王国院襲撃
某日pm-××:00
レオンハルト王国 王都北部
旧ラインハルト公爵領───王立国際問題研究院
通称:王国院本部
───◆◇
深夜、
ザ──────ザ──────。
無線が奇妙な音を立て始める。
豪雨が世界を叩き潰すような夜だった。
無言の狂気と、
冷たい雨の中で──────
王都の闇を切り裂く雷鳴の音は深く重く、そして不穏だった。
「はぁ、疲れた」
最奥に位置する、静まり返った資料室。
アンティーク調の革椅子に深く腰掛け、ふぅ、と小さく溜息を吐き出したのは、この支部の長を務めるエミルナ・ルクスだ。
片手に持ったカップからは、淹れたての紅茶の香ばしい湯気がゆったりと立ち上っている。彼女は凝り固まった肩を回しながら、机の上に広げた本日の業務資料に目を走らせ、一日の終わりに溜まった疲労を心地よく落ち着かせていた。
夜の帳が下りた室内は、驚くほど静かだった。
エミルナがふと、休息のために意識を窓の外の夜闇へと傾けた──その時だった。
ジジ……ッ、と鼓膜を不快に震わせる電子音が、静寂を切り裂いた。
卓上に並ぶ監視カメラのモニター群。その中の一画面が、前触れもなく激しく乱れ始める。
バチバチと火花が散るようなノイズの隙間、明滅するモノクロの液晶が、一瞬だけ──本当に、ほんの一瞬だけ、画面の端に“ソレ”の異形を映し出した。
「………………?」
異変を察知したエミルナが、カップを机に置き、鋭い視線をモニターへと走らせる。
だが、彼女が完全に注意を向けた時には、その影はすでに影も形もなく消滅していた。
画面の向こうには、ただ、ザザザ──────……と耳障りな音を立てる奇妙な砂嵐が、まるで永遠に続くかのように冷たく映し出されているだけ。
「何?」
先ほどまで温かかった室内の空気が、にわかに冷たく、凍りついたように変質していくのを、エミルナは肌で感じていた。
突如。足元に一滴の血がポツリと落ちてくる。
「…………?」
弾かれたように視線を跳ね上げ、見上げた、その瞬間。
エミルナの息が完全に止まった。
フロントの中央、天井から吊り下げられた豪華なシャンデリア──その冷徹なクリスタルの輝きのなかに、“ソレ”はいた。
ゆったりと優雅に足を組み、シャンデリアの骨組みに腰掛けているのは、一人の道化師。
じっとこちらを見下ろすその顔面は、あまりにも異常だった。
涙を流し終えた跡のように、目元は境界すら判別できないほど真っ黒なピエロメイクで塗り潰されている。色彩の消えたその無表情は、生身の人間というよりも、精巧に作られた呪いの人形のようだ。
静寂のなか、道化師がゆっくりと腕を動かす。
その細い指先が握る短剣からは、今しがた命を奪ってきたばかりであろう、赤黒い生血がポタポタと床へ滴り落ちていた。
真っ黒な双眸。表情の読めない顔。
道化師は、その血塗られた切っ先を、値踏みするように真っ直ぐエミルナへと向けた。
「え───侵入者──────、?」
その姿はまるでトランプカードのジョーカー。
呆気に取られているその刹那。
絶望的な轟音が、王国院の静寂を粉微塵に吹き飛ばした。
ドガァァァァァァァァァン――ッ!!
