リビング
アイアン製の重厚なドアノブを軽く握り、冷たい鉄の感触を確かめながら押し開けた瞬間、私は思わずその場で呼吸を忘れて足をとめた。
緊張に震える小さな足取りで踏み出したその先で待ち受けていたのは、格式高い貴族の邸宅という常識的な枠組みを遥かに踏み外した──まるで、忘れ去られた大サーカスの裏舞台と王宮の迎賓館が歪に溶け合ったような、圧倒的な異空間だった。
足元に広がるのは、磨き上げられただだっ広い大理石の虚無。そう、虚無だ。
高い天井からは優美なシャンデリアの残滓が下がり、白亜のリビングルームには低めのソファや調度品が無造作に散らばっている。すぐ傍らには後付けされた艶やかな大理石の新品キッチンが備え付けられているものの、そこに生活の匂いは微塵も感じられない。
空間全体が、邸宅の中心にある広いのになぜかこぢんまりとした美しい噴水庭園から、裏手の別館らしき場所まで直通しているため、肌を撫でる夜気は妙に風通しが良く、どこかひんやりと涼しかった。
庭園の中央には真っ白なアンティークの小さなテーブルと椅子が3脚ひっそりと佇み、その脇では、重たい紅色の無駄に豪華なカーテンが大窓を重々しく仕切っている。
ふと見上げた頭上には、漆黒と白のストリングスが蜘蛛の巣のように放射状に走る、巨大なドーム状の天井が広がっていた──その中心から太い鉄鎖で吊り下げられているのは、幾重ものクリスタルと眩い電球を纏った、二段構えの古めかしい黄金のシャンデリアだ。
きらびやかな無数の光が繊細なカットガラスを激しく乱反射し、室内のあらゆる黄金の装飾をこれでもかと照らし出している。その光景は筆舌に尽くしがたい華美であると同時に、見る者の平衡感覚を狂わせるような、強烈なめまいを誘発した。
この部屋の絶対的な主役として鎮座するのは、濃厚な深紅のベルベットで仕立てられた贅沢なソファセットだ。床に敷き詰められた深い赤の絨毯と呼応するように、気品あるソファやアームチェアが、中心にポツンと置かれたローテーブルに向かって綺麗な円を描くように配置されている。
中央の黄金のローテーブルの上には、踊り子を模した精巧な白い彫刻が無機質に佇み、その濡れたような冷ややかな美しさをいやが上にも際立たせていた。
そして、ふと窓の外へと目をやった瞬間、私の背筋をぞくりと冷たいものが駆け抜ける。
テラスの向こうに広がっていたのは、穏やかな庭園の景色などではなかった。そこにあるのは、荒々しく切り立った先の尖った漆黒の山影。そしてその深い谷間や麓に見えるのは、巨大な白と赤のサーカステント群を思わせる、妖しく微睡む小さな明かりたちだった。
それはまるで夏祭りの屋台か幸せな街明かりのように、暗い悪魔の森の奥へと私の好奇心を誘惑した。
室内を狂おしく彩る豪華絢爛なシャンデリアの光と、窓の外に広がる圧倒的な荒涼、そして非日常の狂気を孕んだ気配。
その強烈なコントラストが、このレイド邸の隠し持つ「ただ者ではない秘密」を、言葉もなく雄弁に物語っていた。
「……これが、レイドさんの家……」
私は完全に言葉を失い、まるでこの絢爛たる退廃の迷宮へと、我が身ごと深く飲み込まれていくような気高い恐怖と歓喜を覚えながら、一歩、また一歩と足を踏み入れた。
ここにきてからどれだけじかんがたったろうか?
