“救い”を求めていただけだったのかもしれなかった。
ただの恐怖心に呑み込まれ、この冷たい空気から一刻も早く逃れたかっただけなのだから。
──────
────
──
◇◆◇
「どうかした?
あぁ、ごめんなさい…………
お手洗いなら、あっちの突き当たりよ」
「あ、違います! そうじゃなくって………」
私は気まずさに耐えかねて、咄嗟に話題の糸口を探す。フィオナさんがいくら大人びていて、同性から見ても目を奪われるほど魅力的だからといって、じっと見つめ続けるのは気まずすぎる。
「レイドさんって、あんな風に誰からも好かれやすい人なんですか?」
凍りついた空気を強引に払拭しようと、私は上ずった声を絞り出した。
「………………大丈夫? あいつに、何か変なことでもされたの?」
「えッ? あぁ、いえ、そうじゃなくて、なんとなく、その……」
これ以外の話題がどうしても思いつかなかった。フィオナはその整いすぎた横顔と涼やかな瞳をチラリと私に向け、小さくため息をついてから淡々と答えた。
「………あれは表の顔だけでしょ。中身は性格の悪いただの皮肉屋、そういう最低な奴なのよ、あいつは」
磨き抜かれた大理石の廊下は、私たちの足音を冷たく跳ね返し、その反響音はまるで「お前たちはここにいるべきではない」と私たちの耳元で囁いているかのようだった。
「フィオナさん、?」
「敬語なんてやめてよ、私たち同い年なんだし。フィオナでいいわよ……って、私自身がうまく言えないけどさ」
「じゃあ………フィオナ、ちゃん?」
「え?」
その瞬間、ぱちくりと長めの睫毛を瞬かせたフィオナが一瞬だけ動きを止め、その常にクールだった整った顔立ちに、かすかな、しかし鮮烈な微笑みが浮かび上がった。
「あなたのその呼び方に慣れるには、もう少しだけ時間がかかりそうね」
そう言い捨てて背中を向けたフィオナは、十数歩先にある階段へと軽やかな足取りで踏み出す。その背中は、どこか嬉しそうに弾んでいるように見えた。
どこか儚く都会的な影を落とす彼女の、あの近寄りがたいクールで美しい静謐な雰囲気が、いまはこの古い邸宅の中で少しだけ揺らめいていた。
◇◆◇
不意に、フィオナさんが再び足を止め、私のほうを振り返った。美しい紫の絹のような髪を踊らせ今度はどこか抑揚のある、優しい響きの声で話しかけてきたのだった。
「なんとなく、気に入ったわ、あなたのこと。私たちもう友達になったんだし、あとで特別に、あいつの秘密を少し教えてあげる」
「……レイドさんの、秘密ですか?」
「できる範囲でね。あいつはきっと、そのうちあなたにひどく残酷な真似をするだろうから………その前に、ね」
「だから、よろしく
───改めて、わたしはフィオナ・フィオーネ」
握手を求めてくる。あまりこういう機会がないのだろう、どこか不慣れな印象が優しさその物のようで、嬉しくなった私は喜んでその右手をぎゅっと握り返した。
「わたしはミリア・レオンハルト。
今日からフィオナさんの友人です」
◆◇◆
噴水庭園
本館と別館の間には開けた小さな噴水庭園があり、月夜の冷たい明かりに照らされると、まるで耽美な絵画のように美しい風景が広がる。しかし夜の闇が深まると、隣接する森から迷い込んだ凶暴な魔物が稀に紛れ込んで徘徊するため、レイド(またはフレア)の腕から離れると、ミリアには危険かもしれない。
◆◇◆
別館
そこには、いつも誰かの気配がする。
不気味な別館は一見すると普通の建物だが、旧公爵家が栄華を誇っていた時代には、足を踏み入れた人間が突然行方不明になる事件が相次いだらしい。何らかの禁忌に触れる訳がありそうだ。悪い呪いや怪異の噂が絶えないため、絶対に近づいてはならない。最悪の場合、遺跡そのものに精神を囚われ、二度と現実へ脱出できなくなるおそれがある。
◆◇◆
フィオナさんはシオンから預かった洒落たデザインの小さな革鞄を、華奢な肩へと掛け直し、何食わぬ顔でこの不穏な豪邸の構造についての解説を再開した。
赤に金縁のカーペットが敷かれた階段を登りきった先で、私たちは2階から下の吹き抜けの玄関ホールへと振り返った。
成人した人間が10人以上並んで余裕で登れそうなほど幅の広い大階段には、縁を贅沢な金糸で縁取られた真紅の絨毯が敷き詰められ、かつては名画が飾られていたであろう巨大な額縁の痕跡だけが、寂しく壁面に残されている。