──────バリバリバリバリバリバリ
大気を激しく震わせる爆音が轟いた。
正面入り口の重厚な扉を紙切れのように引き裂き、エントランスへ一直線に突っ込んできたのは、ひしゃげた数台の高級車だったものだ。
白煙を上げる残骸から、光沢あるエメラルドグリーンの歪んだドアが乱暴に蹴破られる。続けてボンネットやらトランクやら、そこかしこから這い出てきたのは、真紅や白黒の衣装を身に纏った道化師たちだった。
おぞましい仮面の集団。
エミルナにも、道化師に関する多少の知識はあった。本来は奇術や軽業に長け、観客を沸かせる舞台役者。──だが、目の前の“ソレ”らは、あまりにもかけ離れていた。
獣のように地面についた四肢は、人間のものではないほどに細長く、その異様な背丈は人の倍以上あるようにも錯覚してしまう。
泣きながら笑う歪な仮面と、風にひらひらと翻る衣装。顔を傾け一人一人の職員の様子を笑って見つめる者もいる。
その全身からは、この世界への純粋な憎悪と、どす黒い怒りが煙のように立ち上っていた。
不格好に嵌め込まれた悲劇の仮面──その目元からは、ドロリとした真っ黒な血が絶え間なく流れ落ちている。
直後、凄まじい爆風が吹き荒れた。吹き付けた雨粒が鋭利な散弾へと変貌し、窓ガラスという窓ガラスが悲鳴を上げて一斉に砕け散る。
それは単なる、力任せの蹂躙。
この国の保安の要であり、絶対不可侵であるはずの聖域が、物理的にも、そして精神的にも凌辱された瞬間だ。
高さ10メートルを優に超える巨大な大円柱が、内側から爆砕され、最悪なことに亀裂が共鳴し、ドミノのように倒壊していく。
崩落する正面ゲートの、もうもうと立ち込める噴煙の奥から、奴らは現れた。
硝煙と土砂降りの雨が混ざり合う灰色のカーテンを突き破り、鮮烈な色彩と暴力を纏った異形の群れが、まるで怪物のスタンピードのように、次から次へと王国院の正面ゲートから雪崩れ込んでくる。
『『『きゃああああああッ──────』』』
院内の美しい女性職員たち。
髪や真っ白な制服を振り乱して逃げ惑う。
彼らは人間としての関節構造を完全に無視した挙動で、重力の概念を嘲笑うように、終始無言で跳ね回った。
ある者は血だまりの上を滑るように疾走し、ある者は蜘蛛のように壁に張り付き、またある者は天井のシャンデリアにぶら下がりながら──狂ったバレエを踊るように、廊下を瞬く間に侵食していく。
『な、なに……ひぃッ!?』
警備にあたっていた正装の魔術師が、震える手で杖を構える。だが、それよりも早く、蛙のように跳躍した道化がその背後へと張り付いた。魔術師は悲鳴を上げる間もなく、ゴミ屑のように窓の外へポイッと放り捨てられた。
凄惨な光景はそれだけに留まらない。
中央ホールでは、十数名の仮面たちが手足を複雑に絡め合い、巨大な“肉の車輪”となって回転しながら猛進していた。
ゴロゴロ、バキバキと、自他の骨が砕け散るような、耳を塞ぎたくなるおぞましい音を響かせながら、進路上にある高級な調度品も、必死に剣を抜いた衛兵たちも、すべてを等しく巻き込み、方向を変えながら弾き飛ばしていく。
──普通の強盗ではない。
──並のテロリストであるはずがない。
思い当たる節は──────たった一つ。
「ナポ………………レオン……………………」
エミルナの乾いた唇から、恐怖の象徴が零れ落ちる。
それは、凄惨な恐怖と最悪の混乱を演出するために、1から10まで緻密に計算し尽くされた──“芸術”という名の、悪夢のパレードだった。
廊下は書類の吹雪と、逃げ遅れた者たちの悲鳴で埋め尽くされた。
「ゴホッ──────」
終わりだ、
影が踊り、天井の照明が不自然に明滅し、異界に惹き込まれるかの如く現実感が喪失していく。
ここはもう、王国の心臓部ではない。悲劇という名の演目に支配された、どう見ても極彩色の地獄に違いなかった。
「はっ……はっ、ぁ……!」
王国院・最高責任者、支部長エミルナは、いつもの上品さなど見る影もなく、いまや一匹の追い詰められた小動物に成り下がっていた。
狂気。
最奥の資料室。
逃げ場のない行き止まり。
背中の壁から伝わる冷気が、背筋を凍らせる。
濃青の美しい髪は冷や汗と脂汗で額に張り付き、プライドの高さを象徴していた瞳は、涙でぐしゃぐしゃに滲んでいた。
霞んで前も見えず這いつくばって逃げる。
「……あ、……ぁ……」
彼女の視界の前方、ソレは立っていた。
異様に細身で優美であり、高い背丈を持っていた。
周囲で繰り広げられる狂騒とは無縁の、あまりにも静謐な佇まい。
純白のスーツに、不気味な黒い二角帽子。
そしてその顔面を覆い隠す芸術的なまでに美しいヴェネツィアンマスク。
手には、血の一滴すらついていない白い手袋。
目が…………合った。
◆◇◆
ナポレオン
???