これだけの情報量と濃厚な退廃美が詰まった空間で、彼女たちは普段、一体どんな密やかな会話を繰り広げているのだろうか。
その甘美な輪の中に、やがて自分も組み込まれていくのだと想像するだけで、私の胸の奥は疼くような期待に激しく高鳴っていた。
「初レイド邸おめでとう」という、どこか脱力した謎の合図とともに、フレアがパチパチと楽しげに手を鳴らす。
その直後、パーンと空気を切り裂くような盛大なクラッカーの音が響き渡り、レイドの手からあふれ出たキラキラとした銀のテープが、幾重もの軌跡を描きながら宙を舞って私の頭から肩へと降り注いだ。
「あっ……」
でも、そんなの気にならない。
反射的に、乾いた喉を潤すようにごくりと唾を飲み込む。心臓がキュッと縮み、震える。
ひと足先にこの異空間に陣取っていた美しい女子たちが、一斉に私を無言で見つめていたのだ。
気怠げで、しかし抗い難い色気をたたえた彼女たちの視線に囲まれる。
誰もがふんわりと甘い香りを漂わせる髪に、触れれば熱を帯びてしまいそうな柔らかい肌と、むき出しの女性らしい艶めかしさをまとっていた。ここはまるで、魔物の巣くう悪魔の森に隠された、背徳的な楽園そのものだった。
「緊張しなくていいよ、みんな優しいから」
背の高いフレアが、突然私の華奢な肩に腕を回してきて、その豊かな体温ごと強引に引き寄せるように抱きしめてくる。柔らかな胸元から漂う甘い甘い官能的な匂いにクラクラしながら顔を上げると、ニコニコと悪戯っぽく笑う彼女の姿が、視界いっぱいに映る。
それから数秒、幸せの中へと意識が飛んだ。
◇◆◇
フレアさんがシオンと私にこのパーティのメンバーを順に紹介しはじめた。その響く声には、これから始まる甘美な時間への純粋な歓喜が満ちている。
「まず───彼女は、エルちゃん!」
視線の先、深紅のソファの上には、肌の透けるような白いシルクのワンピースをまとった朗らかな笑顔の女性が、まるで幼子のようにちょコンと行儀よく座っていた。
「おはようございます。
………もしくは、こんにちは?でしょうか
貴族のお客さんですか?」
一目でわかることがあるとすれば、それが彼女の纏う人間離れした気配──彼女が間違いなく最上位の血族であるという事実だった。
まるでお伽話の挿絵から抜け出してきたかのような、あるいは古い宗教画の中で永遠の眠りについているかのような、現実感を欠いた神々しい美貌の持ち主だ。
スラリと伸びた美しい足のすぐ隣には大きな木の魔法杖が無造作に立て掛けられ、脱ぎ捨てられた靴が椅子の足元に上品に揃えられている。
その足元には、分厚い魔導書が何冊も重たげに積み上げられていた。本……小説もある。
「ええ、そうね」と私が身構えると、「初めまして」とシオンが手を差し伸ばして抜け駆ける。エルちゃんと呼ばれた子は、その手をジッと不思議そうに数秒見つめると、納得したように握手を交わした。
彼女が体を傾けるたとき、私にはそれがチラリと、見えてしまう。無防備に晒されたうなじや緩んだドレスの胸元には、どこか隙だらけでありながら決して他者を寄せ付けない、自分だけの聖域に浸るようなリラックスした色気が漂っていた。
「エルちゃんが一番馴染みやすいキャラかもね」と、レイドが気だるげに相槌を打つと、「そうでしょうね。貴方を除けば、の話だけど」と、フィオナが冷ややかに煽り返す。こちらも距離がやけに近かった。
「?──レイドさんは優しい方です」
そう言って彼女がふわりと唇を開くと、月の光をそのまま糸状に紡いだような、長く柔らかな白銀の髪が華奢な肩を滑り落ち、動くたびに星屑のような微粒子をまとって静かに瞬いた。
「ええ。知っていますよ」
フフっと、シオンが自然な笑みを作る。
どこか秘密を隠したようなエメラルドグリーンの瞳は、底知れない知的好奇心を宿しているようで、ふいに片目をウインクさせるような愛らしい仕草を見せられると、見ている者の理性を根底から揺さぶらずにはいられない。
優雅にとがった耳は森の賢者のような深遠さと神秘性を感じさせながらも、触れれば柔らかそうな愛らしい曲線を描き、透き通るような白磁の肌の上には、微かに上気したような淡いピンクのチークが浮かび、少女のような可憐さを際立たせていた。
その姿は、まるで異世界の神域から迷い込んできたかのような、高貴でありながらどこか守ってあげたくなるような庇護欲をそそる雰囲気を纏い続けている。
「ハイエルフ………………ですか?」
「凄い、美人………………」
私とシオンの口から、乾いた感嘆の声が思わず零れ落ちる。
生きたハイエルフを間近で見るのはもちろん初めてだったし、人間たちの歴史文献のどこをひっくり返しても載っていない禁断の存在だ。
しかし、その圧倒的な幻想を打ち砕くように、彼女の口元から直後に放たれたのは、その理知的な外見からは想像もつかないほど幼く、無防備な言葉だった。
「ど、どうしてわかったんですかッ」
「!」
「いえ、姿形を見ればどう考えても───」とシオンが半ばで口を閉ざす。緊張に負けたのだ。
その表情は、幾つも年下の少女のように感じる剥き出しの天然さと、濁りのない純粋さに満ち溢れていた。
「ちなみに《職業》は───」と、フレアが面白そうに続けようとした瞬間、
「フードファイターでしょ?」
レイドがからかうような低い声を投げつける。
フィオナさんが呆れたようにレイドさんの顔を覗く。
「ち、違いますッ////」
「じゃあ、なんでそんなに食べるの?」
耳の尖った美しい少女が、カッと顔を真っ赤に染め上げて声を荒らげた。綺麗な眉をハの字に険しく顰め、ふっくらとした唇を大きく尖らせて愛らしく反論する。その拍子に、艶めいた透き通るロングヘアの毛先が、空気を震わせてヒラヒラと色っぽく揺らめいた。
「か、揶揄わないでないでください!!////
───私は、誇り高き《回復術師》ですよっ!!」
◆◇◆
エルちゃん
Lv.4《回復術師》
本名不明。エルフ。誰も知らないが、その正体は隠す必要のあるもの。天然なキャラクターで、辛いものが好き。よく食べる。大好きな人は───秘密。最近の趣味は読書。苦手なものは血とお化けと男の人。
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