笑う道化
「……わぁ」
回廊を抜けた瞬間、私は思わず足を止め、目を見開いた。
目の前に広がっていた《巨大食堂》は、まるで一つの巨大な温室、いや、深い森そのものだった。
視界を埋め尽くす圧倒的な緑。一つ一つのブースの看板には植物の名前が上品に刻まれており、ホテルのロビーのような高級感と、自然の生命力が美しく調和している。
けれど、何よりも圧倒的だったのは、空間の中央にそびえ立つ一本の巨木だった。
高い天井すらも「狭すぎる」と言わんばかりに枝を広げ、爛漫と咲き誇る巨大な桜。
驚いたことに、その太い幹や枝には、淡い光を放つ《月光苔》がびっしりと群生していた。
昼間だというのに、その苔は木陰の中で青白く幻想的にまたたき、まるで満開の桜をライトアップする天然のイルミネーションのようだ。
花びらが時折、ひらひらと風に舞い、私たちの足元へと落ちてくる。
これまでは別の食堂を利用していたし、前に一度だけ利用したことはあったけれど、その時は緊張のあまり、こんな景色を見る余裕はなかった。季節によって表情を変えるのか、それとも別の食堂があるのだろうか。別世界のような美しさに、私はただ圧倒されていたのだった。
「ミリアちゃん、何食べる? おすすめ教えてよ!」
フレアさんの弾む声で我に返る。
桜の木の下、レイドさんもシオンちゃんも、数歩先で私を待っていた。
喜んでついていく。
王城私室の無駄に広い庭しか知らなかった私にとって、この眩しすぎる景色と、一筋縄ではいかない仲間たちとの時間は、少しだけ怖くて──それ以上に、胸が躍るものだ。
◇◆◇
「カフェテリアですね。ここの食事処は、上品ながらも非常に安価でして、私もよくお世話になっているんです。特に日替わりメニューのハンバーグは絶品で……」
隣に座るシオンちゃんが、慣れた様子で上品に微笑む。
「ミリアさんも、以前に利用されたことがあるんですよね?」
「あ、ええと──どうだったっけ……?」
シオンちゃんの説明を聞きながら、私は気圧されるようにキョロキョロと内装を見回した。
ギルド学園の大食堂は、文字通り規格外に巨大だ。ガラス張りの吹き抜けが三階分ぶち抜きで広がり、その先には王都を一望できる見晴らしの良いテラス席が連なっている。
ここには私をかしこまって出迎える近衛も、影のように付き従うメイドもいない。その事実だけで、私の肌には落ち着かない違和感がまとわりついていた。
窓の向こうには、北の隣国《華ノ国》の文化を取り入れたという、朱色の美しい瓦屋根が連なる王都中央部の街並みが広がっている。
突き抜けるような青空のもと、その景色は昨日よりもずっと鮮やかで、どこか遠い国の出来事のように眩しく映った。
──こうして、空の蒼と、屋根の朱の間に揺れる、温かで儚い刺激を肌に受けていると、ようやく私らしい新しい日常が始まったんだ、という実感が湧いてくる。
ここは、私が全く知らなかった広い世界。
もしかしたら、私がこれから3年間を、誰にも縛られずに過ごしていく世界……だったら、いいなぁ。
「……物寂しそうな顔だね」
「───っ!?」
不意に鼓膜を揺らした低い声。
気づいた時には、横からニュッと伸びてきたレイドさんの長い腕が、私の両肩を容赦なく、けれどどこか優しくギュッと掴んでいた。
強引に引き寄せられた私の視界いっぱいに、彼の読めない糸目の隙間から覗く深淵が至近距離で映り込む。
「もっと楽しみなよ。ここは──サーカスだ」
耳元で囁かれたレイドさんの笑みが、その時、初めて心の底から「怖い」と思った。日常のすぐ裏側に潜む、底知れない非日常の闇を突きつけられたような、そんな鳥肌が立つような感覚だ。
◇◆◇
《蠢く桜》──そう呼ばれるらしい桜の巨木を丸ごと一本中心に据えたフロアには、贅を尽くした意匠の座席が円状に並んでいる。学年問わず誰もが混ざり合える垣根のない良い雰囲気の反面、私たちの席には、周囲の上級生たちからの好奇と警戒の視線が、チクチクと突き刺さっていた。
それもそのはず、私の周りにいるのは学園の注目株ばかりなのだから。
視界を彩るのは、南国のジャングルを思わせる巨大な観葉植物たち。
天井からは、蝋燭の火を模した巨大な魔導シャンデリアが3つ、厳かに吊り下がっており、高価な魔道具がふんだんに空間を彩っていた。
「私がここにいると、ちょっと目立っちゃうからねー」
フレアさんが豊満な胸の前に肘をつき、少し遠くを眺める。その視線の先には、少し離れた場所に固まっているA寮の女子生徒たちの輪があった。
……私がいると、目立っちゃう?
