ノエル
女の声。
『───《聖姫の鉄斧》の使用を許可する』
「──────ッ⁉︎、わかりました!実行します!」
破裂音が雨音を切り裂く。
まるで詰め込まれたゴミ箱のようになっている正面ゲートを埋めていたペシャンコの高級車たちを一撃で全て吹っ飛ばす。そして、ノエルは違和感の正体に気づいた。
「そんな──────くっ、、ベル姉さん!! 入れません!!」
ノエルが叫んだ。
豪雨に濡れた金髪が頬に張り付き、その翠瞳が見えない虚空を睨みつけている。
眼前には、視覚的には「無」しか存在しない。
いつものように通り抜けられるはずの、荘厳な石造りのアーチ。
だが、ノエルが手を伸ばしたその先には、不可視の拒絶が鎮座していた。
「なんだとッ!?」
ガンッ!!
ノエルは拳で空気を殴りつけた。
《銀翼》の副団長であるノエルの腕力は並大抵ではない。
しかし、それ以上に殴打の感触は肉を打つそれではない。
石壁よりも、鋼鉄よりも硬質で無機質な、絶対的な硬度。
雨粒さえも空中で弾け飛び、波紋一つ広がらない。
「遺物《透明壁》か……!!」
騎士団長であり、姉であるベルが、苦い毒を吐き出すようにその名を呟いた。
王国院最深部に厳重保管されていたはずの、対・変異体用絶対防御兵装。
強盗や魔物の襲撃から身を守るための壁なのだ。人間如きが素手で破壊できる道理がない。
それを、強盗たちは奪って起動し、あろうことかこの王国院そのものを逆手にとって巨大な鳥籠に変えてしまったのだ。
「確認が取れました!複数人質を取られています!」
「まずい──長期戦になるぞ……………………」
外からは入れない。中からは出られない。
完全なる密室。
ノエルの耳には、分厚い雨音を通りこして、壁の向こう側からの“音”が届いていた。
ガラスが砕ける音、爆発音、そして職員たちの窓越しに響く微かな悲鳴。
彼らが守るべきエミルナ支部長や職員たちが、今まさに蹂躙されている。
目と鼻の先だ。手を伸ばせば届く距離だ。
なのに、この透明な一枚の概念が、世界を残酷なまでに分断していた。
「開けろッ! くそっ、開けろよぉォッ!!」
「ノエル!?」
ノエルは《ハンマー》を振りかぶり不可視の壁に叩きつけた。
──────ガギィン!!!
耳障りな金属音が響き、《ハンマー》が悲鳴を上げて弾かれる。刃こぼれが生じるだけで、空間には傷一つない。
魔術師たちが放つ炎弾や雷魔術も、透明な虚空に吸い込まれるように無効化されていく。
「ノエル! 無駄よ、下がって!」
「でも、姉さん! 中の音が……悲鳴が聞こえるんです! 今行かないと、みんな殺されちゃうかも!」
「分かってる! 分かってるけど、その壁は物理干渉も上級魔術も拒絶するのよ!」
ベル姉さんが唇を噛み締め、血が滲む。
彼女にとっても、ここは庭のような場所だ。その聖域が、内部の武器を利用されて封鎖されるなど、悪夢以外の何物でもない。
ノエルは膝から崩れ落ちそうになった。
降り注ぐ雨が冷たい。全身の装備が、罪悪感のように重くのしかかる。
自分は「銀翼の騎士団」の期待の星ではなかったのか。
目の前で助けを求める職員がいるのに、透明な壁一枚に阻まれて、雨に打たれて吠えるだけ。
圧倒的な無力感。
直後、金の装飾が施された雪のように白いヴェネツィアンマスクをつけた、ぼんやりとした人影が窓辺に立ち、こちらを見下ろし、無関心に目を逸らした。
「う、うあぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
ノエルは獣のように咆哮した。
理性が焼き切れる。
剣を捨て、素手で壁を殴り続ける。拳が腫れ、皮膚が裂け、涙は雨水と混ざって流れ落ちる。
「開け!! 開け!! ……頼むから、中に入れてよッ!!」