組織名であり、そのボスの名前。
◆◇◆
彼がそこに“ただ在る”という事実だけで、エミルナの呼吸器系は機能を停止しかけていた。
近年たった一つの事件で王国全土に名を轟かせた悪名高い知的犯罪集団の大ボス。
空気が重い。
魔力による威圧ではない。
もっと根源的な、生物としての“格”の違いが、エミルナの肺を締め上げている。
マスクがぐにゃりと曲がる。目元だけを残し、隠されていた口元が覗く。
あまりにも美しく、性別の判明は困難で、人ではない可能性さえある。
───その唇が、微かに弧を描いたように錯覚した。
「ひっ……!」
エミルナの喉がひきつり、小さな悲鳴が漏れる。
逃げなければならない。
戦わなければならない。
私は支部長なのだから。
頭ではわかっている。
しかし、脳からの指令は四肢に届く前に恐怖によって遮断され、膝から下の感覚が消失した。
ガクッ、と音を立てて、エミルナはその場に崩れ落ちた。
へたり込んだ足が無様に広がり、高級なスカートが床に擦れる。
「たす……け……っ、ひぅ……」
助けなど来ない。
外からの悲鳴も、雨音すらも、この空間には届かない。
まるで真空の中に放り込まれたかのような静寂の中、ナポレオンはエミルナを見下ろしていた。
一歩。
ソレが近づく。
革靴が床を叩くコツンという音が、エミルナの心臓を直接殴打しているようだった。
ナポレオンがそっと屈み込む。
白い手袋に包まれた指先が、エミルナの頬に触れるか触れないかの距離を滑った。
冷たい。
氷柱を突き立てられたような錯覚。
『…………
“”血の涙
“”泣き笑う道化の仮面たち
“”エンタシスの柱
“”聞きしに勝る者
“”正面ゲート大破ペシャンコ
“”超高級車
“”翌日のニュース記事
“”証拠写真やメモの貼られた紙の地図
“”赤い糸が蜘蛛の巣状に針う
“”無言の劇
“”極限状態
“”恐怖の演奏
』
その声は幻聴だ。
かち割れるような痛みを伴い、脳内に言葉が流れてくる。
耳元で愛を囁くように低く、甘く、そして絶対的に冷酷な言葉が聞こえてくるようでもあった。
脳の奥に冷たい刃を差し込まれ、かき回されるような感覚が続く。
恐怖が限界を超え、一種の官能に似た錯乱を引き起こす。
視界が白く明滅する。
「あ……ぅ……な…………に」
エミルナの呼気が乱れ、下腹部に熱い痺れが走った。
抗えない生理的な反射。
スカートの下、太腿の内側を、温かくぬるりとした液体が伝っていく感覚があった。
床に広がる染み。
失禁?
王国院の支部長として、エリートとして積み上げてきた尊厳が、音を立てて崩壊する。
皇帝陛下の右腕を名乗れる優秀な自分はもういない。
口が裂けても自分は立派などとは言えない。
だが、羞恥を感じる余裕すらなかった。
ただただ、怖い。
目の前の白い怪物が、自分を捕食するかどうかも分からないという不確定な恐怖だけが、彼女を支配していた。
ナポレオンは、床の染みを見もせず、眉一つ動かさなかった。
侮蔑すらしない。嘲笑すらしない。
ただ、路傍の石を無視するように、興味なげに視線を逸らしただけだ。
恐怖の使者は何もしなかった。
背後には、天井や壁を這って集まってきた踊る仮面たちがうじゃうじゃ踊るように控えている。
違和感。
ナポレオンは支部長をも無視し、重要保管室へと歩を進めた。
その足取りは舞踏のように優雅で、あまりに大股だ。人の足のできる挙動を超越していた。
エミルナの絶望はまるでキャンバスに描かれる絵画のように、残酷なまでに奇妙な悲劇として、今日この日脳裏に焼きついたのだった。
「誰か…………」