魔道具のランプが揺らめかせるオレンジ色の微光が、白亜の空間をどこか儚く、そして妖しく照らし出し、今から400年前に建てられた公爵家の絶頂期の繁栄と、当時の退廃的な趣味趣向をありありと伝えてくる。
階段を登ってすぐの左右には、どこまでも続くかのような、階段や廊下と同じようにカーペットが敷かれた長い廊下が伸び、その正面には開放的なバルコニーが広がっていた。
アンティーク調のゴシック建築の意匠がふんだんに取り入れられているのか、繊細なアイアン製の洒落た手すりの向こうには、月光を浴びた美しい噴水庭園や石像、そして一部が気味の悪い蔦に覆われた別館が、かつての文化の名残を感じさせる残酷な美しさを放っている。
階段を上がってすぐの区画にはレイドの私室があり、そのすぐ近くにはよく遊びに来るフレアの部屋、そして他にも用途の知れない秘密の部屋がいくつも隠されているらしい。
そうこうしているうちに私たちの足がたどり着いたのは、重く冷たい静寂に完全に支配された、旧公爵邸の格式高い貴族客室………ではなく、ミリアがどこかで見覚えのあるような、奇妙な気配を纏った部屋の一つだった。
◆◇◆
シオンの部屋
???(シオンが幼少期に暮らしていた部屋)
◆◇◆
その扉の入り口付近に広がる空間は、まるで時間が完全に凍てついたかのような、底知れぬ不気味さと官能的な静けさをまとっていた。
天井から吊るされた豪華なクリスタル・シャンデリアは温かな光を灯すこともなく、幾千もの細かなカット結晶に、青白い月光を虚しく反射させている。
その下の広間へと続く開口部では、夜の底から這い出してきたような冷たい強風が、長大なカーテンを激しく捲り上げ、まるで意思を持つ白い幽霊のように狂おしくうねり狂っていた。
手前に置かれた丸テーブルの上のガラス花瓶には、すでに生気を失い黒ずんだ植物がぐったりと細い枝葉を垂らし、重厚なアンティークソファや豪奢な調度品はすべて、深みのあるモノトーンの深い影の中に沈み込んでいる。
床に敷かれた絨毯の柄や木目が描くうねるような幾何学模様さえも、この部屋に迷い込んだ者の足元を密かに絡め取る漆黒の茨のように見えた。
誰もいないはずの空間に満ち満ちている、気配のない気配。一度足を踏み入れたが最後、二度と元の温かな世界には戻れそうにない――そんな美しくも残酷な絶望感が、広々とした空間の隅々にまで重く、甘く立ち込めている。
案内された寝室のウォークインクローゼットの奥には、人間が一人すっぽりと隠れられそうなほど巨大な黒い鉄製金庫があり、それが客人用の私物や貴重品を保管する場所になっていた。
フィオナがシオンの鞄を丁寧におさめ、ガチャリと一つの鍵をかけるのを確認して、私も同じように自分の鞄を近くの棚金庫に預けた。
ここは客室というよりも、まるで誰かの秘密の隠れ家のようなつくりをしている。
「ねぇ、ところで……私たち『同じA寮の新入生』同士でもあるわけだけど、あなた、そのことちゃんと理解してる?」
「え……?」
大窓の外で、猛る強風に激しく揺さぶられる大木の黒い枝葉がざわめくその無防備な瞬間、私は真横から呆れたように声を再度かけられた。
「………やっぱり、何も気づいてなかったのね」
フィオナさんが額に手を当てる。髪がサラサラと彼女の肩から胸元へ流れ落ちた。
「みんな、A寮の同級生なんですか!?」
「そうだけど?……まあ、シャシャを除けば、ね」
フィオナがふと私の方へと振り返ると、その涼やかな美しい瞳のなかに映る私の顔は、驚きで大きく見開かれていた。
「驚きました……。
え、じゃあシャシャさんだけは、私たちとは違うんですか?」
「どうしてシャシャさんだけが」と言いかけたところで、フィオナは光沢のある紫色の髪を細い指でかき上げ、それを自分の美しい肩の後ろへと無意識ながら色気のある仕草で戻した。
「あの子はね、私たちより“一つ年下”の14歳だからよ」
「そうだったんですね………!?
全く知りませんでした……」
私は思わず息を呑み、信じられないというように大きな声をあげた。
シオンはこの事実を最初から知っていたのだろうか。
やはり、わたしはまた………シオンに一歩出遅れた。