「フレアのせいで友達ができなかったら、あの“りょくちゃ”はまたボッチだもんね」
レイドさんが呆れたように口挟む。
りょくちゃ……? なんの話だろう。きっと、冒険者である二人の共通の知人か何かのあだ名なのだろうか。
「でも、そしたら。レイドくんがまた、あの子に声をかけてあげるんでしょ?」
フレアさんがクスリ、と意味深に微笑む。その女神のように慈愛に満ちた視線が、一瞬だけ、私の不安そうな顔を掠めた。
「さーね」
肩をすくめて返すレイドさん。
背中を預け合い、互いの出方をすべて知り尽くしているかのような二人の空気感は、どこか長年連れ添った夫婦のようにも見えた。
絶対的な信頼。その、誰も立ち入れない二人の絆が、どうしようもなく羨ましくて、胸がチリと焦げる。
本当を言えば、私は元から知り合いも多いし、王城での教育のおかげで成績だって悪くない。人とのコミュニケーションだって得意なはずだった。
なのに、今の私を縛り付けているのは、この胸に居座る重苦しい劣等感だ。
──なぜ私は、この恵まれた力を、自分の意思で正しく使えないのだろう。
でも今は──────関係ないか、
「───どうかしましたか、ミリアさん。
さっきから表情が暗いですよ?」
私の内面の暗い沼を覗き込むように、シオンちゃんが顔を覗かせてきた。手のひらを振って、無害をアピールする。
「……もしかして、緊張されているんですか? それなら大丈夫ですよ、お二方とも、ああ見えてとても優しい方のようですし」
「そ、そうね。ありがとう、シオン……ちゃん」
私は、彼女の艶やかな横顔と、陽光に透き通る淡麗な髪を見つめる。
綺麗で、優しくて、堂々としていて。
「ねぇ、…………その、すごいね」
たまらなくなって、私はシオンちゃんにだけ聞こえるような小声で話しかけた。
「なにがですか?」
「二人とも、あの《S寮》のひとでしょ? シオンちゃん、どうやってそんなに仲良くなったの……?」
雲の上の存在であるS寮生に対して、私はどうしても一歩引いて──────つまり、ビビってしまう。
レイドさんは何やら多彩なメニューに夢中になっているフレアさんをぼーっと眺めている。
私の質問に、シオンちゃんはフフ、と悪戯っぽく、楽しげに喉を鳴らした。
彼女はすらりとした顎に手を当てると、滑り込むように身を縮め、私の耳元にそっと唇を寄せた。
「昨日、色々あったんですよ」
シオンちゃんが、その桜色の淡い唇に、白く鋭利な人差し指をピッと立てる。
───シーッ。
その、同性である私すらもゾクッとさせるような魅惑的な仕草が、昨日私を翻弄したレイドさんの姿に、鮮烈に重なって見えた。似た者同士は惹かれ合う、ということなのだろうか。
私が少しだけ唇を尖らせて睨むと、シオンちゃんは自慢げに笑みを深めるだけだった。
「ねぇねぇ、よかったら、今週末にレイドくんの家にみんなで寄ってみない?」
唐突にフレアさんが、弾んだ声を上げた。
「レイドくんも、別にいいよね?」と、小首を傾げてあざとくおねだりしている。
レイドさんの……家……!?
行ってみたい。強烈に、そのプライベートな空間に興味が湧いた。
でも、私なんかが行ったら邪魔になるかもしれない。
それに───そもそも私には、そんな風にのんきに青春を過ごせるような“時間”は、残されていないのだから。
関わってはいけない。
諦めよう。
そうやって自分に言い聞かせ、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた、その時だった。
一縷の希望を繋ぐように、あの気怠げな声が私の逃げ道を塞いだ。
「俺は構わないけど──ミリアはどうするの?」
「「え……?」」
フレアさんとシオンちゃんの声がハモり、一瞬にして全員の視線が私の一点に集中する。
当のレイドさんは、私の困惑を見透かしたように、意地悪で、ひどく魅力的な笑みを浮かべてこちらをジーッと長く見つめていた。




