零度邸
「お邪魔しま──────っ!」
一歩足を踏み入れた瞬間、視界の端から端までが圧倒的な光の奔流に呑まれる。足元に広がる白と黒の幾何学模様の大理石は、幾重ものシャンデリアの輝きを鏡のように乱反射させ、どこまでも眩い空間を形作っていた。
これが──────旧公爵邸………ッ!
王城のそれをも凌駕する絢爛たる景色に、胸の奥で心臓が激しく波打つ。
重厚な木造りの天井から吊るされた無数の灯りが、純白の壁面に精巧なレリーフの影を落とし、静謐な空間にどこまでも優美な奥行きを与えている。等間隔にしつらえられた観葉植物の深い緑とアンティークのベンチが、長い回廊に穏やかな息吹をもたらし、格式高い邸宅の歴史と静かなる気品が、訪れる者をまるで包み込むように圧倒していく。
「………………いらっしゃい」
「えっと……お邪魔します」
静けさを断ち切るように響いた声の主は、ひと目見れば同性であっても抗い難い魅力を覚えるほどの圧倒的な美貌をたたえた、長い紫髪の少女だった。
徹底してモノトーンで統一された装いが、彼女の持つ儚げな美しさをより一層際立たせている。
トップスに選ばれているのは、過度な露出を抑えながらもかえって濃厚な色香を漂わせるハイネックのブラックブラウス。素肌に纏う繊細なシースルーの生地が、白磁のように滑らかな肌を絶妙な透け感をもって縁取っている。
その上には肩を出して羽織るように重ねられた、落ち着いたトーンのグレーチェックシャツ。ラフに開け放たれた襟元からは、首筋で静かに光る華奢なネックレスが控えめに覗き、美しい鎖骨のラインを鋭く、そして繊細に強調していた。
ボトムスには、深くスリットの入った艶やかなブラックのマイクロミニスカート。歩を進めるたびに揺らめく妖艶な光沢が、すらりとした美しい脚のラインを大胆に暴き出すのだろう。足元にはハードな印象のベルトバックルをしつらえたショートブーツが引き締め役として合わせられている。
この世のどこを切り取っても通用するようなアーバンなスタイル。もしこの装いで街を歩けば、道行くすべての視線が彼女の残影を追いかけるに違いなかった。
「彼女はフィオナ。フレアのパーティメンバーで、オレの親愛なる友人だよ」
レイドの気負わない紹介が終わると、フィオナは紫色の艶髪を指でクルクルと弄びながら、先冷ややかな、しかしどこか含みのあるアメジストのような瞳で私たちをゆっくりと見据えた。
「あがってあがって〜」と、フレアが楽しげに声を弾ませながら、シオンと私を奥へと誘導する。
ここはレイド個人の私邸というよりは、彼らが、あるいは仲間たち全員で時間を共有している特別な場所なのだろう。
ちょうどその背後で、フレアがレイドの袖を愛おしそうに引いた。
その純粋すぎる双眸は一途にレイドの姿だけを捉えていて、その光景を目の当たりにした私は、胸の奥がチクリと疼くような、同時に名状しがたい羨望に似た興奮に近い感情を覚えていた。
◇◆◇
窓の外の世界はすでに深い深夜のような漆黒に染まっているが、レイド邸の本館一階は相変わらず優美な気配に満ちていた。
長い回廊には深紅の絨毯が敷き詰められ、頭上の豪華なクリスタル・シャンデリアが温かみのある琥珀色の光を投げかけている。壁面のブラケットライトが放つ幾重もの古い灯りが、アーチを描く石造りの天井にメリハリのある陰影を刻み、空間全体に厳かな荘厳さを与えていた。
左手に広がる大きなゴシック様式の窓からは、夜の静寂に完全に支配された庭園の闇が覗いている。冷え切った夜気(もっとも、錯覚とは裏腹にまだ午前中なのだが私はもうすっかり夜だと思い込んでいた)の硬質な青と、室内の柔らかな暖色が、窓ガラスを境界にして美しいコントラストを描いていた。
重厚な扉の奥へと続く廊下は、私たちの足音すらも吸い込むような静寂の中に、静謐な緊張感と歴史の重みを漂わせている。
トントンと、幾分リズムのバラバラな足音を響かせながら、私たちはリビングへと歩を進める。
「レイドさん」
「なに? シオン」
「好きです」
その一言で、周囲の時間がピタリと凍りついた。
ただ、漏れた言葉に孕む不確かな愛情を、シオンは何気なく、無防備に曝け出したのだった。
「え?」
シオンは、何を言った?
何を、晒した?
当事者であるレイドはもちろん、その場に立ち会っていた私までが激しい動揺に身を強ばらせる。
「………ありがとう」
あまりにも唐突な、しかし確信犯的な爆弾発言に、私の体は硬直したまま動かない。当のレイドはいつになく戸惑ったように糸目を細め、その歩みをゆっくりと止めた。
「ちょーっと。なに告白しちゃってんのよ!」
たまらなくなったように、フレアがシオンの肩を強引に抱き寄せるようにして物理的な距離を引き剥がす。その頬は、まるで自分が当事者として告白されたかのように、鮮やかな紅に染まっていた。
「ッ───フレアさんっ」
シオンは目を見開き、どこか魂が抜けたような顔で彼女を見上げる。
「アハハ…………冗談です。別に、友達として好き、という意味であって……ただ、言ってみただけです、ごめんなさい───」
「ふーん?」と、フレアは納得いかない様子で目を細める。
肝心の返事をもらえていないというのに、シオンの表情はどこか満足げで、この邸宅に足を踏み入れてからというもの、彼女のテンションは明らかに常軌を逸していた。
そんな妙な空気を心地よさそうに無視しながら、レイドが低い声を響かせる。
「フレア。そのお土産、忘れてない?」
「へ?」
「“冷やすの”、あるんじゃない? と言うか、せっかくの貰い物をダメにしないようにね」
「あ、忘れてた。プリンは冷やさないと……」
フレアは慌てたように小刻みなステップを踏みながら、手に持った紙袋の紐を心許なそうに撫で回す。
「クッキーと……茶菓子は、冷やすの?」と独り言のように呟きながら、彼女が至近距離まで顔を寄せ、そのピンク色の双眸をまっすぐ覗かせてきたため、私は思わず心臓を跳ねさせてしまった。
「どっちでも………………////」
「はぁ………私、先行ってるから」
フィオナが細い腰に片手を当て、あきれ返ったように小さく息を吐き出す。先ほどまでの張り詰めた緊張が解けたのか、彼女の肩の力はいくぶん抜けているように見えた。
「フレアちゃんはレイドくんが絡むと、ポンコツになっちゃうからねぇ」
「……自分で言うか」
乾いた笑いとともに、フィオナは少し離れた場所からフレアを軽妙に茶化すと、すでに目の前まで迫っていたリビングの扉に手をかけた。
慌てる必要など微塵もないはずなのに、フレアはどこか愛らしい小走りで、すたすたと歩き出したフィオナの背中を追っていく。そこには、ほのかに甘い香水の余韻が残されていた。
やがてレイドに促されるまま、私、そしてシオンの順にリビングの重厚な扉へと導かれる。
だが、その閉ざされた扉の向こう側から漂うただならぬ気配を前にして、私たちはどうしても手を伸ばすことができず、その場に立ち尽くすよりほかになかった。
ドアに嵌め殺しにされた白いステンドグラスには、ひどく歪んだ形をした私のシルエットが、頼りなくぼやけて映し出されていた。