子供のような懇願。
しかし、遺物《透明壁》は冷徹に、その願いを拒絶し続けた。
「ノエル!! 何をしてる!? やめろ!!」
「開け!! 開け!! 開け!!」
温厚なノエルが初めて狂乱する様子に、周囲がゾッとして目を見開く。
仲間たちに背後から羽交い締めにされ、ようやくノエルの拳が止まった。
その中心で、ノエルは濡れた前髪の隙間から、燃え盛る王国院を睨みつけることしかできなかった。
雨足が強まる。雷鳴が轟く。
外の世界は、騒音と混沌に満ちていた。
しかし――壁一枚隔てた「内側」には、全く異なる時間が流れていた。
窓からロビーの様子を確認して絶句する。
不気味な道化師たちが、どこかへ消え去っている。
雨足が強まる。
雷鳴が轟く。
まるで、ノエルの慟哭をかき消すかのように。
騎士団が包囲しているにも関わらず、手出しができないという異常事態。
脇の下から腕が伸び、後方に強く引っ張られる。
姉さんたちに羽交い締めにされて、ノエルはようやく我に帰った。
──────起動していたもう一つの《魔導石》からもう一人の女の高い声がしたのだろう、それが意識を覚醒させた。
『…………。
《次元破壊》《物理攻撃》の順番で叩いてみてください。《ハンマー》は通用しますから』
「───!?わ、わかりました!」
その中心で、ノエルは濡れた前髪の隙間から、燃え盛る王国院の正門を睨みつける。
その時、ノエルの手の中で淡い光を放っていた《魔導石》が、パチパチと不自然な火花を散らして激しく明滅した。
可笑しなことに、ノエルの操作を完全に無視して、術式が勝手に書き換えられていく。魔導石のスピーカーからは、ノエルという中継者を完全に蚊帳の外に置いたまま、冷徹な二つの声が直接交錯し始めた。
『――何者だ? 随分と我が騎士団の内情に詳しいようだが……貴殿は、信用に値する人間なのか?』
低く、地を這うような冷徹さを孕んだ、通信の向こうにいる女性要人の声。
それに応じたのは、この大惨事の中にあって、あまりにも不釣り合いなほど軽薄で――それでいて鼓膜に妙にへばりつく、甘ったるい高い声だった。
『ご安心ください、私は決してあなたの敵ではない。ただの……哀れな“預言者”ですよ』
高い声の主は、まるで楽しげな演劇の台詞でも口にするように滑らかに囁く。
その言葉を聞いた瞬間、女性要人の息が鋭く小さく吸い込まれた。魔導石から伝わる緊迫感が、一気に跳ね上がる。
『……なるほど。貴様が、巷で噂の《探偵》か』
冷酷な問いかけに対し、高い声の主は肯定も否定もしない。
ただ、嵐の夜に溶けていくような、不気味で底の知れない吐息を漏らした。
『…………フフ。』
目の前では、絶対に壊れない透明な壁の向こうで仲間たちが蹂躙され、悲鳴を上げている。
それなのに、手元からは世界の命運を握るような、静かで、悠長な、大人の政治の会話が聞こえてくる。
その歪な温度差に、ノエルの張り詰めていた理性の糸が、ブツンと音を立てて弾け飛んだ。
「あ、───あとにしてください!!!」
ノエルは魔導石を怒鳴りつけた。
涙と雨水でぐしゃぐしゃになった顔を歪め、喉が千切れんばかりの声で、暗躍者たちに向けて絶叫する。
自分の無力さを、骨の髄まで味わわされながらも、一矢報いるつもりでノエルは自身の固有遺物を思いっきり振りかぶった。
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聖姫の鉄斧
ノエル・ランスロットの固有アイテムであり、研究済みの武器型遺物の名称。両端はそれぞれ《次元破壊》と《物理攻撃》の異なる極性を持つが、詳細は不明。
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